お金と仕事
名門ラグビー部での不祥事…主将辞退した森田さんの〝二つの後悔〟
「コンプレックスも遠慮もいらなかった」
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「コンプレックスも遠慮もいらなかった」
ラグビー名門の同志社大学から社会人ラグビーのトップリーグのNECでプレーをしていた森田洋介さん(32)。中学時代、身長152センチ、体重は40キロ台と体が小さく「ちびすけ」と呼ばれていましたが、〝小柄なりの戦い方〟を考え続けました。セカンドキャリアの道を開き、現在、コンサル会社に勤める森田さんですが、その道のりは平坦ではありませんでした。憧れのチームで起きた不祥事、主将の辞退という決断……。その後の人生の〝原動力〟にもなったという森田さんの「二つの後悔」について聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
森田洋介(もりた・ようすけ)
地元、奈良県天理市はラグビーが盛んな地域です。実家の前に小さい川があるのですが、その川にラグビーボールが落ちていました。そのラグビーボールを拾ったことが、ラグビーを始めるきっかけになりました。
ラグビーボールは特殊な形をしているので、上手く投げられるまで時間がかかる人がいますが、私は最初から上手く投げることができました。
小5の時、「楕円球の神様」というテレビ番組をたまたま見ていた時、同志社大学出身のラガーマン、大西将太郎さんが取り上げられていました。その姿に憧れ、そこから私の夢は、「同志社大学のユニフォームを着て、国立競技場でラグビーをする」になりました。
中学から大学まで、がっつりラグビーをしたいという強い思いから、同志社中学に入学したいと思い、私立受験をしたいと親にお願いをしました。小5から塾通いしだし、晴れて希望の同志社中学に入学することができました。
念願のラグビー部に入部するも、私は体が非常に小さく、中学卒業時は身長152センチで体重は40キロ台でした。周りからは「ちびすけ」と呼ばれていました。試合では、相手チームから「(タックルで)8番を狙え!」と私の背番号で呼ばれていたことを鮮明に覚えています。小柄なので、すぐ倒せると思われていたんです。
でも、負けん気は人一倍強く、後に「天理の狂犬」と呼ばれるほど血の気が多い性格でした。小さいなら小さいなりに、戦い方を考えました。
一つは、いかに低く相手にタックルをしかけるか。もう一つは、キックの精度を高めること。蹴り込みの練習をする中で、体の動きを理解し、どこに力を入れたらどうボールが飛ぶのか、論理的に考えるようにしていました。海外の選手のプレーも分析して真似ましたね。
芽が出たのは高校2年生の時です。キックの距離と精度が歴然と伸びたことを実感しました。
同時期に身長がグンと伸び、相変わらず線は細かったですが、身長は177センチになりました。
私は目標を掲げてそれに向かって日々努力するというタイプではなく、目の前のことをただただやり切ることを繰り返してきました。つらい筋トレも、息の吸い方を変えるなど工夫して、自分なりに考えて練習に励みました。
それでもラグビーのスキルは中の中。京都選抜から落選し、同級生がラグビーをやめていく中で、次第に大学でもラグビーを続けるかどうか、迷いが出てきてしまいました。
ラグビー熱が冷めていくのを見ていた両親に、ある日めちゃめちゃ怒られたんです。「なんのためにラグビーをしてきたのか」と問われた時、「同志社大学のユニフォームを着てラグビーをしたい」という夢を思い出しました。
私は兄と妹と3人兄弟で、兄も高校と大学は私立に通っていました。決して経済面で余裕があったわけではないはずなのですが、親も私大進学を応援してくれました。今は私も親になったのですが、両親の支えがあったからこそ、成し遂げられた夢だったと感じています。
そして2007年に同志社大学に入学し、「入部テスト」をクリア。晴れてラグビー部員となったのですが、待ち受けていたのは“とんでもない事件”でした。
5月、ラグビー部員よるわいせつ未遂事件が起きました。その部員の名前も顔も知りませんでしたが、この事件がきっかけでラグビー部の私生活への監視が強くなり、翌年以降の部員の採用人数が大幅に制限されました。
学内外からのラグビー部に向けられる視線が厳しく、肩身の狭い思いをしながらラグビーをしていましたね。その中で、私は2年生の時に初めて21番のユニフォームをもらいました。そして、翌週には「10番」をもらうことに。スタンドオフのポジションの、レギュラーがつける番号です。
同じポジションの先輩などのライバルが怪我や就職活動で抜け、めぐってきたチャンスを生かすことができたのです。
地道に磨きあげてきたキック力をはじめ、“体が小さい、だからできない”というマインドを、乗り越えてきた努力が、無駄ではなかったと感じまた。
一方、チームの成績の方は事件以来、低迷を続けていました。そして、ラグビー部創業100年の2010年、大学選手権の切符を逃し、関西大学リーグでは過去最低の成績に落ち、下部リーグとの入れ替え戦を経験することになりました。
振り返ると、大きな後悔が二つあったと感じます。一つは、皆が縮こまり、ギシギシしている雰囲気を変えることができなかったこと。
上級生として、チームをどう立て直すべきか日々悩み抜いたのですが、その肝心な「How」の部分がわかりませんでした。今考えると、他の部活の首脳陣など、部活外に知恵を借りにいくこともできたと思うのですが、その時は自分のことで精一杯でそこまで頭が回りませんでした。
もう一つは、大学3年生の時に主将を辞退したことです。主将は監督やコーチが任命するのではなく、部員の中で話し合うのが慣習でした。
いつもに増して主将を担う責任が重かったのは、私たちの代から「第100代主将」を出すことになるからでした。候補に上がったのは、日本代表にも選出されていた大平純平さんと、私の2人でした。
結果的に、大平さんが主将になるのですが、私は主将になることを辞退しました。なぜかというと、3年の時にヒザを大怪我したことが理由の一つでした。復帰に時間のかかる手術という選択は選ばなかったため、常にヒザは一触即発の状態。万が一ケガが悪化し、チームから離脱することになったら、主将の任務を全うできない――。
チームとしてのリスクを考えた時、私は主将に立候補すべきではないと判断しました。それに、大平さんはU 20や日本代表に選出された経歴があり、人柄もよく、誰もが納得する選手でした。
私が主将を退いたもう一つの理由は「内部生」という劣等感です。全国からの猛者たちが集結してきた中で、私は日本代表など周りを納得させるだけの経験をしていません。高校からエレベーターで上がってきたのも事実です。経歴において後ろめたさを抱いていました。
今思うのは、そのようなコンプレックスも、遠慮もいらなかったということです。結果はどうであれ、主将に立候補してもよかったというのが、当時の自分を客観視した今の私の考えです。
歴史にifはないですが、もし、大学時代に絶頂期を味わっていたら、このような気づきはなかったと感じています。
チームが崩れていく様を、ただ指をくわえて見ているしか出来なかったことは、本当に苦い思い出です。でも、辛酸をなめたからこそ、頂点を目指すことの大切さだけではなく、「経験」自体が価値のあるものだったのだと気づくことができました。
その後、社会人でラグビーをする時も、同様の苦渋の思いを味わうことになるのですが、やはりその経験により、さらに組織のあり方、チーム力、チームマネジメントについて関心を持つようになりました。
「点」で見ると悲劇かもしれませんが、「線」で見ると全ての出来事が今の仕事をする上での原動力の一つとなっていると感じています。
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