連載
#6 Key Issue
コロナで高まる「食事の罪悪感」炙り出された不安のはけ口という需要
「ちゃんと食べなきゃ」の呪いの解き方
新型コロナウイルスの流行後、ものを食べることへの「罪悪感」が高まった、とする調査結果が公表されました。「感染を防ぐため、自分の身を自分で守る」との意識の広まりが、背景にあるとみられます。実際、栄養バランスの良さが売りの食品が人気を博すなど、市場にも影響が。一方、自己管理への過大な欲求は、生きづらさにつながりかねません。「健康食文化」と、適切に距離を取る方法とは? 「不安との向き合い方」という視点から考えます。(withnews編集部・神戸郁人)
神戸郁人(かんべ・いくと)
全国で猛威を振るい続けるウイルス。政府や自治体は、感染対策の一つとして、不要不急の外出を避けるよう呼びかけています。昨年4~5月と今年1~3月、そして4月25日~5月11日の3回にわたり、緊急事態宣言が発出される事態にもなりました。
この情勢を踏まえ、食品大手のマルコメが昨年、興味深いウェブ調査結果を明らかにしました。20代~60代男女の自社商品ユーザー243人に「食事への罪悪感」について尋ねたところ、外出自粛期間より前(昨年2月以前)と比べ、55%が「増した」と答えたのです。
理由を見ていくと、「運動不足だから」(75%)を筆頭に、「在宅時間が増えてつい食べ過ぎてしまうから」(57%)「健康意識が高まったから」(29%)と続きます。
また自宅での滞在時間増に伴う「コロナ太り」を巡っては、約7割が「意識した」と回答。うち過半数が、予防策として「ヘルシーな食材を使う」を選択しました。同社は「免疫力や健康を維持しようという意識の表れかもしれない」と総括しています。
【関連リンク】ウィズコロナの食生活を「ギルトフリー」プロジェクトで応援(マルコメ)
同社の調査は、コレステロールゼロなどをうたい、「栄養過多などの罪悪感がない」という意味の、「ギルトフリー食品」販促のために行われました。また、有効回答数が限定的である点にも注意が必要です。
ただ、ウイルス出現後に立ち現れた、消費者心理の一端を示していると考えられるでしょう。
このような傾向は、店舗での購買状況からも、見て取ることができます。
マーケティング会社ソフトブレーン・フィールドは昨年12月、大手コンビニ3社(セブンイレブン・ファミリーマート・ローソン)のレシート110万枚の調査結果を発表しました。商品のカテゴリー別出現率などに関し、同年2~5月・6~9月の平均値を比べることで、消費行動を分析するものです。
3社中、ファミリーマートでは、総菜類の出現率が低下していました。一方、大麦入りおにぎりや、肉の代わりに大豆を使った弁当が、数多く購入されています。いずれも低カロリー・低糖質などの利点を打ち出し、健康志向の人々から支持を得る自社商品です。
調査結果によれば、ウイルス流行以前のコンビニは、ビジネスマンや主婦など、自分のために食品を買う人が主な顧客でした。しかしパンデミックを経て、家族向け・家飲み用など、多様なニーズが顕在化。この中に、健康にまつわる需要も含まれるとしています。
コンビニ側は、潮流を商品構成に反映しています。ファミリーマートが昨年12月、オリジナルブランド品として取り扱いを始めたドライフルーツ・デーツ(ナツメヤシの実)は、その一例です。
中東・アフリカ原産のデーツは、栄養分が豊富な上、少ない量で高い満足感を得られるとされます。近年、特にダイエットを志す購買層において、人気を集めてきました。お好み焼きソース生産大手・オタフクソースが昨年3月、同種の商品を先行発売。約7カ月間で、26万袋超(希望小売価格計算で2億円以上)を出荷しています。
こうした食品は「スーパーフード」と呼ばれ、国内では2010年代に普及しました。ココナツオイルやアーモンドなど、種類は多岐にわたります。美容・健康に配慮する女性を中心に受け入れられ、16年に300億円程度だった市場規模は、18年には400億円台にまで拡大しました。
栄養をバランス良くとれるという認識から、先述した「ギルトフリー」の文脈で捉えられ、スムージーなどに加工し常用する人も。一連の食べ物が再注目されたのは、ウイルスの流行に伴い、「健康を『自衛』したい」との欲望が高まったことの象徴とも言えそうです。
日本スーパーフード協会によると、「一般の食品より栄養価が高い」「一般的な食品とサプリメントの中間」「料理の食材・健康食品としての用途を併せ持つ」などの項目から、スーパーフードは定義づけられています。
一方、「広く健康の保持増進に資する食品として販売・利用されるもの全般」は、一般に健康食品と言われます。これらは、大きく二つのカテゴリーに分けられます。
具体的には、国が定めた安全性や有効性に関する基準を満たした「保健機能食品」と、それ以外の「いわゆる健康食品」です。スーパーフードは、先述の定義に従えば、後者に属すると考えられるでしょう。
ただ、いかに栄養素が豊富とはいえ、食品は薬の代わりになりません。法律上、次の条件を満たすものが、「医薬品」とされるからです。
それでも私たちが、食べ物をよりどころの一つとしてしまうのは、なぜなのでしょうか? 著書『「健康」から生活をまもる』(生活の医療社)などで、行き過ぎた健康主義に警鐘を鳴らす医師・大脇幸志郎さん(37)は、次のように語ります。
「食べ物は古来、健康とセットで捉えられてきました。19世紀くらいまでさかのぼると、食によって人の生き死にが左右される、切実な状況があったんです」
末梢神経の障害や、心不全を伴う病気・脚気を例に、詳しく説明してくれました。
「江戸時代の日本では、脚気が主要な死因のひとつでした。当時の時点で、精白米を主に食べる都市部でだけ脚気が多いと、経験的に知られていました」
「ところが現在なら常識である、ビタミンB1の欠乏が原因とは明らかになっていなかった。だから明治時代には、パン食で脚気を防ぐ試みがあり成功を収めました。こうした点から、病気を治しうるものを食べ物に求めるほかなかったと言えます」
現代に至るまで、とりわけ先進国においては、食事の際の衛生環境や、多様な食材にアクセスするための術(すべ)が整えられてきました。ごく普通にものを食べていれば、命に関わるほどの栄養失調を起こす確率は、極めて低いと言えます。
にもかかわらず、食を神秘化する価値観が、今なお更新されていない――。大脇さんは、そう指摘します。加えて、ウイルスの蔓延(まんえん)という限界状況も、こうした傾向に拍車をかけていると分析しました。
いつ、どこで感染するかわからない。そんな環境は人々の相互不信を招きます。そして終わりのないウイルス禍の中、ストレスを軽減するため、健康食品に安心の源を求める。不安の解消法としては考えられそうなことです。大脇さんが語ります。
「誰がウイルスを持っているか不明だと、『人間が人間であるだけで悪だ』という感情が生まれます。自分は生きていて良いのか。そうしたネガティブな思いと向き合う中で、食べ物に出口を見いだす、というのはあり得る話ではないでしょうか」
「『免疫力を高めてウイルスに打ち勝とう』などのスローガンも、食に希望を見いだす人々の考え方の一類型です。どちらの主張にも医学的な根拠はありません。しかし不安から逃れるための、一種の文化としては、成立しているように思います」
ありのまま現実を評価するのではなく、何らかの「物語」を通じて解釈する。そんな態度は、世界との間に生じる葛藤を輪郭づけて、自らが理解可能な次元に落とし込もうとするもの、と言えるかもしれません。
よく似た営みは、筆者が主な取材領域としてきた、「自己啓発」の分野にも見いだすことができます。
例えば、ちまたにあふれる自己啓発本。ビジネス書やスピリチュアル、予定管理術の指南書など、ジャンルは実に様々です。一方、それぞれの内容をつぶさに観察していくと、「自分自身をコントロールできる」というメッセージに貫かれていることに気付きます。
1995年に出版され、大ヒットした書籍『脳内革命』について考えてみましょう。文中では「自己実現を目指すと脳内の快楽物質が増え、幸せになれる」と説かれます。これはすなわち、自らの内面を、自らの手で操作可能とみる立場の表明です。
ただ実際の日常は、そう一筋縄ではいきません。思わぬ不幸に見舞われたり、仕事や人間関係に悩んだりし、心穏やかに過ごせないこともしばしばです。本質的に不定形、かつ未確定であると言えるでしょう。
複雑な人生を、ある基準のもとで解体し、個人がより生きやすいシンプルな世界観に編み直す。『脳内革命』を含む自己啓発本は、そんな役割を負っているように感じます。
食と健康の関係性を巡る現象も、同じ構図に当てはめると、捉えやすくなるのではないでしょうか。
先述したギルトフリーの話題に立ち戻ってみましょう。この考え方に基づくお菓子のレシピ本を読むと、「甘さや脂肪分を控えめに」「有効な栄養素を含まない調味料は避ける」といった指示が目に飛び込んできます。
栄養素の量を調整すれば、体型や体調の維持につながる。心がけ次第で、健康を意のままにすることは可能だ――。こうした思考は「ままならない現実を乗り越えたい」という願いと、表裏一体であると言えそうです。
しかし、過度に日々の暮らしに適用してしまえば、かえって息苦しさを引き起こす恐れがあります。食と健康との、あいまいな結びつきだけが理由ではありません。数値にとらわれることで、純粋にものを味わう楽しみを見失いかねないからです。
適切に距離を取るためには、どうすればいいのでしょうか? 医師の大脇さんは「生活の中で何を大事にしてきたか、思い出して欲しい」と語りました。
「例えば受験勉強に打ち込み、当初とは違う進路を目指す場合があるかもしれません。それは勉強に熱中できたからこそわかることです。人生における軸が一つあると方向感覚が生まれ、本当に大切にしたい物事が見えてきます。食も同様です」
「一方で科学的に誤っていようと、大きな害がないのならば、食のあり方は多様であるべきだとも思います。『正しい知識こそが正義である』と考えてはいけない。医学的に正しくないことが、文化的には正解かもしれないのですから」
ギルトフリーを始めとした「健康食文化」は、「ちゃんと食べる」ことの価値を突き詰めた結果、生まれたのではないか――。今回の原稿を書く中で、筆者はそう感じました。
皿に載った料理の栄養素を、一つ一つ気にして、バランスを考えながら食事をとる。表れ方こそ極端かもしれませんが、非常に真面目な態度です。そうしたスタンスを、一概に「おかしい」と切って捨てることはためらわれます。
もちろん、食べる楽しみを損なったり、誰かと食卓を囲む上で障害になったりすることがあるのも事実でしょう。しかし何らかの救いを求め、実際にカルチャーとして楽しむ人は少なくありません。健康被害につながらない範囲で、許容されてほしいとも思います。
これは自己啓発を始めとした、ある種の宗教的営みにも言えることです。
筆者が取材した引きこもりの青年は、「働かず生活保護だけで生きろ」などと主張するインフルエンサーに心酔していました。学生時代にいじめを受け、社会を恐れて就職できずにいた時期に出会い、すがったのです。
彼はやがて、地に足を付けるため、働き口を探し始めます。SNS上で、インフルエンサーの言葉を摂取し尽くし、主体的に立ち直ろうと考えられたからでした。端からは回り道と思えても、青年本人にとって、必要な過程だったのでしょう。
第三者から見て、常識外れと感じられる営みを求める人が、なぜ生まれるのか。その問いの探求は、私たちが住まう社会の形を、捉え直す作業にもなるはずです。
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