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連載

#14 #医と生老病死

僧侶は「死」・医者は「病」のプロ? 生老病死を見つめて生きるには

「あの世はありますか」と問われたら…

医師たちが、僧侶を招いて「死」や「病」をテーマに語り合いました
医師たちが、僧侶を招いて「死」や「病」をテーマに語り合いました 出典: ※写真はイメージです Getty Images

目次

わたしたちが必ず経験するのに、なかなか深く考える機会のない「生老病死」。お坊さんは「死」、お医者さんは「病」のプロフェッショナルなのでしょうか? 大切な人を亡くした人から、「あの世ってあるんですか」と問われたら、どう答えますか? 僧侶と医師たちが語り合いました。

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連載 #医と生老病死
SNS医療のカタチTV2022:
2022年9月4,11日、有志の医師たち「SNS医療のカタチ」やボランティアによって配信されたオンライン番組。この番組内で、医師と僧侶が語り合うトークセッションが開かれました。
9月末まで「SNS医療のカタチTV2022」アーカイブ視聴ができます。配信申し込みはこちら(https://peatix.com/event/3352829/view)から

「生老病死」をしっかり見つめて生きてほしい

浅生鴨さん(MC): 仏教で「四苦」と呼ばれる「生老病死」について、医者が現役のお坊さんにお話を伺っていこうというセッション。今年、お話を伺うのは曹洞宗・普門寺副住職の吉村昇洋さんです。

昇洋さんは副住職としてだけでなく、臨床心理士として病院に勤務されながら、コラムを書いたりテレビ出演されたりと大活躍でいらっしゃいますけれども、そのエネルギーはどこにあるんですか?
吉村昇洋さん(僧侶): やっぱり簡単に言うと、仏教は面白いからですね。

仏教は本当に面白いのに、その面白さが残念ながらあまり伝わってないという印象がありまして。それをちゃんと伝えたいなってところですね。

 

浅生鴨(あそう・かも)さんのプロフィール
作家、広告プランナー。ゲーム、レコード、デザイン、広告、演劇、イベント、放送などさまざまな業界・職種を経た後、現在は執筆活動を中心に、広告やテレビ番組の企画・制作・演出などを手掛ける。(https://twitter.com/aso_kamo

 

吉村昇洋(よしむら・しょうよう)さんのプロフィール:
広島生まれ、曹洞宗八屋山普門寺副住職。公認心理師・臨床心理士・相愛大学非常勤講師。臨床心理士として広島県内の精神病院でも勤務。禅仏教や臨床心理学、精進料理、仏教マンガに関しての講師、執筆活動を積極的に行う。朝日新聞ポッドキャスト「お坊さんに聞け」にも登場。(https://twitter.com/Shoyo_Y
ヤンデル先生(病理医):この「面白いを伝えたい」という感覚がもう前面に出た、朝日新聞Podcastの番組を聴いたんですよ。

お坊さんのしゃべるものだから、仏像とか念仏の話かなと浅い理解で聞きに行ったら、昇洋さん、「異世界転生もの」の漫画がお好きなんですよね。

面白さを伝えるコメントが次から次へと。まさかそんな角度でこんなに楽しめるか、と驚いて、番組にどハマりしました(笑)。
鴨さん(MC): 昇洋さんは著書で「気にしない生き方」を提唱していますよね。

ただ、普段、生きてる上で、特に「生老病死」を気にしないでいられるものでしょうか。
 

吉村昇洋著『気にしない生き方』(幻冬舎エデュケーション新書)
昇洋さん: タイトルは私がつけてない、という事情なんですけど(笑)。実は「気にしない」一方で、しっかりと気にしてほしい部分もあるんですよ。

「生老病死」って、「生きる」のが「苦」とよく勘違いされているんですね。あれは「生まれる」ですね。「生じる」ってことです。

生じること、老いること、病になること、死ぬこと。この四つの、人間の通っていく営みの話です。

仏教では、それをしっかりと見つめないと、ダイナミックな生にはならないと考えるんですよね。


いま現代社会では、「死」を徹底的に排除してきたことによって文明がどんどん発達してきた面があります。

「この先ずっと生きていく」ことを前提することで、文明が発展した部分はあるんですけども、「それだけじゃなくて、しっかり『死』を見つめていきましょう」「他者の死から想像しながら、自分の死が一体どういうものなのかということを常にとらえ続けよう」と。

しかし、それでも「死」というものが分かるわけではない。やはりここが非常に面白いところだと思うんですね。

自分で経験しない限り分からない。でも経験したからといって分かるわけでもないかもしれない。

そうすると、死がどういうものなのかを「捉え続けようとする営み」が大事になってくるんです。

「四苦」と言われる「生老病死」は、すべて自分の中に起こる、自分の思い通りにならないもののことです。

それをしっかりと日常の中で見つめていけるかどうか。
本の中ではそれを提唱しています。

僧侶は「死」、医者は「病」のプロ?

たらればさん(編集者):
必ず全員が通るのに、「死」ってよく分からないですよね。

病のことなら一応、お医者さんがプロフェッショナルですよね。僕より僕の病に詳しい。たぶん。それもあって、死についても「自分の死について自分より詳しい人がどこかにいてほしい」という欲求が強いと思うんです。不安なので。

だから、僕のかかりつけの先生だったら、緩和ケア医だったら、お坊さんだったら、もしかしたら僕がどうやって死ぬのか知っているかもしれない。

僕は「僕の死」について聞きたくてたまらないんです。僕がこの企画に参加し続けてるモチベーションの一つでもあります。
西智弘先生(緩和ケア医): 医師って、「疾病」という意味だと専門家ですけど、「病(やまい)」ってしてしまうと、意味合いが変わってくると思います。

疾病の体験や苦しみまで、医者がカバーできているのか?

まだまだ不十分だと思いますし、医者だけではどうにもできない部分があると思うんです。


だからこそ、いまターミナルケアでも「宗教的なものの関与が必要ではないか」という話が出てきてるってことなんだと思うんですけど。
 

仏教で「死」を問うことはナンセンス?

鴨さん(MC): 昇洋さんは僧侶として、死や病と向き合うのと同時に、科学者として病院で認知行動療法をされているんですよね。ご自身の中で折り合いってのはうまくつくものですか。

昇洋さん: 「認知行動療法」は生きてる人を、どうやったら改善していくのかを追求する学問です。しかし実は仏教学も、「亡くなった方への何か」というよりは、生きてる人にどうアプローチしていくのかってことを問題にしています。

仏教教理からすれば、「死というものについて問うことはナンセンス」です。お釈迦さまに「死んだらどうなるのか」って質問したら、答えは「無記」だったんです。

これはお釈迦さまが答えを避けた、ということで、「そんなことを考えてもあまり意味がないから、さわるな」とされているんです。

「死」について何か言うことはないけれど、しかし文化的には、亡くなった方の葬送という役割を担っています。

例えば「霊魂」という言葉。私達も亡くなられた方のお位牌で、ご戒名の後に「霊位」と書いたりしてます。

お釈迦さまがナンセンスだと言った「霊」の存在だとか、そういったものを取り入れながらアプローチをしていたりするんですね。

根拠のないあやふやなところを、どう整合性をつけてやっていけばいいのか。問い続けることが大事だと思っています。
「生老病死」との向き合い方を語り合ったトークイベント。左から、たらればさん・昇洋さん・ヤンデル先生・西先生・鴨さん
「生老病死」との向き合い方を語り合ったトークイベント。左から、たらればさん・昇洋さん・ヤンデル先生・西先生・鴨さん 出典: 水野梓撮影

お盆にご先祖様が帰ってくる?

昇洋さん: つい先日、お盆がありました。お盆っていうと、亡くなられた方が戻ってこられるという習俗ですよね。

元々仏教にあるものではないんですけれども、歴史と共にそれが取り入れられて、日本の中でも「ご先祖様が帰ってくる」という話になり、しかも仏教行事としてやるようになりました。

この「ご先祖様」をどうとらえていくのか、宗派によって考え方が全然違うんですよ。

霊という存在を思いっきり肯定する宗派もあれば、完全に否定する宗派もあります。私たち曹洞宗というのは、そこは「△」なんですね。

教理的に「ある」とは言えないけれども、習俗的にはあるから、それをないがしろにはできないですね、という立場なんですよ。

鴨さん(MC): その風習をしている人を大事にしていこうっていう形なんですね。

昇洋さん: それぞれの立場があるので、否定するところがないがしろにしているかというと、そうでもないですよね。とりあえず現実に行われていることを受け入れるというのが基本姿勢ですね。

死への「物語」 極楽や浄土はある?

西先生: 人は、死に向かっていくなかで物語が必要なのではないか?と、たらればさんとも話していたところです。

たとえば仏教だと、あの世にいったら極楽や地獄にいくという「浄土思想」だと思いますが、仏教界ではどんな扱いなんでしょうか。

昇洋さん: 仏教は歴史的にはインドのヒンドゥー教の影響をすごく受けています。その時々でいろんなものを集めながら、中国から日本にやってきたかたちです。

さらに元々の土着の信仰みたいなものと結びついていくんですね。

鴨さん(MC): ぜんぶ理屈だけではいかないってことですよね。

昇洋さん: 「物語」の力は本当に強くて、それで救われる方っていらっしゃるんですよね。

だからこそ、その救われている物語を「正しい」と認識したいのが、人間の性だと思います。

それを理論づけしていくと、どんどん経典が膨らんでいって、宗教的な営みとしての流れになっていくんだと思いますね。
(左から)僧侶・昇洋さん、病理医・ヤンデル先生、緩和ケア医・西先生、MCの鴨さん
(左から)僧侶・昇洋さん、病理医・ヤンデル先生、緩和ケア医・西先生、MCの鴨さん 出典: 水野梓撮影

「あの世はあるんですか?」その意図は

ヤンデル先生: 毎年お坊さまに死のことをお伺いすると、多かれ少なかれ「我々にも分からない」っておっしゃるんですよね。

昇洋さんは以前、Twitterスペースで「自分は曹洞宗、あるいは仏教というOSをインストールしている」とおっしゃってたのが印象的でした。

多分、医者にも何らかのOSがインストールされてるんですけど、仏教ほど、普遍に対して開いてないところがあるのかな、と思います。

昇洋さん: つい先日、お子さんを亡くされたご家庭の法事がありました。ちょうどお盆だったので、「お盆のときには戻ってこられるんですよ」といった一般的なお話をしたんです。

するとお父さんが「極楽だとか、仏の世界だとか、地獄だとか、いろいろあの世の話をされるけれども、本当にあるんですか」っておっしゃったんです。

普遍的な仏教なら「ある」を前提に話をしてるわけですよね。だけど、それは私の中でも確証がない。確証はないので「そういう話になっています」としか言いようがないんですよ。

「そういう物語があります」という提示の仕方しかできてなくて。でも、大事なのは「それを聞いて(提示されて)どう思われますか?」ですよね。
僧侶の吉村昇洋さん
僧侶の吉村昇洋さん 出典: 水野梓撮影
ヤンデル先生:その人が受け止めたときのリアクションをご覧になるということですね。

昇洋さん: そんな質問をされるということは、当然「あの世がある」なんて信じてないんですよね。

おそらく、苦しみややるせなさ、そういった思いがおありになる。そこをフォローするのが、本来の僧侶の役割なんですよね。

鴨さん(MC): 今ここにいる人の気持ちをどうするのか。

昇洋さん: 僕は臨床心理士でもあるので。言葉の意味じゃなくて、言葉を発した意図を探らないといけないんですよ。どういう意図でこの方は、その言葉を選んで発言されたのか。

「そういう世界はあるんですか」っていう質問の言葉の裏にある、つらさや何か。

私たちに質問したということは、それだけつらくて、こちらに何か言いたい気持ちがおありになったんだと思うんです。言葉をいくつか交わし、「そういうお気持ちになってるんですね」と受け止める。

死と向き合っていく、葬送・儀礼をプロフェッショナルとして行っている人間からすると、そこまでフォローするのが大事なのかなというのは、常に考えながらやってますね。

西先生: その人が亡くなったあと、ご家族が「その人の存在がどこにあるのか」をどう受け止めるかどうか、という話だと思いました。

よく日本人は「無宗教だ」といいますが、一方で、天国や極楽、「あの世から帰ってくる」「千の風になる」といったことは、結構すんなり受け入れられる人が多いじゃないですか。

浄土とかそんな世界がないと思っているそのお父さんは、死後のその人の存在を、どう納得させているんでしょうか。

昇洋さん:先ほどのお父さんに関しては、「まだ定まらない」っていうのが答えですよね。

今現時点で定まらないとしても、それは時間をかけながら、その方その方で納得していかざるを得ないんだと思うんですよ。

「死後のその人の存在」について、明確な答えが仏教にあるかと問われたら、宗派によってはあると思うんです。

浄土真宗さんとかだったら、教理としては「確実に極楽浄土へいってますから」とパッと言えます。

ただ、その宗派の皆さんが実際にそう答えるかというと、状況に合わせて、あるいは私のような対応をされる方もいらっしゃると思います。

どれだけ強い物語があろうと、それを納得できるかどうかというのは、個人個人のお話になってくるんです。それを時間をかけながら、僧侶がお手伝いできるかどうか。

ありがたいことに私たちは、初七日から四十九日・百カ日があって、一周忌があって、三回忌・七回忌と定期的に関わる機会があるので、お話を聞いてお手伝いができるんですね。

そもそも「死後」や「死」についてズバッと切り込んでいけるのは僧侶ぐらいですよね。

何年か経つうちに、少しずつ、その方その方の営みの中で変化していく部分があると思います。それをいかに支えていけるかどうか、ですね。

古典作品の「出家」は「死」への〝バッファー〟?

鴨さん(MC): たらればさんは死ぬのが怖いですか?

たらればさん:
怖いかどうかも、分からないですね。もう現実感がないというのが正直なところ。

鴨さん(MC): 自分が死ぬときに、どういう物語を投げてほしいですか?

たらればさん:
ほとんどの人と同じだと思いますが、「自分の人生に、なんらかの重みがあったのではないか」と、できれば確信したいなと。これがファーストプライオリティーかな。

源氏物語を含めて古典作品を読むと、登場人物が病気になったり年老いたりして、みんな出家したがるんですよ。

出家すると現世と切れるので、これは「死」の間とのバッファー期間だったんじゃないかなと思いますね。

一方で、死んでも霊になって出てきたりもする。死がパチンと切れているのではなくて「間」があるんです。

「いっぺんに死について考えなくていいですよ」「バッファー期間がありますよ」としのいでいたのかもしれない。

生きているうちに、お坊さんと話して、仏門に入ってお経を唱えて……ということが社会的装置として機能してた時代が長くあったんだなぁと思ったんですね。

ヤンデル先生: それって、昔の死が今より更に容赦なくて、唐突に訪れて、急激に悪くなるもので、目の前で急に現れる「死」が多くあったときに必要なバッファーだったのかもしれませんね。

今は、健康な時期を過ぎたときの「死に向かっていく」部分や「死」をマスクしていて。長い老いの部分が社会から隠されている状態という気がします。

だからこそ昔のような出家がなくなったのかもしれないな、とも思いました。

同時に、たらればさんのおっしゃった「生きてる時からお坊さんのような方々にアクセスする」というのは、ちょっとしたライフハックにも聞こえたんですよ。
ヤンデル先生(中央)
ヤンデル先生(中央)
たらればさん:
これって誰も悪くないんですが、今は、病院でお坊さんが歩いていたら僕でも「ちょっと縁起が悪いな」と思ってしまうんですよね。

お坊さんが「死」の担当になったことで、日常から切り離された感があるなとは思いました。

家族が例えば寝たきりになって死にそうなときに、「ちょっとお寺に行って話聞いてくる」とは言いづらいですね。

官僚だった「お坊さん」が、死を扱うことに

昇洋さん: 昔の僧侶って「官僚」だったわけですよね。国家鎮守や、外交官としての役割を担っていたんです。

なぜ死のことを取り扱うことになったかというと、人々がのたれ死んでいた、それを「聖(ひじり)」と呼ばれる民間仏教者の人たちが、「これはあまりにもむごいから、手厚く葬ってあげよう」と運動するようになった。それから仏教と死というものが結びついたんです。

民間に入って、「死」のことをやるようになりました。すると「死」のイメージがついて、衣の黒い色がそうさせるのかもしれないんですけど、縁起の悪いものになってしまって。

まだ一部ですが、民間の病院では「臨床宗教師」としてターミナルケアを担い、チャプレン(教会外で働く牧師)のようなことを始めた、といった動きはありますね。
出典: 画像はイメージです Getty Images
鴨さん(MC): 本来、宗教者というのは、有事のときではなくて、日ごろからその町の相談役というか、ある種カウンセラーとして機能していたんですよね。

分かりやすいのはキリスト教で、罪を告白したりする。本来そういう機能があるはずなのに、どうも日本の仏教は「ちょっとした悩みを聞いてもらうチャンネル」が減っちゃったのかなという気はしますね。

昇洋さん: 寺の取り組みが、いろんな仕事として細分化していったんですね。たとえば寺子屋は、学習塾ができて機能が離れていきました。

昔は公民館のように、人が集まって何かをしていく場でもありました。それが壊れていって、いわゆる「葬式仏教」と揶揄されるように、お寺の経営や営みが中心になった部分がありますよね。

でも、コロナ禍で活動が制限されているものの、いろんなお坊さんがこれまで坐禅(ざぜん)会を開いたり、寺ヨガを開いたりしているんですよ。本堂で仏様に見守られながらヨガするんです(笑)。

私は精進料理の専門家なので、イベントをやったり、お教室をやったりとか。そんな風に仏教に触れる「入り口」をつくるお坊さんって、今結構いらっしゃるんですよね。

そこで仏法を説くことはほとんどありませんが、最初は体験の中で仏教に触れてもらいながら、もし興味を持てば、いくらでも話しますよ、という構えです。

まずはお寺に足を運んでください、体験してみてくださいということから、その上で知りたい方はどうぞ、と。やっぱり押しつけたり押し売りしたりすると、皆さん離れていくので。

お寺を場所として開放してやっていくかたちで活動していることが多いですかね。

鴨さん(MC): もう1回、ある種、公民館的な機能を取り戻そうと、みたいなところもあるんですね。

たらればさん:
なんだかコミュニケーションの話になってきましたね。
※記事は後編に続きます

【後編】語る仏教から「聴く」仏教へ 人生100年時代の「老」との向き合い方
SNS医療のカタチとは:
「医者の一言に傷ついた」「インターネットをみても何が本当かわからない」など、医療とインターネットの普及で生まれた、知識や心のギャップを解消しようと集まった有志の医師たちによる取り組み。皮膚科医・大塚篤司/小児科医・堀向健太/病理医・市原真/外科医・山本健人が中心となり、オンラインイベントや、YouTube配信、サイト(https://snsiryou.com/)などで情報を発信し、交流を試みている

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