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JUJU、「否定」の末に生まれたヒット曲「16年も続いたのは奇跡」
切ないバラードやアップテンポの曲、ジャズ……と幅広く歌いこなす実力で知られる歌手のJUJUさんは、「語り部として物語を届ける人でありたい」と言います。デビュー後、ようやく生まれたヒット曲「奇跡を望むなら…」。実は「自分を否定されたような」瞬間があったと明かします。「挫折の連続」だったというJUJUさんに「音楽にしかできないこと」について聞きました。(朝日新聞・坂本真子)
JUJUさんがメジャーデビューしたのは2004年。8年目に初めてのベストアルバムを出してから8年たった16年目の今月、CD4枚組みで全52曲入りのベストアルバム「YOUR STORY」を出しました。
仮想のシネコン「シアターJUJU」にある4つの劇場、という設定で、赤は大きな愛、紫は切なくて心がちぎれそうになる歌、ピンクは全ての初期衝動、そして青は前に進もうとする全ての人たちに届けたい物語を集めました。
「基軸はみんなブルーだと思うんですよ。でも、そんなときに、昔ままならなかった恋を、時間がたったから思い返してもいいかな、と思ったときのシアターパープルだったり、もう恋愛することはないと思っていたら誰かを好きになってシアターピンクをのぞいてみたり、お母さんと長く話したなぁと思ってシアターレッドを訪れたり。私自身もブルーですけど、ピンクに行きたいし、最終的には赤を見つけたい。一番わかりやすくて、自分でもしっくりくる色なんです」
テレビのトーク番組などでは、おしゃれでさばけた、素敵な大人の女性としてファンの多いJUJUさんですが、これまでの歩みは決して順風満帆ではなかったそうです。
「楽曲も私自身も、本当にいろんな物語と出会ったし、どんなタイプの曲を歌っても楽しんでくださる方がいるから、私も歌ってこられた。16年もJUJUが続いたのは奇跡です」
JUJUさんが音楽と出会ったのは子どもの頃。テレビから昭和歌謡が流れる時代に、最も影響を受けたのは、母方のおばさんでした。
「シャンソンやジャズが好きで、夜ごと私と姉を横に座らせて、お酒のグラスをカランカランいわせながら、しゃがれ声で歌ったり、社交ダンスを踊らされたり。私はいったい何なんだ、大人って勝手だな、と思っていたけど、そういうジャジーな世界に憧れたのが始まりでしたね」
ジャズ歌手を志し、18歳で渡米。希望に胸を膨らませて向かったニューヨークでの日々は、しかし、挫折の連続でした。
「あまりにも歌がうまい人が多すぎて、ホームレスのおじさんが聴いたことないぐらいうまいとか、オープンマイクというのど自慢大会のような催しのホストが宇宙一ぐらいうまいのに、デビューしていないとか、現実を突きつけられたんです。でも、私も歌うのが好きでやめられないから、私にしか歌えない何かがあるかもしれない、と開き直って歌い続けて。そういう気持ちになれたのは、NYに行ったからですね」
NYに10年近く暮らし、ジャズクラブなどで歌い続けたJUJUさんは、日本でデビューするチャンスをつかみます。
2004年8月、シングル「光の中へ」でメジャーデビュー。当初は思うように売れませんでしたが、「これがダメだったら後はない」と覚悟を決めて臨んだ2006年のシングル「奇跡を望むなら…」が、起死回生のロングヒットを記録しました。
「この曲で初めてJUJUを聴いてくださっている方が存在することに気づけました。それまでは暗闇に向かって歌っている感じで、誰がどこで聴いてくれているのかもJUJUに興味があるのかもわからなかったんです。でも、この曲の後、初めてお便りをいただくようになって、聴いてくださる方がいることを知って歌えることが、こんなにも幸せなことなんだな、と知りました」
同時に、歌に対する概念も180度変わったそうです。
「JUJUが歌うのはこんな曲、と自分で決めるのは愚の骨頂だな、と。私が歌いたい曲じゃなく、みなさんが聴きたいと思うものを歌いたい。そう考えるようになりました」
実は当初、違う曲を先に出す予定で準備していました。
「奇跡を望むなら…」ではない、別の曲というのは、「ありがとう」。2012年に映画「ツナグ」の主題歌として発表された曲です。
その制作過程で、作曲者で音楽プロデューサーの川口大輔さんから、「日本語のバラードで、必要以上のビブラートをきかせたり子音が強すぎたりすると、言葉の意味が濁るんだよね」と指摘されたそうです。
JUJUさんは、日本語っぽく聴かせないように心を砕いてきた、それまでの自分の歌い方を完全に否定されたように感じて大きな衝撃を受け、スタジオ内の空気も凍りついたとか。
「全否定されたショックで記憶があいまいなんですけど、びっくりしたし、悲しいし、イラッとしたし。でも、川口君が言うように歌ったバージョンと、私が好き勝手に歌ったバージョンを持ち帰って、家でじっくり聴いてみたら、なるほど、と思ったんですね。日本語で歌うなら、言葉をちゃんと届けなきゃいけないんだ、と」
そして、2011年にジャズのアルバムを作ったとき、JUJUさんは大きな発見をしました。
「ジャズはデビュー前の本名の私ののどで歌うんだな、と気づいて。それは、どこにも負荷がかかっていない状態なんです。でも、JUJUさんののどは、力を入れてギアを上げた状態なんですね。全然別のところに存在するんだ、というのが、デビューしてからの一番の発見でした」
「奇跡を望むなら…」の頃からずっと、物語の語り部として歌ってきたというJUJUさん。ステージで歌う姿は、とても気持ち良さそうに見えますが……。
「気持ちいい、と思って歌っていることはないです。お仕事なのに、歌う方が『気持ちいい~』っていうライブは、見たら気持ち悪いと思います。気持ちいい、と思った瞬間にブレーキがかかるので、多く見積もって1年に6小節ぐらいです。カラオケは気持ちいいですけどね(笑)」
JUJUさんはなぜ、歌い続けるのでしょうか。
「私は子どもの頃、唯一自分の存在意義を自分で認められる手段が歌でした。というのも、出来すぎる姉がいまして、唯一勝てたのが歌だったんです。私は私でいていいんだな、と唯一思えたから、歌をもっと好きになったし、大人になってからは、嫌なことや悲しいことがあっても、こういう歌を歌うために起こったことに違いない、と考えてきました」
音楽と共に生きてきたJUJUさん。音楽が持つ力も信じている、と言います。
「私自身、今まで本当に音楽に救われてきたので、音楽にしかできないことはあると思っています」
例えば、若い頃のこと。怒り心頭の状態でバーに飲みに行くとボサノバが流れていて、一気に怒りが静まったことがあったそうです。
「ありがとうボサノバ、と(笑)。音楽は言葉がわからなくても、声や語感の響きで切なくなったりする。音楽ってすごいな、と私は今までの人生で何度も思っていますし、今も一番心がときめく瞬間は、この曲すごい!と思う瞬間なんです。誰の曲かわかったときに『イエス!』という感覚。この収穫に勝るものなし、と思いますし、年に何回かの出会いが一番幸せです」
そういう音楽との出会い、そして、JUJUさんが歌う楽曲との出会いには、偶然と必然を感じるそうです。
「物事には全て理由があるんだろうな、と思うし、この曲に偶然出会った理由は何だろうと考える。これからもずっとそれを繰り返して歌い続けます。10年たっても20年たっても、『変わらないですね』と言われていたいですね」
最後に、JUJUさんのようになりたい、という若者に、どんな助言をしますか、と尋ねると、「うーん」と少し考え込みました。
「もし私に子どもがいたとして、その子に歌手になりたいと言われたら、お勧めしないですね。ほんとに大変な世界だから。歌手は、思っているほど華やかな世界じゃ全くないし、好きなことを仕事にする喜びと悲しみがあるので」
あえて冷静なアドバイスには、「順風満帆ではなかった」という道のりの厳しさを感じます。
「すごく好きなことだから楽しみたいけど、楽しんじゃいけないという、相反するものを自分の中でどう消化するか。仕事になった瞬間に、ものすごく悲しいときにものすごく楽しい曲を歌わなきゃいけないし、ウキウキウッハーみたいなときでも悲しみのなれの果てみたいな曲を歌わなきゃいけない」
ヒット曲「奇跡を望むなら…」が世に出るまでに何度も挫折した経験と、その後に花開いた才能。自らの軌跡が、仕事としての音楽に向ける真剣なまなざしにつながります。
それでも最後は、JUJUさんらしいポジティブなメッセージで締めました。
「どうしてもやりたいのであれは、何も考えずに突き進め、と言うでしょうね。誰に何を言われても自分の心に従って進んでください、と。そして、信用できる人を確実に見極めることが最も大切なので、何があっても絶対信用できるかじ取り役を見つけて頑張ってください、としか言いようがない。あと、うまい話は疑え、と(笑)」
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