連載
#15 名前のない鍋、きょうの鍋
レモングラスとレタスで夏の香り… 旅好き夫婦の〝名前のない鍋〟
おともは故郷の焼酎「お湯割り」
みなさんはどんなとき、鍋を食べたくなりますか。
いま日本で生きる人たちは、どんな鍋を、どんな生活の中で食べているのでしょう。そして人生を歩む上で、どう「料理」とつき合ってきたのでしょうか。
「名前のない鍋、きょうの鍋」をつくるキッチンにお邪魔させてもらい、「鍋とわたし」を軸に、さまざまな暮らしをレポートしていきます。
夏だって、鍋を食べたい……。この時季にぴったりな鍋をつくる、ふたり暮らしの女性の元を訪ねました。
原優子(はら・ゆうこ)さん:1969年、鹿児島県生まれ。現在、東京生活16年目。ウェブマーケティング会社でディレクターとして働いている。趣味は旅、ロックやヘヴィメタルが好き。夫とふたり暮らし。
あちこちでアジサイが盛りである。
スーパーマーケットの棚には梅の実が並び、トマトやズッキーニがどんどん手頃な値段になってきた。最高気温が日ごとに上がっていく中、本連載のテーマは「鍋」である。これからの時期、鍋をされる方は少なくなるだろう。担当編集さんは「冬までお休みにしましょうか……?」なんて言ってくるし。さて、どうしたものか。
なんて逡巡をツイッターでつぶやいていたら、リプライをくださった方があった。
「鍋は季節を問わずやりますよ。サーモンとハーブの鍋や、花椒を使った鍋とか。あ、これから出番が増えるのはレモングラス風味の鍋です」
読んだ瞬間、「あ、見せていただきたい」と思った。これは長年SNSをやってきた勘でしかないのだけれど、相当に食べることが好きで、人間的にも信頼できる方に感じられたので、すぐに取材をお願いした。
リプライをくれた原優子さんは、新宿にわりと近い中央線沿線の住人だった。ご自宅に入れてもらうと、鍋の準備がすっかりできている。たっぷりのレモングラスとニンニクの香りがあざやかで、鼻に心地いい。
「料理研究家のエリオットゆかりさんのレシピを参考にして、もう10年以上は作っている鍋です。このあたりは、アジア食材が買いやすいのもいいところ。レモングラスは冷凍できるので、大体常備しています」
原さんは鹿児島の国分市生まれ(2005年に合併されて現在は霧島市)。料理はもともと好きだったようで、大学生の頃から独学でやり始めたという。
「その頃に祖父母が入院して、母がつきそっていたので、家のごはん作りをやらなきゃいけないというのもあったんです。でも、母が作らないようなグラタンやチーズケーキなんかを作ってみたい気持ちがあったので、楽しかったですね。小林カツ代さんの大ファンでしたし、甘いものはマドモアゼルいくこさんの本を参考によく作っていました」
台所は調理道具がいっぱいだった。それぞれ取りやすいよう、工夫して配置され、棚も考えて設置されているのがうかがえる。
何かを取るとき、ほぼ動かず手を伸ばせば済むようになっていた。うーん、使いやすそう。さながら「キッチン・コックピット」である。
材料はレタスが1玉とたっぷり! レモングラスに豚しゃぶ肉と豆腐、好みのキノコ。肉とレタス以外はその日の気分と、青果店の店頭に並ぶものによって変わる。味つけはなんと塩のみ!
「このシンプルさが夏に向くんですよ」と言いながら、手際よく野菜類を切っていく。
先に鍋に水を張って、刻んだレモングラスとニンニクを10分ぐらい煮ていく。部屋の中にアジアンな香りが満ちて、ちょっと旅気分が高まるというか、エキゾチックなムードになる。うーん、夏向きの香りだ。
ちなみにレモングラスはイネ科の植物で、レモンそっくりの香りが特徴。タイ料理ではよくスープなどの香りづけに使われるハーブである。
「以前はバックパッカーのようなこともしてたんです。タイやベトナム、スリランカなどあちこち旅しては市場や屋台をまわって食べて。気に入ったものを帰ってきて再現して作ってみたり」
友人の紹介で出会った夫の宗男さんも大の旅行好き、優子さんが38歳のときに意気投合して結婚した。
「そういえば初めて出会ったときに食べてたのも、鍋でしたね」とのこと。ごく一般的な寄せ鍋だったそうだが、そのときご縁も引き寄せたわけである。
しっかりとスープにレモングラスとニンニクの香りが移ったところで、具材を入れていく。
豚肉もレタスもあっという間に火が通るので、すぐに食べられる。キノコの香味に肉のうま味も加わって、さっぱりとしながらも複雑な味わい。
レタスはスープやチャーハンの具材にしてもおいしいけれど、こんなふうに鍋の具にするのもいいものだなあ。シャキッとした食感はそのままに、エスニックな風味をまとったレタス、実にいい。1玉があっという間になくなっていく。
ちなみに中央のネギのようなのがレモングラス。食べるわけではなくあくまで香りづけの存在だが、参考までに。
よかったら飲みませんか、とお湯割りをすすめられた。
「鹿児島では暑い時期でもお湯割りが当たり前なんですよ!」と、ふるさとの芋焼酎『さつま国分』をふるまってくれる。
初夏に鍋でお湯割りと、それだけ聞いたらガマン大会のようだが、実に相性が良くて発見だった。芋のやさしい甘みと、エスニックな香りとレタスとがなんの違和感もなく、おいしく絡み合う。
優子さんが鹿児島で暮らしたのは、大学時代まで。
「私はバブルの最後のほうに就職活動をしました。鹿児島では男尊女卑もあってか、当時は大卒でも女性はコネがないと就職が難しかったんですよ」
女性の先輩たちが就職で苦労する姿を目にしてきた。東京に本社のある企業を受けて新卒で入社、福岡に配属となる。転職を経て東京へ。
現在は、食に関するサイトの広告企画やレシピ記事のディレクターだ。コロナ禍以降ニーズが増えたこともあり、忙しい日々を送られている。
「社長が自分よりも若い女性で、良い仕事環境をつくる意識が高く、ハラスメントがまったくないんです。私が最初に就職したころはもう、セクハラやパワハラだらけで、それが当たり前で。今、とても快適」とほほ笑む。
「コロナ禍以降、やっぱりものの考え方、見方が変わりました。諸行無常というのか……それまでは思えば随分と、のんきでしたね。後悔のないように、できるときに会いたい人には会う、行きたいところに行くを、気をつけながらやっていきたいです」
今後の夢はやはり旅、ウズベキスタンをいつか訪ねて、現地で名物と聞く羊料理を食べてみたいという。
取材・撮影/白央篤司(はくおう・あつし):フードライター。「暮しと食」、日本の郷土料理やローカルフードをテーマに執筆。主な著書に『にっぽんのおにぎり』(理論社)『ジャパめし。』(集英社)『自炊力』(光文社新書)などがある。ツイッターは@hakuo416。
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