お金と仕事
Jリーガーの過去隠し営業マンに…トップクラスの成績を残すまで
2回の戦力外通告、人生の選択でいきた「目標の立て方」
スポーツ選手に訪れる「引退」。すべてのアスリートが完全燃焼をして現役を終えるわけではありません。元Jリーガーの近藤健一(37)さんは、引退後に地元企業に就職。営業マンとして働いてきましたが、これまで「元サッカー選手」の過去を隠していました。社会人8年目の今、関係ないと思っていた過去のキャリアが仕事にいかされていることに気づいたと言います。働き方が多様になった時代、アスリートのセカンドキャリアを成功させた近藤さんに、「目標の立て方」の大切さについて聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
近藤健一(こんどう・けんいち)
小4のとき、Jリーグが開幕しました。その影響もあり、小5でサッカーを始めました。当時から体格が大きかったのと、ボールを蹴るより追う方が好きだったので、ポジションはゴールキーパー(GK)を選びました。
プロサッカー選手になろうと思ったのは小6です。でも当時は憧れの気持ちだけでしたね。高校は、地元長崎県のサッカーの名門校、国見高校に進学しました。
同級生のGKに、徳重健太さんがいました。今もJ2のV・ファーレン長崎に所属している現役選手です。彼が常に僕の上にいたので、私は二番手でした。3年間その差を縮めることができず、スタメンになることはできませんでした。
GKの役割はゴールを守るだけではなく、試合全体を俯瞰し、後ろから仲間を動かすリーダーシップが求められます。私にはそこまでのリーダーシップがありませんでした。
なかなかライバルに追いつけない悔しさと、試合に出られない焦燥感に駆られる日々でした。それでもモチベーションを高く保っていられたのは、「相手と比べず、自分は自分のやることをする」と意識していたのと、入部のときにサッカー選手になる夢を実現するために、「3年間しっかりサッカーをやろう」と心に決めたことを守っていたからでした。
入部前は、サッカーの強い高校に行けば自然とスキルがついてくると思っていました。でも違うんですね。恵まれた環境の中でも、考えて、行動しないと成長はしないと感じました。
プロサッカー選手を目指していたものの、高校3年間はほとんど試合に出ていなかったので、実績を残せずにいました。夢を追うのは現実的に厳しいのではと思い始め、就職を視野にいれて進路を考えていた矢先、転機が訪れました。
高3の春、ある大会に出場した際、試合に出場するチャンスが舞い込みました。スタメンGKの徳重さんが日本代表の大会で欠場だったので二番手の私に声がかかったんです。
その大会で私たちは優勝。そこにスカウトマンが来ていて、私はJリーグチームのFC東京からスカウトを受けました。念願のプロサッカー選手になれる……。喜びは計りしれませんでした。
実はこの話には裏があります。広島遠征の当日に朝寝坊をしてしまい、広島行きのバスに乗り遅れました。出発したバスを猛ダッシュして追いかけ、なんとか途中で乗せてもらうことができました。
幸い監督からのお咎めはなく、試合にも出させてもらったのですが、もしバスに乗れなかったら、遠征に行けませんでした。
そうなっていたら、スカウトはされず、プロサッカー選手にもなっていなかったと思います。人生は、いつ、どこで何が起きるかわからないと思った出来事として深く胸に刻まれています。
2002年にFC東京に入団してまず感じたのは、「ここはサッカー選手になって成功したいと思う人の集まりだ」ということ。フィジカル面、スキル面、サッカーの知識と経験、すべてにおいて力不足だと痛感しました。
毎日暗くなるまでトレーニングを積み、試合ではベンチ入りできるも、出場しない日々が続きました。ある日の練習で、ハプニングが起きました。ジャンプした際、着地がうまくいかず、右膝十字靭帯と内側側副靭帯を損傷してしまったんです。
手術し、リハビリをし、1年後の復帰を考えたのですが、結果的に2年間全体練習に参加できませんでした。サッカー選手として契約している以上、グランドに立つことを目標に日々過ごしていたのですが、リハビリを終えて少しずつサッカーをしていこうと思っていた2005年に、戦力外通告を受けました。
FC東京に4年間在籍したのですが、公式戦には1度も出られませんでした。悔しかったです。けど、自分はここで終わらない、まだまだサッカーをしたいという気持ちを強く持っていました。
ちょうどその頃、地元長崎でJリーグを目指しているクラブチームが立ち上がっていました。そのチームからオファーを受けたんです。「まだサッカーをやれる」。二つ返事で入団する旨を伝えました。
そのクラブチームが、V・ファーレン長崎です。これまで長らく「控え選手」でしたが、ここでようやく試合に出場できるようになりました。試合に出るという目標が達成できた反面、チームをJリーグに昇格させるというプレッシャーも同時に感じていました。
チーム一丸で泥まみれになって練習した結果、2012年に日本フットボールリーグ(JFL)でJ2に昇格することができました。長崎にJリーグチームを作ることを目標にしていたので、その瞬間に携われたことは大きな経験になりました。
その一方、古傷のヒザをはじめ、他のケガにも悩まされ、試合には出場できなくなっていました。その結果、同年に2回目の戦力外通告を受けました。
当時29歳。現役を続けるか悩んだ末、選手として続けるのは厳しいと判断しました。まずはGKのコーチになることを考えましたが、ヒザの痛み悪化してボールを蹴られなくなる可能性もあるという懸念が頭をよぎりました。
一般的な社会人の定年まで働くとなると、あと30年以上。長いですよね。60歳の自分を想像したとき、コーチで食べていくのはリスクが伴うと感じました。
当時、子どもがいたので、家族を養っていく必要もありました。これまで好きなサッカーを十分にしてきた、これからは家族に心配かけたくない、という思いもあり、「外の世界」にも目を向け始めました。
就職活動中、興味があったり、声をかけてもらったりしたところに話を聞きに行きました。その一つが今勤めているLPガス事業のチョープロです。縁とタイミングもあり、2013年1月に入社しました。
ガスの知識はもちろん、社会人としてのマナーもままならなかったのですが、職場では温かく受け入れてもらい、ありがたかったと感じています。
私はこれまで、サッカーをしていたことをひたすら隠してきました。元サッカー選手という肩書ではなく、今の自分で勝負したかったんです。今思うと、強がりですよね。実は、そう思う背景には、現役時代に完全燃焼できなかった思いがくすぶっていたと感じています。
試合には出られるようになったし、Jリーグチームにも昇格しました。でも、一選手として「もっとできたのでは」という消化不良の気持ちが残っていて、過去の自分を認めることができていませんでした。
チョープロは長崎の地元企業なので、営業先でV・ファーレン長崎を応援してくださっている方に会うこともありました。そういう方には、隠していても元選手だとすぐバレてしまうんですね(笑)。
「自分のことを知ってくれているなんて、なんてマニアな方なんだろう」と心の中で思いながらも、素直にうれしかったです。頑張っている姿を、どこかでちゃんと見てくれていた人がいたのだと、胸が熱くなることもありました。
初対面の人に営業する際、お互い緊張しますよね。張り詰めた空気感の中、「元V・ファーレン長崎の近藤さんですよね」と言ってもらえることで、その場の雰囲気が一気に和むんです。
サッカーの話が緩衝材となり、相手の方と打ち解けられたことも1度や2度ではありません。成約の有無にかかわらず、サッカーの経験自体が仕事で役立っていると今は感じます。サッカーの経験に甘えない、と強がっていましたが、営業をするうえでずっと助けになっていたのは、実はサッカーの経験だったということに最近気づき始めました。
引退後は卑屈になっていましたが、営業の仕事を通じて、現役時代の自分を認めることができました。人生におけるどのステージでも、人と比べて劣等感を抱くことがあると思います。そんな時は「自分の目標」を立て、一歩ずつ進んでいく。それに尽きると思います。
2016年からは、新設した子会社の長崎地域電力に出向し、電気の小売をしています。時には飛び込み営業をすることもあるのですが、地道にコツコツ進んでいった結果、営業でトップクラスの成績を収めることもできました。まだまだ事業を発展させいきたいので、これからも営業マンとして精進し、地域、そして社会に貢献していきたいです。
若手の選手に伝えたいことは、その頑張りを、どこかで見ている人がいるということ。自分を信じて、前に進んでいってください。
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