コラム
「健常者が嫌いなんですか?」 聴覚障害者が考える「分断」の正体
それでも、この「人生」は「面白い」のだ。
「語り合うためには『自分が何者か』を深く知ることが必要なんじゃないだろうか」――。小学生の時に受けたいじめや、一般企業での就職経験などから、日本社会における障害者と健常者の分断を身をもって感じてきた聴覚障害者のくらげさんに、分断を超えるために必要なことについて綴ってもらいました。
この記述を読み、「私も健常者から発せられるそれっぽい言葉が大嫌いだったな」ということを感じたからだ。
申し遅れたが、私は「くらげ」というペンネームで創作活動をしている先天性の聴覚障害と、ADHDのある障害者だ。
私の幼少期のことから、話を始めようと思う。
子どもの世界はときに残酷で「異質なもの」を恐ろしいほど冷酷に排除しようとすることがある。
私もその排除の理論の中で激しくいじめられた。特に辛かったと覚えているのは「くらげに触られると耳が悪いバイキンが移るぞ!」と囃し立てられることだ。
その頃の「友だち」は本だけだったし、おかげで成績はそれほど悪くなかった。そして、同級生の名前も先生の名前も、そしてどんな声を聞いたかもほとんど覚えていない。ただただひたすら、「辛かった」「悔しかった」という思いだけが胸の奥に重いしこりとして横たわっている。
中学1年までは半ば不登校になりつつ普通学校に在籍していたけど、中学2年のときに色々と耐えかねて聾学校に「転校」という名の「逃避」をして、聴覚障害者の世界に逃げ込んだ。
それから10年間、就職して社会に出るまで「聴覚障害者の世界」で過ごしていた。この10年間は、今から思えば伸び伸びと青春ができていて、友達もできれば、初恋もした。部活に精を出したこともあれば、勉強の成績がふるわず怒られたりもした。
その世界で主に使われた言葉は手話であったし(その相手は聴覚障害者か、もしくは聾学校の先生という限られた世界であったのだけども)、「聴覚障害者の世界」は間違いなく、私の「あるべきところ」であったという思い出が残っている。
この世界でいじめや差別がなかったわけではないのだけど、少なくとも「手話」というものを通して「平等」に話すことができた。それに、私のことを「病原体」とみなす人はいなかった。それだけで幸せだった。
そして、その就職した「健常者の世界」は、やはり辛いところだった。大人の世界にはわかりやすいいじめは起きないし、就職したところも幸いに「障害に理解があるところ」だった。だけども、そこは「自分の世界」ではない、という気がした。何か一つ一つ明確に「辛い」ということが起きたわけではない。ただ、日頃からちょっとした「コミュニケーションのずれ」や「聴覚障害だからできないこと」というものが積み重なって、その少しずつの積み重ねが、自分が「障害者」というものなのだ、と日々強く自覚させることになった。
そして、自分は仕事もできず、当たり前のことをすることも難しい「障害者」でしか無い、という殻を纏っていった。
その間にADHDという診断を受けたこともあってますます「自分は障害者だ」という意識を強くした。
そして、その殻の重さに耐えきれず、私はうつ病と診断され、1年の休職の後、退職した。
「健常者」の世界というものに、また潰されたと思った。
さて、話を冒頭に戻す。「私は健常者が嫌いか」という話なのだけど、これはある意味では「イエス」であった。障害者が健常者の無理解に苦しむ話はそこら中に転がっている。
ただ、一方で、知らないが故に「差別的な言動」を繰り返すだけに過ぎないことが多いこともわかっている。
「健常者」という属性がある人の利点の一つに「自分の身体あるいは精神的な特徴を説明する必要が発生しない」ことがある思う。ただ、健常者自身がこの利点に気づくことはあまりないであろう。
障害者の場合、自分の身体あるいは精神的な特徴を説明する必要が発生する。説明することはとても面倒で、ときに暴力的でもある。それに、「受け入れられる」ためには、どんなに怒っていてもニコニコしていないといけないこともある。そういう意味でも、いちいち「障害を説明しないといけない」社会は好きではない。
よく「障害者と健常者の垣根は無い」という人もいるのだけど、私にとっては「自分の問題を高頻度で説明する必要があるかどうか」というところで、「障害者」と「健常者」の違い、というのは厳然として存在していて、私はどうしようもなく「障害者の側」であり、「健常者を中心に回る世界」にはどうしようもない居心地の悪さを感じるのである。
しかし、だ。私の面倒くさいところは、「障害を語ること」が大好きなことだ。健常者の世界にそっぽを向いて「自分は障害者だから」と自分の内側に閉じこもっていれば楽かもしれないけど、自分が「障害者である」ということをつらつらと発信し始めて「障害者というものはとても面白いものだ」と気づいたとき、私は「障害を語ること」の魅力にとりつかれたと言ってもいいかもしれない。「説明はめんどくさい」と言いながら、勝手に話し始める矛盾。
そして、この「障害を語ること」の聞き手は「健常者」であることが多い。語ること、書くことがが私の「健常者の世界との関わり方」で、同時に「自分の障害をより深くし自分が障害者であることを固めていく作業」なのだ。
私が語る話は決して「何かを解決するもの」でもなければ「心地よい話」でもない。しかし、私が素直に感じている「気持ち」を語る中で「健常者への恨み」は少しずつ煙突から立ち上る白い煙が夕焼けの中に消えていくように薄らいでいった。
「面白い自分」であれること、それを語れることに満足していったからだろう。月並みな言葉で表すなら「障害受容ができた」ということかもしれない。
「面白い話」を話すためには、「普通では思いつかないこと」を考えることが何より大切なのだけど、障害者として生きていると「普通ではないこと」を幾度も経験する。
「バーで飲んだ帰りに酔っ払って人工内耳(70万円)を落として一瞬で酔いが覚めて泣きながら探したらバーの看板にぶら下がっていた」とか、「友達と手話で話していたら何故か知らぬ外国人がハンドジェスチャーで話しかけてきた」とか、そういう他の人がしたことのない経験は特に脚色せずに話すだけで面白い。
「話し手」としてはチートクラスの「能力」があるのが「障害者」で、「私には健常者にはない強みがある」と認識したとき、私はこの上なく、強くなれたのだ。
でも、この「障害者は面白い」という気付きに至るまでには、多くの困惑もあったし、それまで感じていた「健常者への嫌悪感」なんて、本当なら感じずに育ちたかったと思う。
常に世を恨み続けながら生きていくのは本当に辛いものだし、体に良くないからだ。今でもストレスその他の問題で身体のあちこちに病気や不具合が生じていて、あまり長生きはしないだろうなぁ、と思う。それでも、この「人生」は「面白い」のだ。
この「面白さ」に考えを頭に巡らせるとき、高校生の頃に読んだ「続堕落論」(坂口安吾)の強烈な言葉を常に思い出す。
障害をもって生まれることは私にとって「地獄の門をくぐった」に等しく、そこから長い時間をかけて、文字通り血反吐を吐いて、今の生きているところにたどり着いた。そして、「語ることを」を覚えた。語ることは生きることだ。そこに「好き」も「嫌い」もなく「健常者」も「障害者」もなく、「語ること」「伝えること」のみがある。「素直に語る力」がここにある。
この世界には「分断」が満ち溢れている。世界に目を転ずれば、障害だけではなく「貧富の差」で「人種」で「思想の違い」で、無数に分断されている。「自分の属性」と「そうでない属性」に分けて、「そうでない属性」からの攻撃に怯えて、ハリネズミのように身を固めて緊張し続けているのが今の世界の一つの実相だ。
この「分断」はそう簡単に乗り越えられるものでもないし、乗り越える手がかりも見えずに世界は今日も混乱している。だけども、乗り越えられないのなら「好き」も「嫌い」も保留して、「語り合う」ことが必要なんじゃないだろうか。
そして、語るためには「自分が何者か」を深く知ることが必要なんじゃないだろうか。
「普通の人」が免除されている「自分が何者かを深く考える責務」を引き受ける覚悟が必要なんじゃないだろうか。そして、その「何者なのか」ということを深く考える中で出てきた言葉は、逆説的だけど、分断の扉を開く鍵になるはずだ。
私の場合は「障害は面白い」という言葉が、自分を取り巻く「障害者」という分断を乗り越える鍵になった。それと同じようなことが、他の人の、他の言葉で起きるかもしれない。
「くらげさんは、健常者が嫌いなんですかね?」と聞かれてから数年経った。今の私はどうだろうか。「好き」と堂々と言えるものでもないのだけど、少なくとも「嫌い」ではないとは答えられる。このくらいの変化はあったことを、少しは「面白いこと」として書けただろうか、楽しんでもらええただろうか、とドキドキしながら、このコラムを書き終える。人工内耳をつけた耳に今年初の鈴虫の音色が聞こえた。残暑厳しい中にも、季節の移り変わる「物語」は進んでいく。
◇
《筆者・くらげ》
先天性の聴覚障害を持つ。補聴器や人工内耳を使わないと、ほとんど声を聞くことができない。ADHDは成人してから発覚した。普段は障害者向けクラウドソーシングサービス「サニーバンク」の広報担当として働いているサラリーマンでもある。著書に「ボクの彼女は発達障害」がある。
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