連載
#2 #半田カメラの巨大物巡礼
巨大仏「ただデカいだけ」じゃない歴史、修復支えた「チーム観音」
観音像への愛情が生み出した「やさしい世界」
あまりの大きさゆえに、「成り金趣味」「ただデカいだけ」などの批判にさらされがちな「巨大仏」。そうした軽薄なイメージとは裏腹に、多くの人々に愛され、今も大切に維持されている56メートルの観音像「東京湾観音」をご存じでしょうか? 災害や戦争の記憶を保つため、約60年前に誕生。以来、6回も修繕を受け、建立者の願いを伝え続けているのです。背景には、大きな体を管理する守り人たちの集団「チーム観音」の存在がありました。仏様と、その周囲の人々が醸し出す雰囲気に魅せられた写真家・半田カメラさんが、修復作業の現場に広がった「やさしい世界」について伝えます。
高さ56メートルの巨大観音像・東京湾観音は、千葉県富津市の東京湾を一望する高台に立っています。この像も、外から見ただけでは本来の素晴らしさを知ることが難しい、巨大仏の一つかもしれません。
「商売はやめて、これからは世界平和をやる」
これは今から約60年前に東京湾観音を建てた、宇佐美政衛(うさみ・まさえ)さんが、家族に伝えた言葉です。「世界平和をやる」と決意させたのは、戦時中の想像を絶する悲惨な体験でした。
第二次世界大戦中の1945(昭和20)年3月10日、東京の下町が大規模な空襲が見舞われました。東京大空襲です。焼死、水死、凍死などで、一夜にして9万5000人を超える方々が亡くなりました。
当時、深川で材木問屋を営んでいた宇佐美さんは、町会長や消防団などの責務を果たしていました。しかし、消火法はバケツリレーのようなもの。太刀打ちできるはずもなく、目を覆いたくなるような光景が広がる中、一面の火の海を必死で逃げたそうです。
それから間もなく、日本は終戦を迎えました。宇佐美さんは自身の菩提寺(ぼだいじ)である経王寺(きょうおうじ)や、富岡八幡宮再建の建設委員長を務めるなど、今でもよく知られている名刹(めいさつ)の発展と、街の復興に尽力します。
そして、二度と悲劇を繰り返してはならないと、自身が生まれた千葉県に、世界平和のシンボルとしての巨大観音像をつくる、壮大な計画を実行に移すのです。その構想が始まったのは、1956(昭和31)年のことでした。
現在のようにクレーンなどない時代。微妙な曲線や凹凸のある複雑な形状の観音像は、下からコンクリートで一段一段積み上げられ、4年の歳月をかけ1961(昭和36)に完成しました。当時最先端の建築技術が用いられた、大変興味深い建築物であると同時に、仏像としての美しさも兼ね備えています。
原型作者で、高村光雲に師事した彫刻家・長谷川昻(はせがわ・こう)さんは、巨大な観音像が、自然の前に立ちはだかるものであってはならないと考えました。
著書『風と道』には「自然に舞い降りた天人のように、遠望には塔のような美しい輪郭で自然との調和を保つ」とあります。そのような思想で、巨大でありながらも、自然と調和する美を目指して造られたのです。
外観の美しさは一目瞭然ながら、知って頂きたいのは東京湾観音の内部構造です。
東京湾観音の内部は、天上界を模した最上階へと続く314の階段で構成されています。中心に支柱を設け、その周りのらせん階段を登っていくのですが、中盤から様相が変わってきます。突如として横穴が出現するのです。
この横穴を進んでいくと、突然光が差し込み、屋外型展望台の前に広がる絶景に度肝を抜かれます。眼前には観音様の手らしきものが見え、自分の今いる場所が腕の上であり、抱えられているのだと初めて気付くのです。
展望台はこれ一つではありません。もう片方の腕の上、両脇部分、頭の宝冠部分と複数存在します。また、観音様の首から上は体のラインに沿って狭くなるため、階段の幅が徐々にすぼまり、はしごを登って行くルートも現れます。
耳穴や鼻穴も、実際に穴が空いており、触れられるなど、観音様の胎内をもれなく使い尽くした構造は他に類を見ません。自分がどの辺りにいるのかわからなくなる、日本唯一と言ってもいい「内部で迷子になれる巨大仏」だと思います。
決して大げさではなく、私はこんな迷宮のように不思議な建造物を他に知りません。東京湾観音には、当時の職人さんならではの技術や発想がいっぱいに詰め込まれており、技術が進んだ現代でも再現は難しいのではないでしょうか。
ここまで、誰がどんな想いで造ったのか、内部がどうなっているのか、書いてきました。最も伝えたいのは、巨大仏は建てることよりも、建てた後の方が重要ということです。
東京湾観音は宇佐美政衛さん亡き後、息子である芳衛(よしえ)さんに引き継がれました。現在は芳衛さんも高齢で、孫の衛(まもる)さんが実質、維持管理を行っています。
宗教法人化されているものの、観音像以外に施設があるわけではなく、参拝料はわずか500円(2020年6月現在)。観音像の保守にかかる費用のほとんどは、一族、関係者の寄付により賄われています。
コンクリートの耐用年数は100年程度と言われますが、その期間を超えて東京湾観音を守っていくため、建立から現在までの約60年間、大小合わせて6回の修繕が行われています。
そのうち5回の工事は、観音様の頭の上からゴンドラを降ろし塗装を行うというもの。細かく塗装の行き届かない部分もありました。そのため6回目となる2018年の修繕では、56メートルの観音様をすっぽり覆う足場を組んで、過去最大の補修が行われたのです。
工事に先立つ2018年3月、国内でも数少ない、高さ40メートルまでアーム部分が伸びるクレーンでの調査が実施されました。これにより、観音様の表面のコンクリートは、大規模な修繕作業にも耐えられるだけの厚さを備えており、60年近く前の建造物として精度の高いものであることが確認されました。
この結果をふまえ、同年5月に着工。7月半ばには芸術的な足場が完成しました。
実は私は、その上に2度立たせて頂きました。それぞれの職人さんの技術の素晴らしさについては、改めて書くまでもありません。実際に現場を見て何より感動したのは、工事に関わる全ての人々が、東京湾観音に愛情を持っていると感じられたことです。
工事関係者のヘルメットには、東京湾観音の画像があしらわれたステッカーが見えました。その一体感がうらやましくて、2度目の訪問時にマイヘルメットを持参。私もステッカーをもらって貼り付け、「チーム観音」の一員になった気分を味わいました。
この「平成の大修復」は18年12月に無事終了し、同じ月の19日にリニューアル工事の落慶法要が行われました。真っ白に生まれ変わった観音様は、より一層美しく、うれしそうに見えました。
それから約1年半。一時、新型コロナウイルスの影響で休業したものの、今年6月現在、通常どおり参拝できるようになっています。
巨大仏を維持するため必要なこととは何か――。宇佐美衛さんに伺うと、こんな答えが返ってきました。
「創業者の理念(考え方、想い)の継承と、後に残された者たちがいかに心合わせをするか」
建立した政衛さんの世界平和への想いは、芳衛さん、衛さんに引き継がれ、地元遺族会を招いた法要が今も続けられています。観音様に常駐する支配人を始め、スタッフ全員が同じ想(おも)いで管理に当たっているのです。
その想いは工事関係者に至るまで伝わり、誰もが「チーム観音」を形成していました。私は、観音像と、守護する人々を含めた全体が、「東京湾観音」なのだと考えています。
この優しい人たちと、観音様を取り囲む穏やかな空気に触れるため、私はまた現地へと車を走らせます。
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