連載
#9 Busy Brain
小島慶子さんが断ち切った「愛情を奪い合う」家族の連鎖
両親、祖父母……恨みをぶつける相手を探して延々と世代をさかのぼり続けることはやめた
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です! 今回は小島さんの幼稚園時代を振り返り、家族と自身の「愛着形成」の関係についてお話します。
すでに何度かお伝えしている通り、この連載にはADHDとは関係のなさそうな話もたくさん出てきます。「個人的な思い出なんか並べずに、障害についてちゃんとわかるように書いてほしい」と苛立つ方もいるかもしれません。専門家が外から眺めて「小島慶子の障害者らしさ」の解説をすれば、もっとシンプルでわかりやすいはずです。ではなぜこんな曖昧な文章を書いているのでしょう。それは人間が曖昧な存在だからです。
脳みそを万華鏡だと考えてみましょう。「あなたの万華鏡の中に入っているADHDを取り出して見せてくれ」と言われても、私には見分けがつきません。誰かが私を壊してバラバラにすれば、中身は色紙の切れ端やビーズと、小さな鏡だとわかるでしょう。でもそれは私を形作っていた世界の再現にはなりません。
色紙やビーズは万華鏡の角度によって無限の組み合わせで模様を作り出し、鏡には歪みや傷があり、いろんな書き込みや模様の刷り込みもあります。心臓の鼓動とともに絶え間なく変化する景色は、非対称でこんがらがっており、その規則性のかけらもない混沌こそが、生身の自分というものなのです。
ああなるほど、ADHDって壊れた万華鏡のようなものだな!と思いましたか。そうです、あなたと同じように。
万華鏡の中身はみんな違います。色紙とビーズの人もいれば、色ガラスとスパンコールの人もいます。また、誰一人として傷や歪みのない鏡を持っている人はいません。もともとの凸凹もあれば、衝撃でついた傷もあります。長年使っているうちに歪んだり曇ったりすることもあります。発達障害はもともとの凸凹の一つで、大きさや形は一人一人異なります。うんと困りごとのある人もいれば、さして困らない人もいます。凸凹に気づかずにいる人もいます。
体を持って生まれるということはすでに、ありのままの世界から隔てられているということです。だから人間は科学を使ってなんとかこの歪んだ鏡の世界から自由になろうとしているのでしょう。でもその科学者でさえ、定理やデータで自身を説明することはできません。
ハイハイ、自分語り乙!とすでに離脱した方もいるはずですが、まだ読み続けている人は、曖昧な話に耐える力が比較的高いのだと思います。曖昧耐性、大事です。リスペクトしつつ、前回の続きを書きますね。
幼稚園に通っていた頃の私は、「どうしてわたしはすぐきずつくのかなあ」と思っていました。どうも自分は、人の言うことや表情にいちいち反応しすぎるから苦しいのだという自覚はありました。もしかしたら周囲の人に「そんなことで傷つくなんて敏感すぎる」とか言われていたのかもしれません。この過敏さが生まれ持った気質なのか、家庭環境のせいなのか、発達障害のせいなのかはわかりません。それらが影響し合って、感受性の高さが増幅されたのでしょう。
当時の記憶は断片的で、ぼんやりしています。覚えているのは、友達といるといつも拗(す)ねたような寂しい気持ちになっていたこと。なんだかしっくりいかなくて、会話の流れにうまくのれないのです。あちらはおなじみさん同士、自分は部外者、という感じ。後から引っ越してきたので無理もないのですが。加えて、友達もその親も、みんな私に対して冷たいように感じました。
友達の親は、自分の娘や娘の仲良しの子にはとても親しげで優しく接しています。でも私にはなんだかよそよそしい。それがつらくてなりませんでした。私にも関心を示してほしい。遊びにきたら嬉しそうにしてほしい。うんと優しくしてくれたらいいのに。我が子と同じくらい可愛がってくれたらいいのに。友達が親と親密に会話を交わしている様子などを見ると、いいなあ、なんで私じゃないんだろうなあと思っていました。
どこかに、自分を愛してくれる大人がいてくれたらいいのにと、いつも“その人”を探していました。母にとったら酷(こく)なことですが、母以外の誰かに愛されたかったのです。それは既述のように、母の愛が重すぎたことと関係しているかもしれません。私は母の期待と侵襲(しんしゅう)に怯(おび)え疲れていました。無条件で受け入れてくれる人が必要だったのです。
友達のお母さんは、どうやらよその子よりも自分の娘の方が圧倒的に可愛いのだということはわかりました。では友達のお父さんはどうだろう。お父さんは、お母さんよりももっと乾いた人工的なつながりのような気がする。だったらよその子でも愛してくれるのではないか。しかし友達のお父さんは、私にとって性的な脅威でした。なんだか怖くていやらしい存在に見えました。挨拶なんかされても、気持ち悪さしか感じません。
結局、私を嬉しそうに迎えて可愛がってくれる大人は家の他にはどこにもいませんでした。家にいるならいいじゃないかという人が多いでしょう。でも母の愛は純粋なのだけどストーカーの愛なので、自分のための愛なのです。子どもにはストーカーではなく、受容し、庇護する養育者が必要です。「我が子のことが大好きだ」が必ずしも「その子どもの人格を尊重し適切な養育を行っている」にはならないのが、子育ての難しいところです。
ある時から、私の世界には空の玉座が存在するようになりました。大いなる存在に愛され統(す)べられたいと思っているのに、理想の王は不在なのです。思春期になると、玉座と父を比べて失望し、不完全な父を嫌悪しました。やがて交際相手にも同じことをしました。実は玉座につくのは女王でも構わないと思っています。尊敬できる人に愛され認められたい。その人の治める世界で安閑(あんかん)と暮らしたいという願望は今も捨てきれません。
本当は自分が立派になって王位についてしまえばいいのです。空席は埋まり世界は秩序を取り戻すでしょう。しかし残念ながら、私はそれに見合うだけの能力も人徳もありません。出会う人はみな玉座には相応しくなく、この人は良さそうだと思うと、そんなできた人物はすでに他の人の世界の安寧を負うています。そして何より私なぞを治めてやろうとする奇特な人物はいないので、半世紀近くを経てもなお玉座は空のままです。
おそらく、そんなふうに感じたのは家族との間で愛着形成がうまく行っていなかったせいもあるでしょう。あるいは周囲の大人の態度は、親同士の人間関係の影響だったのかもしれません。子どもは親やきょうだいを選べないし、誰でも完璧な親になれるわけではないので、そういう巡り合わせであったというしかありません。
のちにカウンセラーの先生に話したところ、私が育った家族はなかなか大変な家族ではあったようです。本人はさして異常とも思わず、なんだかつらいがこういうものなのだろうと思っていることが、客観的に見たらそうではないことがあるのだとわかりました。
多かれ少なかれ、家族とはそういうことが起きてしまう場所なのかもしれません。私にはこう見えた、こう感じた、ということと、彼らにはこう見えた、こう感じていた、ということはどちらも本当なのです。幸せな記憶もそうでない記憶もどちらも本当です。だからつらいのですね。
彼らが理想とするような「普通の子」ではない私と暮らすのは実際、大変だったでしょう。彼ら自身も愛情に飢えた子どもだったことを思えば、尚更困難だったはずです。
彼らとの間で私が受けた傷や、なされるべきでなかった不適切な言動については、時間が経っても簡単に水に流すことはできません。しかし大人になった今、両親や姉があの家族で幸せになろうとそれぞれにもがいていたのであろうことはわかります。それを思うと、怒りよりも悲しみを強く感じます。感謝と労(いたわ)りと、痛み。そして諦め。
私たちは互いに泉になることができたはずなのに、全員が「私は喉が乾いている! 水をよこせ!」と喚(わめ)くばかりでした。必要だったのは、あなたの泉はどこですか?と相手に尋ねることでした。「あなたは誰なの? あなたを知りたい」と言われれば湧き出る泉を、誰もが胸の奥深くに抱えているのに、一度もそう尋ねられたことがなかった人が集まって家族を作ったがために、バケツの奪い合いになってしまったのです。
中でも最も後から登場し、それゆえ最も弱い立場にあった私は、両親と姉に対して大きな借りがありました。ただでさえ水が足りないところへ、誰よりも水を欲しがる幼い体を持って生まれてくるのは、すでにそこで喉の渇きを抱えている人たちに脅威を与えることになるからです。私は未知の世界に生まれてきてしっかりと喉を潤す必要がある時期に、待ち構えていた家族の渇きを癒やすことを期待されました。彼らに必要な水、つまり愛情を与えることができたのは、本当は誰だったのでしょうか。
両親にとっては彼らの親やきょうだい、あるいは伴侶であるお互いだったでしょう。姉にとっては両親だったでしょう。一番後から生まれてきた子どもにその役目を課すのは酷です。私は彼ら本人よりも、彼らに水を与えなかった人たちを恨みます。しかしそうするとその人たちもまた、喉が渇いていたことがわかりますから、恨みをぶつける相手を探して延々と遡(さかのぼ)り続けることになります。
あるときそのキリのなさに気が遠くなったので、自分が連鎖を断ち切ることに注力するよう発想を切り替えました。私で最後、私で終わり。息子たちにはこの空のバケツのリレーを引き継ぐまいと思いました。答えはまだ出ていません。それは彼らが語ることです。その答えが出る頃には、私はもう南洋のクジラかなんかに転生しているかもしれません。
私が幸運だったのは、成長するにつれ、家族以外の場所で不完全な私を受け入れてくれる人たちに出会えたことでした。悔やまれるのは、私もまた両親や姉に「あなたは誰?」と尋ねなかったということです。今からでも間に合うのかもしれないけれど、なぜか家族だけは、自分の様々な思いが邪魔をして、冷静に接することが難しい。それでも、違う出会い方もできたのではなかったかという思いを、まだ捨てることができずにいます。
発達障害を持つ子どもは育てにくく、障害について親や周囲が理解をしていないと、心がけや根性のせいにされがちです。落ち着きなさいとか、人の気持ちを想像しなさいとか、漢字を覚えなさいとか、何度言ってもできないので、親は「努力が足りない」とか「頭が悪い」と叱責してしまうのです。どうしてこの子は“普通に” “ちゃんと”できないのだろうと。けれどそれがADHD(注意欠如多動症)やASD(自閉スペクトラム症)やLD(学習障害)の特徴の表れであると知れば、適切なケアの方法がわかります。困りごとを軽減し、子どもに合ったやり方を見つけることができるかもしれません。
何より、本人の心がけや努力不足のせいではないとわかれば、周囲の対応が変わります。本人だって、できるようになりたいのです。“普通に”できるようになりたい、なんとかして“ちゃんと”したいと切望しています。だけどなぜか自分にはそれがうまくできないので、周囲から叱られ、自信をなくし、どんどん自分が嫌いになっていきます。“普通”っていったい、なんでしょうか。
私が子どもの頃は、ごく一部の人しか発達障害について知りませんでした。今は、多くの情報があり、支援者もいます。発達障害による困りごとのある子どもにとっても、親にとっても、早くからそうした情報や支援につながることが助けになるでしょう。
我が子が障害者であると診断されたらどうしようと恐れる人もいるようですが、その負の烙印(らくいん)を押しているのはあなたかもしれません。その子は障害者である前にその子です。障害が判明してもなお、その子です。診断名がついた途端に「障害者」という未知の生き物になってしまうのではありません。
本人に合ったやり方で育ててあげるためにも、困りごとが多いようなら、どうやったら軽減できるかを考えるのがいいでしょう。これは発達障害に限ったことではありませんね。答えはその子の中にあります。「あなたは誰? あなたのことをもっと教えて」は、子育てにとどまらず、すべての人間関係の本質ではないかと思います。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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