コラム
「怒っていいことだったんだ」アルビノ当事者が気づいた無自覚な差別
あなたは「差別なんかしない」と言い切れますか?
生まれつき肌や髪の色が薄い、遺伝子疾患・アルビノの雁屋優さん(25)。その外見について、これまで周囲から様々な言葉をかけられてきました。「外人さんみたい」「美人」。一見、ポジティブに思える評価にも、違和感を抱き続けてきたといいます。日常的になされる、こうしたコミュニケーションが、実は差別に当たる――。インターネット上で見つけた記事を読み、雁屋さんは、自分が傷ついたのだと確信できたそうです。無意識に誰かを追い込んでいるかもしれない言動を巡る気付きについて、つづってもらいました。
先日、とある記事を目にした。「マイクロアグレッション」という概念を取り上げたものだ。
記事では、米国に住む黒人の境遇を例に、その内容が説明されている。ショッピングモール内で、警察官が黒人だけを追いかける。犯罪が起きた時、世間の人々が「黒人がやった」と主張する……。筆者の丸一俊介さんによれば、そのような社会的マイノリティに対する「日常的で意図せざる差別」を、マイクロアグレッションと呼ぶのだという。
私は、生まれつき髪や目の色が薄い遺伝子疾患・アルビノだ。これまで自分の外見について、差別的ニュアンスを含む、様々な言葉をかけられてきた。記事を読んだ後、その一つ一つに抱いてきた違和感に、名前がついたと思った。「ああ、あれは、怒っていいことだったんだ」と腑(ふ)に落ちたのである。
マイクロアグレッションは、あまりにも当たり前に行われていて、指摘されなければ自覚することが難しい。私自身、過去の言動を思い返すと、女性にとって、無意識に好ましくない振る舞いをしていたことに気付く。誰かを加害していた瞬間も、確かにあったのだ。
一人一人が持つ加害性への認識を広く共有できれば、立場を超え、より生きやすい社会をつくることができるかもしれない。その足がかりとして、私が体験したマイクロアグレッションについて紹介し、差別が身近に存在することを伝えたいと思う。
中学生の頃のこと。全身が、かっと熱くなるのを感じた。あれは何だったのだろう。怒りか、恥ずかしさか。今考えてもわからない。原因は担任教諭の言葉だ。確か、こんな感じのことを言われた。
「雁屋さんは、アルビノで目が悪くて、君らより見えていないのに、勉強を頑張って学年トップとか取るんだよ。努力家だと思うし、すごいと思う」
アルビノは多くの場合、弱視を伴う。私も例外ではなく、通っていた普通学級では、他の生徒より黒板を見るのが大変だった。問題集や試験の文章を読む時も、テキストやプリントを顔に近づけたり、拡大鏡を使ったりしていた。その意味で、苦労したことは間違いない。
この先生は、クラスメイト全員の誕生日を学級通信で祝い、その用紙を生徒に配る時、誕生日の生徒本人のいいところを皆に伝えていた。中学生の頃の私には、普段話さない人の一面を知ることができるという、かなり意味のある企画であった。
ただ、他の生徒が人間的な魅力を紹介される中で、私のいいところは”アルビノなのに、勉学で成果を出している”だったのだ。どうして”アルビノなのに”、がつくんだろう。”勉学で成果を出している”だけじゃいけないのか。
先生の発言のうち、”勉学で成果を出している”は、褒め言葉として成立すると思う。当時の体験を思い返すたび、私は「勉強を頑張っている」と「努力家」の部分だけを切り取るようにしていた。他の部分を思い出すと、感情の波が襲ってきて動けなくなるからだ。
授業中、私に様々な苦労を強いたのは、「黒板を使って授業をする」などの学びの形式しか用意していない学校だった。
もちろん、様々な環境にある子どもたちに、等しく学習の機会をつくるため、黒板を使うような授業の形が現実的であることは理解できる。その上で、当時の自分の違和感を言葉にするのなら、苦労させた側が苦労した人に向かって「頑張ってて偉いね」と言うようなものだと受け取ったのだ。
「アルビノだから、勉学に苦労するだろう」という偏見は、間違いなく担任の先生の中にあった。今ならきっと、先生に向かって言えるはずだ。「アルビノなのに、は余計です」と。
褒めるつもりで、こんなことを言ってしまうのも、マイクロアグレッションの特徴の一つであるらしい。
どうにも反論しがたい差別を、身内から受けたこともある。
「優は目が悪いんだから、働けないのも仕方ない」
体調を崩して療養中の私に、職がないことを話していた時、年配の身内から飛び出した発言だ。
働けない私をかばってくれたことは重々承知している。その人が生きてきた時代を思えば、私のような視覚障害者は決まった職に就くどころか、就労そのものが難しいととらえられても不思議ではなかった。
そして何より、当時の私は事実として職がなく、反論の余地もないと感じてしまった。アルビノによる弱視があっても、働いている人はいる。そんなことは知っている。でも、当時の私には働ける場所がなかった。だから、私には何も言えなかった。
それでも、「何だかなあ」とむなしい気分になったことを覚えている。何とかして働こうと頑張っている時に、「目が悪いから働けないのは仕方ない」なんて、やる気が削(そ)がれるじゃないか。
とはいえ、それが配慮のつもりであったのも、かばってくれていたのも事実なので、私はやはり何も言わなかった。この発言に関しては、私が経済的に自立して生きていけることを証明するより他ないのだろう。
アルビノで、髪や目の色が薄い私が街を歩いていると、外国人と思われることがある。英語で声をかけられたり、レストランなどで英語版メニューを手渡されたりするのだ。
飲食店でアルバイトしていた経験もあるので、「確かに私のような見た目の人が店に来たら、英語のメニューを急いで持ってくるなあ」と納得がいくこともある。しかし、”普通”でない外見だから”特別”な対応をされているとわかると、少し疎外感を覚えてしまう。
特に、出会い頭に容姿を褒められる時、私はどうしていいかわからなくなる。
「美人ですね」「外人さんみたい」「お人形さんみたい」――。そんな言葉の裏にあるのは「外国人は髪がブロンドで、色白で美しい」というステレオタイプな思考だ。小さい頃は、それに何の違和感も覚えず、「ありがとうございます~」と返していた。
今は、ちょっと戸惑う。そもそも、唐突に「美人ですね」と人の外見をジャッジするだけではなく、いきなり「外国人ですか?」と尋ねられると、内面の繊細な部分に、土足で踏み込まれたような気持ちになってしまう。
これまで述べてきた三つの例は、私が経験してきたマイクロアグレッションである。日本にも、差別は”ある”のだ。決して、遠い国の事件ではない。
そして、これらの発言や行動は、必ずしも悪意によるものではない。むしろ、相手を褒めているつもりであったり、かばっているつもりであったりする。だが、その根底にあるのは無意識的な偏見であり、差別意識である。
これを放置しておくと、特定の人種や宗教、そして障害や難病がある人々への偏見・憎悪に基づく「ヘイトクライム」「ヘイトスピーチ」につながりかねない。だからこそ、自分の中にある差別的感情を、今一度見直すことが大切だろう。
もしかしたら明日、あなたが障害者を始めとしたマイノリティになるかもしれない。その時、暮らしやすい社会であった方がいいのは当然のことだ。
冒頭で述べたように、私自身、マイクロアグレッションを他人にしてしまった自覚がある。だからこそ今から、まずは自分から、様々な立場にある人々の存在を踏まえた言動を意識できるよう、考えていきたいと思う。
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