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川底から見つかった母の頭蓋骨 津波を前に「逃げられなかった」現実
高台まで歩けば5分という家でした
東日本大震災からまもなく9年を迎えます。昨年2月、岩手県大槌町では、津波対策のための水門工事中に、川底から頭がい骨の一部が見つかりました。DNA型判定の結果、津波に流されて行方不明だった三浦フミノさん(当時89)の骨だと6月に判明しました。フミノさんの自宅は、5分歩けば高台があったのに……。そのことを知った私は、フミノさんは何かを伝えようとしているような気がしました。どんな人生を送り、どういう状況で亡くなったのか。遺族を訪ねると、社会的弱者の「逃げられなかった」現実が浮かび上がりました。
フミノさんの次女の沢舘友子さん(70)が、大槌町内に住んでいることが分かり、昨年末に自宅を訪ねました。
沢舘さんも海に近い場所にあった自宅を流され、仮設住宅を経て、フミノさんが残してくれた畑に自宅を再建して暮らしていました。
沢舘さんはフミノさんの人生を話してくれました。フミノさんは沢舘さんが子どもの頃に、夫を亡くし、それからは土木作業をしながら沢舘さんたち子ども4人を育てあげました。その後、病に倒れました。年を重ねて体も不自由になり、フミノさんの孫の冨士子さん(当時47歳)がフミノさんを介護していたそうです。
その冨士子さんも、津波以降、行方不明のままです。
フミノさんの家から歩いて5分とかからない所に高台がありました。でも、沢舘さんは想像します。
「冨士子は、ばあちゃんを置いて逃げられなかったんだろう。担いで逃げるだけの体力はなく、『避難所に行っても迷惑をかけるだけだし』と思ったのかもしれない」
冨士子さんは震災前、沢舘さんにこっそり、「結婚を約束している男性がいる」と打ち明けていました。しかしその男性も、津波で亡くなりました。「あの世で仲良くしていてほしい」と沢舘さんは話します。
沢舘さんの自宅の居間は、壁一面が「仏壇」になっていました。冨士子さんが好きだったネコの小物がいくつも置いてあり、今の隣の部屋には、「夢に裸で出てきたから」と、沢舘さんがフミノさんや冨士子さんのために買った洋服を何着もかけてありました。
沢舘さんが、フミノさんと冨士子さんが「逃げられなかったんだろう」と思ったのには理由がありました。沢舘さんも同じような状況に陥るところだったからです。
震災当時、寝たきりの夫(震災後病死)を在宅介護していました。地震当日は、たまたま夫が入院していたので、沢舘さんは1人で逃げることができました。でも震災前から「『津波が来たら一緒に死ぬことを覚悟して』と夫にも告げていた」と話します。
フミノさんらは、決して特別な例ではありません。町内の医師・道又衛さん(66)は震災の1カ月ほど前から、不気味な地震が頻発していたので、往診に行くと必ず介護者に「津波が来たら、置いて逃げなさい」とこっそり忠告していました。しかし、担当していた4世帯で、患者と介護者が一緒に犠牲になりました。
一方で、道又さんは「震災後、自分だけ逃げたり、津波の中で家族と手が放れて助かった人が、心に傷を負って苦しんでいる話をすると、結局どうすればよかったのかわからない」と話します。
大槌町の安渡(あんど)町内会では、地区住民の1割を超す216人が犠牲になりました。震災前から要介護者のいる家庭のリストを作り始め、町にも車いすで避難できるように高台に向かう階段をスロープにして欲しいと要望していました。しかし、心配は現実になりました。
震災後にも「どうすればいいんだ」と議論を続ける中で、三つのルールに行き着きました。
(1)避難は原則徒歩。でも要介護者(介護が必要な人)がいる家庭は、介護者が車に乗せて避難してもいい
(2)車の使えない家庭は、介護者が要介護者を軒先まで運んでから逃げる
(3)車で通りがかった人は、軒先の要介護者を乗せて逃げる
ただ、住民たちは「これから高齢化が進み、在宅の要介護者が増えていくのに、このルールで対応できるのだろうか」と不安を隠しません。
厚生労働省の推計では、団塊の世代がすべて75歳以上となる2025年には、在宅医療を受ける人が現在の約1.5倍になり、100万人を超えるとしています。
どうやったら家族も自分の命も守れるのだろうか――。津波の心配がある沿岸部だけではなく、豪雨や台風の災害が頻発する最近は、全国どこでも考えねばならないことです。津波に比べれば、事前に避難する時間があるはずですが、逃げ遅れたり、自宅から出ずに犠牲になる人は後を絶ちません。
昨年10月の台風19号が襲来する前、福島県いわき市小川町の町内会長・碇川寛さん(72)は、川の近くに暮らす90歳代のお年寄り夫婦を高台に避難させようと説得にいきました。
夫は左半身が不自由で高台に行くのを不安がりました。再び説得すると、避難することに同意しましたが、東京に住んでいる長女に相談すると迷惑をかけると思ったからか「大丈夫だから行かなくていい」と言われて、また避難しないと言い出しました。
碇川さんは諦めかけましたが、故郷の大槌町での津波の記憶が残っていました。もう一度説得して若い男たちに頼んで夫を担いでもらって避難させました。その後、川があふれて、周囲は高さ2メートルまで浸水が達しました。「そのまま自宅にいれば、死んでいただろう」と碇川さんは胸をなでおろした。
「迷惑をかける」と避難を躊躇する人がいる一方で、東日本大震災の時には、岩手県釜石市に暮らしていた全盲の小笠原智さん(73)は、100歳近い足が不自由な母を車いすに乗せて避難しました。母が小笠原さんの目の代わりになって逃げて、2人とも助かりました。小笠原さんは「社会的弱者は、率先して逃げないと、健常者を巻き込んでしまう」と話しました。
私たちの最も重要な防災は、「まさか」と思っても大事をとって避難することだと、各地の被災地を取材していて感じます。それには「迷惑をかける」と思わないこと、周囲も気兼ねさせないこと。そして、それができる関係をご近所で培っておくことだと思います。
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