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阪神の糸原「一緒にプロに行く」誓ったいとこ「良太がいたから」
プロ野球・阪神の糸原健斗選手が26歳の若さで、今季、チームのキャプテンに就いた。名門・開星高校(松江市)で、ともにプロを目指した、いとことの足跡をたどりながら、キャプテン糸原の原型を探る。(朝日新聞松江総局記者・内田快)
「こいつはすごい。こんなにボールを確実にとらえるバッターはいない。来年も再来年も見にこないと」
2005年の6月ごろ、島根県で開かれた中学生の大会に足を運んだ開星高校の野球部監督(当時)の野々村直通さん(67)は、がっちりした体格の糸原少年に目を奪われた。当時、中学1年生だった。
2年後の大会、3年生になった少年は野々村さんが「うちのレベルでも1年夏からポジションをとれる」と確信するほどの選手に育っていた。なんとか開星に来てほしい。そう願った。
少年の方でも開星はあこがれだった。野球の名門というほかに、「めちゃくちゃ仲良し」の1学年上のいとこ春木良太さん(27)が入部していたからだ。
糸原選手は1992年、3人兄弟の末っ子として、山あいにある雲南市大東町に生まれた。そのおよそ1年前、松江市宍道町で母方のいとこの春木さんが生まれた。母親同士が仲良しだったこともあり、2人は「生まれた直後から兄弟」(春木さん)のように育てられた。
小さい頃、家族ぐるみでディズニーランドにも行き、毎週のように宍道の祖父母宅で遊んだ。春木さんが小学校2年の時、地元のスポーツ少年団で野球を始めれば、糸原選手もならうように、地元のスポ少に入った。
それから、2人は野球にのめり込んでいく。
母の洋子さん(56)はなつかしそうに振り返る。「夏休みに家族旅行に行くか聞いたら、『旅行より練習行く!』と言われて、野球を始めてから一度も家族旅行行ったことないんですよ。グラブを毎日、枕元において寝ていました」
週末になると2人はしょっちゅう、祖父母宅の庭や近くの小学校のグラウンドでキャッチボールをして過ごした。
いつしかこんな夢を語り合っていた。「同じ高校に行って、一緒に甲子園行こう」
中学生になった頃には、2人の野球少年の名前は地域に知れ渡るように。両親は「近所の県立高校に進学してほしい」と考えていたが、糸原選手は「春木良太がいたから」と開星への進学を決断する。
この後、2人は開星でチームを引っ張り、全国を舞台に活躍する。
一つ年上のいとこ、春木さんの後を追って、開星高校の野球部に入った糸原選手は、入部当初から壁にぶつかった。
「ノックしても動けん。打ってもボールは飛ばん。がっくりきた」。成功を確信していた開星の当時の監督、野々村直通さん(67)は振り返る。糸原選手も「余裕でできると思っていたんですけど、ボールが軟球から硬球に変わって慣れの部分で時間がかかりました」。
転機は夏前に訪れた。広島商の監督として甲子園に何度も導いた桑原秀範さんが開星に指導にやってきた。
糸原選手の打撃を見るなり、「うーん、すごいやつだぜ」とつぶやき、ひざの動かし方の指導を始めた。ものの数分で「なんかつかんだ」と糸原選手。その日を境に歯車が再び回り出した。
この年、夏の甲子園に開星は3年連続での出場を果たした。糸原選手はベンチ入りはできなかったが、チームに同行し、「甲子園」に触れた。
秋の新チームで、春木さんがエース、糸原選手が三塁手としてチームを引っ張る立場になった。練習試合でピンチになると、三塁から糸原選手がやってきて、「はよ帰ろうや」とちゃかして春木さんを励ました。先輩・後輩の関係が厳しい野球部にあって、何でも言い合える2人の仲は変わらなかった。
チームが軌道に乗り出すと、「一緒にプロに行く」という目標が現実味を持ち始める。互いに口にしたことはなかったが、糸原選手は「そんなん口に出さなくても。2人とも目指してたので」。
2009年春、2人はセンバツの舞台に立った。相手は慶応(神奈川)。前年の明治神宮大会を制し、「横綱」とも称されていた。
日ハムで活躍することになる慶応の白村明弘投手に、1番打者の糸原選手はフルスイングで向かっていった。「横綱」相手に、ファウルで粘る姿勢に、チームは勢いづいた。
野々村さんは「『どんな投手でも打てるさ』という感じで、一応こっちのサインは見るけど、二度とは見ないんだよ」と糸原選手の肝の据わりっぷりを思い出す。結局、三振となったものの、立ち向かうその姿勢で、チームの闘志に火をつけた。
開星は六回、糸原選手が出塁して作ったチャンスから逆転に成功した。「バッティングセンターみたいに打たれてた」と振り返る春木さんも、足をつりながら踏ん張り、9回を1失点に抑えた。
次の試合で敗れはしたものの、優勝候補を破る会心の勝利だった。2人で戦う最後の「夏」への手応えをつかんだ、はずだったが。
開星高校2年の糸原選手が、信頼を寄せるいとこの3年生エース春木さんと臨んだ2009年夏の甲子園出場をかけた島根大会。4連覇の期待がかかる中、思いもかけない結果に終わった。
初戦で、先発の春木さんは本塁打をあびるなど3回を投げて3失点。糸原選手自身も5打数1安打と振るわず、3―5で敗れた。
「この試合が野球人生で一番つらかったこと」と糸原選手。「めちゃくちゃ強いチームだったんで、余裕ではないですけど、甲子園いけると思ってたので……。良太と野球できたのもその試合が最後になってしまった」
翌春のセンバツは出場を果たしたものの、ここでも悔しい思いをする。21世紀枠で出場した学校に1―2で敗れた。
直後、当時監督だった野々村直通さん(67)が「末代までの恥」と発言し問題化。監督を辞める事態にまで発展してしまった。
「ぼくらが負けたせいで監督が……。もう負けられない」と受け止めた糸原選手は、母の洋子さん(56)に直訴する。
「自主練習をしたいから、学校の近くに住みたい。お母さんを甲子園に連れてってやるから」。実家の雲南市から学校のある松江市までの往復2時間の通学時間がもったいなかったのだ。
めったに頼み事をしないという糸原選手の言葉に、洋子さんはすぐ「いいよ」と答えた。
迎えた3年の夏の島根大会を約束通り制した糸原選手らは、真っ先に野々村さんの家へ行き、優勝を報告した。そして、甲子園では初戦で強豪の仙台育英(宮城)にあと一歩のところまで迫ったものの、逆転負けを喫した。
プロか進学かで迷ったが、「六大学の中でもかっこいいとあこがれていた」明治大へ進学することにした。
明大から社会人を経て、2016年のドラフト5位で阪神に入団した。
高校の卒業文集にはこう書いた。「大学卒業後広島カープに入団し、新人王を獲得し(中略)そして十億円プレーヤーになり車を8台持っていて、家も5つ持っている選手に」
一方、春木さんもプロを目指し、広島経済大に進学した。最速149キロでプロにも注目される存在になったが、在学中のけががもとでプロ入りはならなかった。糸原選手は言う。「一緒の世界でやりたいとは思ってましたけど、まあこればっかしはしょうがない」
今季からキャプテンを務めるが、少年団でしかキャプテンをしたことはない。
小学校で野球と出会って「野球小僧」となって以来、春木さんと励まし合いながら打ち込んできた。強豪を前に、小さく縮こまることなく立ち向かい、かなわなかった夢の後には誰よりも練習に打ち込んだ。名門・阪神の重圧がかかる中、野球に向き合う「姿勢」でチームを引っ張っていくことだろう。
いま、春木さんとはLINEで近況を伝え合う。「良太の子どもの写真が送られてくると半端なくかわいくて、めちゃくちゃ癒やされます」。ともにプロを目指したいとことその子どもの支えを受けて、糸原選手がプロ3年目のシーズンに挑む。
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