話題
忘れられた「昭和ガラス」に2千枚超の注文 生産激減後に起きたこと
「祖父母の家で見た」「思い出遺産」
かつて民家の窓や障子にはめられていた「型板ガラス」。昭和期にガラスメーカーがこぞって手掛け、そのデザインの芸術性を競いました。後年、住宅事情の変化に伴い、やがて国内での流通量は激減します。ところが最近、このガラスを加工した「皿」が、ネット上を中心に空前のブレークを見せているのです。一度忘れられた工業製品が、なぜウケたのか? そして型板ガラスは、そもそもどんな役割を果たしてきたのか? 皿への加工を行う専門業者や、かつて生産に関わった人々の声からひもときます。(withnews編集部・神戸郁人)
「メロン」「夜空」――。型板ガラスは、美しいイメージが浮かぶ単語を、その名に冠しています。表面に刻まれた意匠も、実にユニークです。
例えば、メロン。不規則な太い縞(しま)の合間に、葉脈よろしく繊細な縮れ模様が彫り込まれた見た目は、実際の果実の表皮そっくりです。そして夜空は、無数の十字型から放射状の輝きが放たれ、闇夜に瞬く星々を思わせます。
型板ガラスは戸建て住宅向けに作られ、特に昭和期に、全国各地で用いられました。ここ数年、廃材となったものを日用品などに仕立て直す「アップサイクル」が注目を集めています。とりわけ人気なのが、「皿」です。
満月のように丸く、薄く切り出された形状。縁から中心部にかけて続く、なだらかな曲面。光にかざすと、ガラスごとに全く異なる表情を見せるため、芸術品として収集する人も少なくありません。
SNS上に画像が投稿されるたび、「祖父母の家で見た」「本当に懐かしい『思い出遺産』だ」などと話題を呼んでいます。製品の加工を手掛けているのは、街のガラス専門業者たちです。
「型板ガラス皿を売り始めたのが16~17年前のことです。今や、常に納期に追われていますね」。そう笑うのは、旭屋ガラス店(神戸市長田区)の古舘嘉一(こやかた・よしかず)社長(52)です。
昭和2(1927)年に、祖父・政次郎さんが創業した店を営む三代目。100種類近い型板ガラスを保有し、一人で手ずから皿への加工を続けています。
作業手順は、こうです。サークルカッターと呼ばれる器具で、まずガラスを円形に切り取ります。断面を研磨し、汚れを落とした後、モールドという陶器製の成型器に設置。窯(かま)に入れたら、温度を調節しつつ、表面を湾曲させていきます。
販売開始当初は、屋外と接する窓枠向けに生産された、厚さ4ミリのガラスを採用しました。しかし、きめ細やかさを演出したいと、主に障子用に使われる、厚さ2ミリのものを中心に取り扱っています。
現在、最も多く支持を集めているのが、宇宙をイメージしたデザインの「銀河」です。昨年9月、購入者が製品の写真をSNS上に投稿すると、広く拡散される事態に。人気が爆発し、数日のうちに2千枚以上の注文が入りました。
「ガラス整形作業は、窯で焼く過程を含め、12時間ほどかかります。私だけで行うため、現時点で一日に30枚程度作るのが限界です。以前は月に10件くらい注文があれば良い方で、対応しやすかったのですが……。完納まで4カ月ほどかかりました」
古舘さんは、絶縁材料を作る企業で15年間働き、2002年に家業を継ぎました。その際、父・一夫さんが、型板ガラスの端材を保管していたと知ります。今も店舗兼自宅の内装に使われ、特段珍しくない部材に、色々な模様があしらわれていると気付いたのです。
「当時は既に、ハウスメーカーが、建築用ガラスを製造元企業から直接仕入れる方式が一般化していました。小さなガラス店は、後継者不足もあり、次々と潰れる状況にあった。そうした中で、今までのガラス屋とは違う形態を採り入れていこう、と考えたんです」
ステンドグラスなど、ガラス工芸について学んだ後、2004年に初めて皿を作ります。ネットでの取り扱いはせず、知人の雑貨屋などに完成品を卸しました。自社のオンラインショップに関連情報を載せ始めたのは、今から6年ほど前のことです。
古舘さんは皿とともに、「銀河」を再利用したペンダントランプなどのアイテムも製作。「小さい頃、このガラスをなぞって、色々な想像を膨らませていた」。商品の購入者からは、そんなメッセージが届くそうです。
国内のガラスメーカーは現在、模様入りの型板ガラスを量産していません。そのため各地から、不要となったものを譲り受けています。「先代店主のコレクションを引き取って欲しい」などと、他のガラス店から頼まれることもあるといいます。
「型ガラスを扱うと、『きれいだなぁ』とハッとします。板ガラスの状態だとピンとこない、薄さや模様の美しさなどに、皿に加工して初めて気付くんです。お客さんも、そんな体験を通じて、親しみを覚えてくれているのではないでしょうか」
リバイバルを果たした型板ガラス。そもそも、どういった経緯で普及したのでしょうか? カギとなるのが、日本の住宅事情です。1969年5月発行の、日本セラミックス協会専門誌「セラミックス」に、板硝子協会が寄稿した記事を基に振り返ってみます。
記事によると、型板ガラスが国内で広まったのは明治時代です。当初は海外産で高価な、透明のものが主流でした。
一方で日本家屋は、紙製の障子などで部屋が仕切られ、プライバシーが守られにくい特徴があります。そこで透過性の低いガラスが発展しました。
昭和期に入ると国産化が進み、安価な製品も出回るようになります。1960年代には、旭硝子(現・AGC)、日本板硝子、セントラル硝子の3メーカー間で、オリジナルデザインの型板ガラス生産が活発化しました。
この頃、フローリング製の床などを備えた、洋風住宅が増加。高度経済成長を背景とする、大量消費文化も浸透しました。各社は新奇性を打ち出すため、「変(かわ)り板ガラス」と呼ばれる、模様入りの型板ガラス開発に乗り出したのです。
旧通産省(現・経済産業省)がまとめた「窯業建材統計月報」によれば、1968年の変り板ガラスの年間総生産量は、約782万箱分に上りました。同年に国内で作られた板ガラスのうち、全体の4割近くを占めており、その隆盛ぶりがうかがわれます。
1960年代に花盛りとなった型板ガラス文化は、実に豊かです。「銀河」などの定番品はもちろん、アラビア文字を模した「アラビアン」といった、エキゾチックなデザインも登場しました。
こうした自由な発想は、往時の生産現場の空気を反映していたようです。
日本板硝子アジア事業部の岩瀬勇次さん(64)は、1982年に新卒入社後、6年ほど型板ガラスの製造管理を担当しました。当時、既に流行のピークは過ぎていたものの、チャレンジングな雰囲気を感じつつ働いたといいます。
「型板ガラスの場合、製造ラインに上下一対のロールが設置されています。このうち下側に型がついていて、まだ柔らかい状態のガラスを通し、模様を刻み込みます。『ロールアウト法』と呼ばれる製法です」
「きれいに模様を出すためロールの径を変えるなど、色々な挑戦ができました。またガラスがどのように使われているか把握するため、近所の家屋を観察し、仕事に生かすこともありましたね。初めて関わった商品でもあり、愛着は人一倍でした」
しかし住宅市場においては、次第に透明なガラスのニーズが高まるように。昭和末期に入ると、新築物件の着工数も頭打ちとなり、模様入りガラスの需要は低下していきます。
やがて型板ガラスの流通量は激減し、メーカー各社にとって、設備コストの負担感が高まったのです。
経産省は2012年まで、「普通板・型板ガラス」の年間生産量を記録しています。同年の総計は、わずか2256箱分にとどまりました。先述した、模様入り型板ガラスのみの数字ではないにせよ、落ち込みぶりは顕著です。
現在、国内で型板ガラスとして作られているのは、「梨地」「霞」と呼ばれる二種のみ。ともに半透明のシンプルな見た目で、かつてのような装飾性はみられません。
いずれのメーカーも、従来的な意味での型板ガラスの生産を、既に終えたと言えるでしょう。
ただ海外では、まだ多くの型板ガラスの品種がそろっています。AGC広報・IR部 AGCスタジオ技術アドバイザーの木原幹夫さん(67)によると、住宅の建て替えサイクルが長い欧州では、特に購買のチャンスが多いそうです。
「欧州各国では、100年以上前に建てた家に住み続ける人が少なくありません。内装をリフォームして使う関係上、ガラスを同じものに付け替える機会が、比較的たくさんある。交換の際、おしゃれな雰囲気の製品が好まれる場合もあります」
こうした状況から、AGCは「デザインガラス」と銘打ち、欧州の関連会社・AGCヨーロッパで生産した、二種類の型板ガラスを輸入しています。カフェなどでの活用を見込み、国内でも販売中です。
数奇な運命をたどった、型板ガラス。今後、流通量が劇的に増えることは考えにくいでしょう。しかし、私たちの暮らしを豊かにした立役者である点は、疑いありません。これまでと形は違えど、今後も人々の日常を彩ってくれるはずです。
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