コラム
「こんな自分が子育てできるか…」車いす生活での妊活を阻んだもの
「こどもが、ほしいです」
「こどもが、ほしいです」。10年前、パートナーから届いた一本のメールに、車いすユーザーの篭田雪江さんは妊活を始めることを決めました。しかし当時、本音で語るべきことが語れなかったという思いもあったと振り返ります。いまも残る「罪の意識」はなぜ生まれてしまったのか。篭田さんが綴りました。
パートナーからそのメールを受け取ったのは、十年ほど前の大晦日だった。
午前中、パートナーは「買い物してくる」とひとり、当時住んでいたアパートを出た。私は部屋でひとりテレビを眺めていると携帯にメールが入った。パートナーからだった。半分テレビを観ながらなにげなくメールを開くと、そこには思いもよらない内容が書かれていた。
「こどもが、ほしいです」
パートナーがそう強く願うきっかけになったと思われるできごとが、その年の春に起きていた。私の弟夫婦に女の子が産まれたのだ。両親にとっては初孫、私にとってもはじめての姪っ子だった。
私たちがその子にはじめて会ったのは、出産から一か月くらいたった頃だろうか。実家に向かうとすでに両親と弟夫婦、そして姪がいた。家のなかはすでになごやかな雰囲気に包まれていた。抱きあげて赤ちゃん言葉で話しかける母と、こわごわ抱いたせいか盛大に泣かせてしまった父。それを見て笑う弟夫婦。
抱いてあげて、と義妹が申し出てきた。先に抱いたのはパートナーだった。抱きながら小さな手を握って揺らしたり、ぷくぷくした頬を撫でていた。やわらかい笑顔、優しい手つき。普段見せることのない表情と雰囲気がそこにあった。
その後、彼女は私の腕にゆっくりと姪をあずけた。思ったより重くてどきりとした。怪我をさせてはいけない。そればかり考えたせいか全身に力が入り、ただひたすら支えるので精一杯。そんな膝の上が姪にとって居心地いいはずがない。父以上に泣かれてしまった。私は慌てて義妹に姪をあずけた。ほっとした、と同時に、両腕に残ったぬくもりが全身に広がった。たとえようのない感覚だった。
それから何度か姪と会った。少しずつ愛情めいたが芽生えてくるのがわかった。可愛いものだな。こうしてたまに会って、少しずつ成長していく姿を見ていければ、と。
だが、どこか呑気な私に対し、パートナーは徐々に固い決意を固めていっていたのに、私はまったく気づかなかった。
結婚以来、私たちの間でこどものことが話し合われたことはなかった。以前も書いたが、私にはそもそも性行為(性行為の定義はさまざまだが、ここでは挿入を伴うものとする)ができない。その壁に阻まれ、それで険悪な空気になったこともある。妊娠以前の状態だった。だからパートナーも熟慮はしていないだろう。
だが、それは私の勝手な想像だった。パートナーはずっとこどものことを考え続けていた。身近に新しいいのちの誕生を目の当たりにした時、それがはっきりかたちになったのだ。
メールには妊活に挑む覚悟、ネットで調べたらしい費用の額など、さまざまなことが書かれていた。このメールを出すまでどれくらい考え、悩み、苦しんだのだろうか。読んでいて胸が苦しくなった。
メールの最後には、彼女の思いが結集されていた。
「あなたが愛おしいと思える子を産みたいのです」
「このメールを書いていたら、なんだか涙が出てきました。なんでだろうね」
春のおとずれと共に、私たちは実際に動きはじめた。
まずパートナーが婦人科を受診した。パートナーも具体的には記せないが障がい者である。だが受診の結果、妊娠することに関して問題のあるからだではなかった。だが私の方の状態がわからないと今後の計画は立てられない。そのため、他の病院に調べてもらった私の現状を知らせてほしい、という話だった。
私は自分の体を調べてもらえる、地域にある医院をネットで調べ、いちばん詳細に治療法をサイトに公開している泌尿器科を受診した。
その泌尿器科主治医の男性医師に説明した後、エコー検査と触診を受けることになった。まずはエコー検査を受け、その後、触診がはじまった。思いがけぬ事態になったのはここからだった。
医師が私の性器を、手袋をつけて直接触って調べはじめた。下半身の感覚は全くないので最初はなにも感じなかった。なるべく動かず、天井を見つめていた。
しかし、触診が徐々に子細になるにつれ、妙な感覚が下からせり上がりはじめてきた。
くすぐったいような、痛痒いような、重苦しいような。とにかく今までにない、経験したことのない感覚がしてきたのだ。
私は眉をしかめた。感覚のないはずの下半身がなにを感じているというのか。やがて息を飲んだ。この形容しがたい感覚を、からだと気持ちが決して拒んでいないことに気づいたからだ。あからさまにいえば、今自分は「性的に感じている」のではないか、と。
きつく目を閉じ、口のなかで舌を噛んだ。冗談じゃないと思った。こんなところで「はじめて」を経験してたまるか。そもそも対象が違う。この感覚を共にする相手はパートナーであるべきなのに。しかし、下からの感覚は容赦なくおそいかかってくる。その頃にはもうはっきりと快楽に近いものであることがわかっていた。
あまりに顔をしかめていたせいか、脇で控えていた看護師がたずねてきた。「大丈夫ですか?」その看護師は若い女性だった。なにかが壊れそうで顔も姿も見られなかった。出かかる問いを押さえるのに必死だった。「おれ、今、どうなってるんですか?」
「はい、おわりです」触診は唐突に終了した。私はすぐ飛び起き、下半身をにらんだ。性器には案じていたような変化はなにも起きていなかった。あの感覚も嘘のように消え去っていた。
全身に汗をにじませながら結果を聞いた。曰く前立腺にやや肥大がある以外、精巣などの生殖機能に問題はみられない。ただ精子が正常に作られているかどうか、性行為が可能かどうかはここでは調べられないので、詳細を調べるには別の専門医を受診してほしい、とのことだった。
呆然としながら医師の話を聞いた。サイトに書いてあることと話が違う。あれだけのことをしておきながらわからないなんて――。医師としては正当な診断を行っただけなのに、私は無言で診察室を出た。
次の具体的対策を調べるまで、できる限りのことを試みた。
パートナーが入浴している時、スマートフォンで卑猥な動画を観て、若い頃よりさんざん試みて失敗してきた自慰をしてから(当然のように失敗した)、セックスをした。最中にみずから性器をもてあそんで勃起しないか試してもみた。彼女に医師の触診に似たことをやってもらおうかとも考えた。だが泌尿器科での受診のことが思い出され、頼めなかった。
そうしているうち、以前から悪くしていた腎臓の状態が悪化して入院したり(この話が持ち上がる数年前から治療、通院、服薬をはじめ、現在も続けている)、引っ越しをしたりと、日々が慌ただしくなってきた。妊活に取り組む余裕をお互い作れなかった。せわしなさが落ち着いてからも、私の体調悪化が顕著になってきたこともあり、少なくとも私の方はもうこどもを授かることに対して気持ちを奮い立たせることができなくなっていった。それを察したのかどうか、パートナーも話題に出すことはなくなり、いつしかこの話は立ち消えのような状態になり、今に至っている――。
しかし今、私たちの妊活(と呼べるものかはさておき)を振り返ってみると、そういったことがら以前の問題があったのでは、という気がしている。
それは、私たちの「こどもがほしい」という気持ちにずれ、熱意の差があったことだ。
パートナーは切実にこどもを望んでいた。私の方はどうだったか。確かに家族が増えたら人生が豊かになる、姪っ子も可愛いことだし、自分にもこどもを愛するこころがあるから。新しい家族がほしい。そう願ったのに間違いはない。
だが一方でこんな自分に子育てができるのか、という疑問が拭えなかった。体幹が失われ、安定性のない身でうかつに抱きあげて我が子を転倒させ、怪我をさせてはしまわないか。こどもとみずからの排泄の始末を両方こなせるのか。腎機能不全という持病を抱え、からだが徐々に衰えていくことは目にみえている。お金の問題もある。こどもが巣立つまで働けるのか自信が持てない。実際去年(2020年)、体調悪化で職場を退職した。
自分のからだの始末をつけるだけで精一杯なのに、さらにこどもを育てるという、人生でもっとも重いともいえる責任を負うことができるのか。
こどもが産まれる喜びよりも、不安の方が大きい。きついからだで子育てができるか心配でならない。きっとパートナーに多大な負担をかけてしまう。私とこどもの、両方のしもの世話をさせてしまうことになるかもしれない。私にとってそれは恐怖に近い。世間には車いすユーザーで子育てをしている夫婦はたくさんいるし、知り合いにもいる。しかし自分がそういったひとたちとおなじようにできる自信がない。
話すべき本音を、私はパートナーにどうしても話せなかった。真剣に話し合うこともしないまま置き去りにしてしまった。まごついているうち、私の体調は悪化していき、パートナーも出産するには厳しい年齢に達してしまった――。
障がいの有無に関わらず、夫婦にとってこどもを産むことがすべてではない。ふたりだけで幸せに過ごしている夫婦はたくさんいる。子育てへの不安などさまざまな理由であえて産まない選択をした夫婦もまた同様だ。
だが、私たちは産まない選択をみずからしたわけではなかった。気持ちをすり寄せ合うことをしないまま時間が過ぎ、結果ふたりだけの家族になった。こうした夫婦も障がいの有無に関わらず多いのだろう。
私たちが本音を話し合うことができなかった理由を考えると、やはり私たち、特に私が下半身まひの身体障がいを持っていたことが強く絡んでいたと感じる。
こどもを授かった後のことが、先にも書いたように不安でならなかった。私の「このからだ」で、こどもを育てられるのか。姪っ子を抱くのさえ危うかった私が。
そんな本音を話したとしたら。パートナーはきっと「自分がカバーするから」と答えただろう。私はそれにうなずけず「自分たちには厳しいのではないか」と言っただろう。ふたりで協力し合うべき子育てをひとりに負わせるなんてできない、とも。複雑に絡まりあった、そんな思いを。
それを口にした時、浮かべるだろうパートナーの落胆の表情をみるのが怖かった。だから本音で話し合うことができなかった――。
私の「このからだ」、下半身まひという障がいが本音を打ち明けることを拒ませ、最後には不妊治療に挑むハードルになった。障がいは妊活の足枷になりうる。少なくとも私たちはそうだった。私の「障がい者の妊活」に対する結論となってしまった。
大きな責任を痛感している。からだを言い訳にして大切なことから逃げてしまった、パートナーの思いから逃げてしまった、と。今も罪の意識が消えない。それでもあの時はごめん、のひと言さえまだ言い出せないままだ。
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