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小林亜星さん、記者に語ったヒット曲の秘密「パパッと覚えられる」
酒豪で勉強家、長男が明かした「父の素顔」
2019年8月下旬、作曲家の小林亜星さんにインタビューしました。名刺を差し出してあいさつをすると、ニコニコしながら受け取って「どうも、小林亜星です」。このとき87歳。「3つ守るとほとんどヒットする」という、作曲の秘密を惜しむことなく教えてくれました。今年5月に亡くなるまで、私たちの心に残るメロディー、約8千曲を世に送り出しました。俳優やタレントとしても活躍した人物像をたどりました。
亜星さんに教わったヒット曲の作り方は、1拍目から「せーの、バン」で始まらない。歌で最も高い音は曲中に1カ所だけ。息継ぎ前の最後の音は、ハ長調ではレとソ以外がいい……。「この3つを守るとほとんどヒットするんです。そしてパパッと覚えられる曲ですね。でも、アレンジを含む全体像が一緒に浮かんで、自然にできた曲じゃないとダメですね」
夢の中で曲ができて、朝起きて慌てて書き上げたこともあったとか。
「曲ができないということはなかったですね。作曲は趣味だから、楽しいですよ。ただ、同じ曲になっちゃいけないから、そのためには自分が絶えず発見して、進歩していかないといけないんですよね」
また、こんなエピソードも。
「昔は放送局もレコード会社も誰でも入れたから、『何か仕事ない?』って聞いて回ると、何かあるんですね。そこで『この人まだ有名じゃないんだけど、作詞家で阿久悠っていうんだよ』と紹介されたりしてね」
当時の自由で華やかだった業界の息づかいが聞こえるエピソードが、どんどん飛び出しました。
亜星さんは東京生まれ。子どもの頃からジャズ、童謡、民謡など何でも聴き、戦時中は疎開先でハーモニカを吹いていました。戦後、中学でバンドを組み、ギターを手に入れます。
「進駐軍向けのラジオが始まったら、僕が子どもの頃に聴いていた古いジャズとは全然違う『センチメンタルジャーニー』とかが流れてきてね。戦争していたのにこれだけジャズが変化する国はものすごいな、と思って、とりこになっちゃった。でも勉強しないでギター弾いてたら、おやじに怒られてギターを燃やされちゃってね。風呂のたきつけに(笑)」
高校の同級生には、後に作曲家として活躍した林光さん、冨田勲さん、小森昭宏さんがいました。声が低かったことから、高校ではコーラス部に誘われます。「そのおかげで譜面も読めるようになって、先生が曲を作れというので、3年の文化祭で作って女子と一緒に合唱して、その曲が評判良かったんですね。これがなかったら作曲家になっていないですね」
大学に入ってからは米軍向けジャズクラブの専属バンドで活動し、ジャズのスタンダードナンバーを千曲近く丸暗記。これがとても勉強になったそうです。製紙会社で営業職に就きますが、数カ月で退職。作曲家の服部正さんに師事し、編曲の仕事をするようになりました。
そして1961年にレナウンのCMソング「ワンサカ娘」を作詞作曲。63年には「狼少年ケンのテーマ」を作曲して注目を集めました。
「野に咲く花のように」を歌った「ダ・カーポ」の榊原広子さん(70)と榊原まさとしさん(72)は、当初「なんてシンプルな歌なんだろう」と思い、正直なところ、少々物足りなさも感じていました。けれどもレコーディングが進むうちに「この歌はダ・カーポにピッタリの歌だ」「きっと広く世の中に受け入れられる」という予感がしたそうです。「覚えやすく、歌いやすい、本来の歌の持つ大切な要素を踏まえた作品。誰もが歌えて、多くの人を勇気づける歌の力を感じます」と振り返ります。
レコーディングでは、「好きなように歌ってください」と言われたとか。市町村や企業のイメージソングの発表会で一緒に旅行したときは、「新幹線の車内で亜星さんだけお弁当を召し上がらなくて、ダイエットで毎食豆腐一丁にしているとのことでした。『僕は寝てるから遠慮なく食べて』と気を遣ってくださる方でした」と、思い出を語りました。
積水ハウスの歌を何度も編曲した作曲家の井上鑑さん(67)は、「日本人の心の中で追認しやすいメロディーで、言葉とメロディーの流れに一体感のあるものを作っていた。短い時間で明快に伝えることが必要なCM音楽が小林亜星さんを作ったと言えると思います」。
そして、さらにこんな分析も。
「筒美京平さんは歌う人を想定して書くので、その人が歌うと1番いい感じになるし、大瀧詠一さんは自分で歌うことを想定されているので、大瀧さんが歌うと1番よくなる。一方、小林亜星さんの曲は誰が歌っても良さが出るんです。そして、積水ハウスの歌がボサノバにもウィンナワルツにも歌謡曲にもジャズにもなるように、どんなジャンルの音楽でも輝ける素材を生む術(すべ)に長(た)けていました。純粋に作曲家という存在の方でした」
亜星さんを30年支えた、所属事務所の元代表で現在はドラムビート・サウンド出版合同会社(渋谷区)代表の五代儀彦秀さん(66)は、「とにかく勉強家でした」と語ります。世界各地の音楽を聴き、映画を見て、本を読むなどして情報収集を欠かさなかったそうです。
「1つのテーマに対して必ず3パターンは曲を作るんです。譜面は必ずご自身の手書きなので、メロディーにコードも付けて、『ここにドラムのフィル』とか、必ず全体のアレンジ(編曲)を入れていました。アレンジを全部自分でやらないと、考えているような音楽にならないので、全部指定してきましたし、楽器の選定もすごくシビアでした」
「北の宿から」などでコンビを組んだ作詞家の阿久悠さんからは、いつも専用の原稿用紙に筆ペンで書かれた歌詞が届き、亜星さんは「直筆のものが一番ありがたい。見た瞬間、曲が浮かぶんだよね」と話していたそうです。サントリーオールドのCMの「ドンドンディドン……」や、アニメ「魔法使いサリー」の「マハリク マハリタ」など、呪文のようで1度聴くと忘れない不思議なフレーズは、亜星さん自身がメロディーと一緒に生み出しました。
銀座の店で一緒に酒を飲んで仲良くなった会社社長からCMソングを依頼されたこともあったという亜星さん。「社長は自分の会社の1番のファン。社長と話すとお客さんが見える。社長とお客さんを一直線につなぐ音楽を作れば、その音楽もヒットする」と五代儀さんに話していました。
「我々スタッフの仕事がうまくいかなかったり、落ち込んでいたりすると、よく白鳥の話をしてくれました。水の上だけ見ると優雅に見える白鳥も、水の下ではバタバタと足で水をかいている。俺なんかそういう感じだよ、と。誇張ではなく、本当にそうだったと思います。常に走り回っていて、いろいろなことに興味が尽きないという感じでした」
「父の集中力、ひらめきはすごいと思っていました」と話すのは亜星さんの長男です。
子どもの頃、家で寝ている父の手足をマッサージしてお小遣いをもらったそうで、「趣味を仕事にすると大変だよ」と亜星さんがこぼしていたことを覚えています。普段は「仕事熱心で子どもはほったらかしの父親」でしたが、SLの写真を撮るのが好きだった長男を、小海線の撮影に連れて行ってくれたこともありました。
「鉄道模型が壊れかけて、父に『貸してみろ』と言われて、『ちょっとちょっと』と遮ろうとしたら怒られました(笑)。父の方が夢中になるようなところはありましたね。父が古賀賞を受賞したときはとても喜んでいて、小学生だった私も一緒に授賞式の会場に行きました」
やがて両親は別居し、離婚しましたが、その後も父子はときどき顔を合わせました。
「父はとにかく時間にこだわりがあって、時計の時刻がずれていると怒っていましたし、外に食事に行って、なかなか料理が出てこないとお店の人に怒ったこともありました。また、お金は細かいところまできちんとしていて、だからいろいろ裁判を起こしたのだと思います」
数年前、亜星さんが作ったビオラの曲を孫娘が目の前で演奏したときは、「いたく感動していましたね」。今年に入ってからも何度か家を訪ねて一緒に食事をし、2人だけで話すこともありました。
酒豪だった亜星さんは、80代になっても銀座の行きつけの店で酒を飲み、ワインを3本空けて深夜に帰宅したこともありました。しかし、新型コロナウイルスの感染が拡大してからは、外出を控えていました。
今年5月30日の早朝、起きてトイレに行こうとして転倒。「助けて」という声で家族がとび起きたときにはベッドと壁の隙間に倒れていて、救急搬送中に亡くなりました。前夜は焼き鳥を食べてビールを飲むなど元気でした。
実は、1年ほど前から何度も家族に「俺は88で死ぬ」「書いてある」と伝えていました。「どこに書かれているかは言いませんでしたが、本当にそうなってしまったのでとても不思議です。突然だったので、まだ生きているような気がしています」と長男は語りました。
ドラマ「寺内貫太郎一家」で演じた頑固おやじが印象的ですが、実際は豊富な話題と巧みな話術で、周りを楽しませることが得意でした。また、五代儀さんによると、「世の中のものは全部必要なこと」というのが持論だったようです。1980年に出版された著書「あざみ白書」では、赤線の思い出を虚実交えてつづっています。
酸いも甘いも知り尽くした上で、「にんげんっていいな」「ひみつのアッコちゃん」「花の子ルンルン」などアニメや子どもの歌もたくさん作った亜星さん。そして「この木なんの木」などのCMソングや、「北の宿から」などの歌謡曲……。親しみやすく耳に残るメロディーは、多くの人の心に、人生に寄り添ったはずです。
私も物心ついた頃に「ピンポンパン体操」を、その後は友達と一緒に「魔法使いサリー」や「ガッチャマンの歌」を歌いました。課題曲が「未知という名の船に乗り」の年にNHK全国学校音楽コンクールに参加し、今は西武ライオンズの応援歌「地平を駆ける獅子を見た」を毎日のように口ずさんでいます。
短いCMのために作られた歌が国民的なヒット曲になり、家中で1台のテレビを囲んだ昭和の時代に、タレントとしても広くお茶の間に愛された亜星さん。2年前の取材では「今はテレビを見ない人も多いけど、僕らはテレビ創生期の1番いいときを歩ませてもらって感無量です」と話していました。スマホが生活の中心になった今、亜星さんの訃報を聞いて、一つの時代が終わったと感じた人は多かったのではないでしょうか。
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