感動
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「赤ちゃん、泣け泣け」BEGINライブに込めた思いが切ない
バンド「BEGIN」のコンサートでは赤ちゃんが泣いてもOK。そこには沖縄出身アーティストならではの深い思いがありました。

「今はもう、泣いてもいい時代なんだから」
太平洋戦争末期、沖縄は、米軍の激しい攻撃にさらされた。山中の洞窟や壕(ごう)に隠れた島の人たちは、敵に見つからないよう歌うことはもちろん、赤ん坊を泣かせることさえ禁じられた。

沖縄戦、母の涙の意味は…追い詰められた住民
【沖縄戦】6月1日@玉城 壕内で赤ん坊が泣き出した。米兵に見つかると恐れた住民が口々に非難する。「突如として、泣き声が止んだ。母親は(略)肩をふるわせながら、しくしく声をころして泣き始めた(略)その事が何を意味するのか、少年だった僕にはわけがわからなかった」。喜舎場功さんは書く。
— 朝日新聞那覇総局 (@asahi_okinawa) June 1, 2014
朝日新聞那覇総局のTwitterが日付ごとに69年前の「その日」をつぶやき続けていました
Togetterまとめに全文。相当の覚悟がなければ読めない重すぎる証言集です。
沖縄戦は6月だけ起きたわけではありません。69年前のきょう、何があったのか。出来る範囲でつぶやいていこうと思います。
【沖縄戦】5月5日@首里 2日間で約5千人の将兵が死傷。砲弾はほぼ撃ち尽くされた。攻勢中止。牛島満司令官は八原高級参謀を呼び、三度目の持久方針への決心を語る。「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける」
— 朝日新聞那覇総局 (@asahi_okinawa) May 5, 2014
【沖縄戦】5月25日@南風原 陸軍病院が南部撤退。ひとりで歩けない重傷患者はミルクにまぜた青酸カリなどで処置された。ひめゆり学徒の岸本ヒサさんは書く。「『これでも人間か。お前たちのやることは』。両足切断の患者がわめいているのだ。衛生兵はその患者を引きずって、奥の方へつれて行った」
— 朝日新聞那覇総局 (@asahi_okinawa) May 25, 2014
【沖縄戦】6月6日@真壁 午後5時ごろ。当時15歳の富名腰朝輝さんは岩陰に潜む家族と離れ、タコ壺を掘っていた。突然、すさまじい爆発音。母サワ、姉ヨシ、弟朝一、朝永、朝勇、妹アキ、チヨ子さんら9人が即死した。「体の震えが止まらなかった(略)放心状態になり何もすることが出来なかった」
— 朝日新聞那覇総局 (@asahi_okinawa) June 6, 2014
「いま、僕たちは幸せに生きていますよ」
01年から始めたのが「うたの日コンサート」だ。沖縄戦で組織的な戦闘が終わったとされる6月23日は「慰霊の日」。その翌日を島に歌が帰ってきた日、「うたの日」と自分たちで決めた。
ほかにもこんな人たちが語っています

(中略)命のつながりを初めて実感する思いでした。祖父が生き残ってくれたからこそ、わたしの親がいて、わたしがいる。沖縄では「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」とよくいうけれど、本当にそうなんだなと。

(中略)戦争中も、明日のご飯や、恋人のことを心配していた人がいたんです。いまと同じように。そうやってとらえて初めて、なぜ、戦争に突き進んでしまったのか、という大切なことが考えられると思う。

幼いころは正直、母親らの話を遠い昔のこととしか聞いていませんでした。でも少しずつ、そうした話がとても大切なことなんだと気づくようになりました。

【宮沢和史さん】「島唄」は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。91年冬、沖縄音楽にのめり込んでいたぼくは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い(中略)激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になったことを知った。(中略)極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。