コラム
「生きよう」から「生きたい」へ
高校生の頃の僕は、ゲイであることを受け入れられず、死にたいと頻繁に思っていました。何人かにカミングアウトをしてもその感情がしばらく落ち着くことはなく、ウジウジした状態は20歳を超えても続きます。
コラム
高校生の頃の僕は、ゲイであることを受け入れられず、死にたいと頻繁に思っていました。何人かにカミングアウトをしてもその感情がしばらく落ち着くことはなく、ウジウジした状態は20歳を超えても続きます。
ある日、ガードレールのない細い路地を歩いていて、後ろから何台か車が通り過ぎるのを感じながら、目の前の電柱を見たとき、「今ここで車が背中に突っ込んで来たら、この電柱に挟まれて死ぬのかな」と想像し、心の中で呟きました。「死にたくないな」と。
高校生の頃の僕は、ゲイであることを受け入れられず、死にたいと頻繁に思っていました。何人かにカミングアウトをしてもその感情がしばらく落ち着くことはなく、ウジウジした状態は20歳を超えても続きます。
高校時代から長電話を頻繁にしていた友だちには、何かある度に、死にたいだの何だのとグチグチ話していたのですが、ある時ついに「いいかげんにしろ」と怒られ、その瞬間は突き放されたような気にさえなりました。「このままではマズい」「こいつに嫌われたらそれこそ生きていけない」と強く感じ、この日を境に僕は「生きよう」と思うようになります。
では「生きよう」と思えば、同時に「死にたくなくなる」のでしょうか。
僕はたぶん、そこをずっと考えたことがなくて、「死にたい」と思うことは無くなったし、「生きよう」と思い続けることができたのですが、「死にたくない」や「長生きしたい」という感情が実はずっと分からなかったのです。
別の言い方をすれば、僕の中で「生きよう」と思うことと「死にたくない」や「長生きしたい」と思うことは、繋がりのある価値観ではなかったので、考えることがなかったのだと思います。
そんな僕の価値観の中で、『継続』や『時間』という部分に影響を受けたことの一つに、今のブリッジフォースマイルの仕事があります。児童養護施設にいる中高生と関わることができる機会を得て、1年間で驚くほど成長する中高生の姿を目の当たりにできたことは、仕事を継続する価値、時間経過を経て再び会える価値を理解することに繋がりました。また、NPO法人バブリングを運営することで、『未来』を想像したり計画したりすることが増えたことも要因として挙げられます。
継続、時間、未来という価値観に影響のある状態が続いてきたからなのでしょうか、冒頭のように「死にたくないな」と思ったことは、とにかく僕にとって驚くような出来事でした。「死にたくないな」と感じたことに驚いて、何故そんなことを感じたのだろうと考えてみたところ、いつの間にか「死ぬことは怖いことだ」と思っている自分がいることを認識したのです。そして同時に「長生きしたいんだな」と感じ、やっと一般的な感情を手に入れたような気がしました。
もしかしたら多くの人が成長の過程で自然と手に入れてきているであろう「死にたくない」や「長生きしたい」という感情を抱くまでに、僕は何故こんなにも遠回りする必要があったのか、と考えるところもありますが、一方でちょっと嬉しくもあるので、恥ずかしながらここでカミングアウトさせていただきました。「生きたいって思うようになったよ」って。
「生きよう」は意思で「生きたい」は欲求。当たり前のことに、やっと気づいたのかもしれません。
誰かと誰かが反応することで変わる価値観があって、それに向き合うことで発生するカミングアウトの事柄や感情があって、そんな風に人と人が作用する上で強いキーワードになる一つに『家族』があると思います。
【ライター:網谷勇気(NPO法人バブリング代表)】