連載
#8 東日本大震災8年
炎上の日、ウーマン村本さんに頼まれた「浪江町を案内してほしい」
ウーマンラッシュアワーの村本大輔さん(38)は、2月、東京電力福島第一原発事故で避難指示が出た福島県浪江町についてツイッターで「町がなくなる」と発言し炎上しました。福島に勤務して1年、炎上の現場に居合わせることになった私は、村本さんから「浪江町を案内してほしい」と頼まれました。発言の真意は何だったのか。車中で村本さんから質問攻めにあったあの日を思い出しながら考えてみました。
「福島の浪江町で21時以降の遅くまで空いてる飲み屋さんありますか?(中略)自分の町がなくなることへの話が聞きたい」。
2月12日未明、村本さんは自身のツイッターにこう書き込みました。この発言に対し、「住んでいる人に失礼」などの書き込みが相次ぎ、村本さんは15日、「思いやりのない言葉を使ってしまった」などと謝罪。スポーツ紙やネットメディアなども取り上げる炎上騒ぎとなりました。
村本さんが問題のツイートをした12日午前1時すぎ、自宅で夜更かししていたところ、偶然、このツイートを目にしました。「返事が来るわけないよな」と思いながらも、深夜のテンションで「浪江駅のそばにある『いふ』、おすすめです」と私用のインスタグラムでメッセージを送りました。
福島の浪江町で21時以降の遅くまで空いてる飲み屋さんありますか?あと宿も。知ってる方いたらインスタのDMください。自分の町がなくなることへの話が聞きたい。ちなみに明日の話です。
— 村本大輔(ウーマンラッシュアワー) (@WRHMURAMOTO) 2019年2月11日
12日の昼過ぎ、何げなくインスタグラムを開くと、「いふで19時から飲みます」と返信が。思わぬ展開になり、浪江町に行くことにしました。
浪江町までは、会社がある福島市から車で約1時間半。午後8時過ぎ、浪江町に到着しました。JR浪江駅周辺は一戸建て住宅が並んでいますが、明かりがついているのは半分以下でしょうか。道路は暗く、見上げるときれいな星空が広がっています。
駅前の居酒屋「いふ」からは、外まで笑い声が聞こえてきました。扉を開けると、約20人が入れる店はすでに満席近く。
「若者、待ってた。座って座って」。奥の座敷で、10人ほどの団体の真ん中に座っていた村本さんが振り向き、声をかけてくれました。
席に着くと、酒を飲みながら議論の真っ最中。議題は「いま浪江について思うこと」。村本さんはフジテレビ系の「THE MANZAI」で早口でキレッキレのボケを連発していたテレビの中の姿そのままで、自分がなぜ福島に来たかを語っていました。
「僕はね、福井県おおい町出身です。原発の町で、浪江の問題は近い将来のうちの町かもしれない。ほんとはマカオに行って遊ぶ予定やったのをやめて来たんです」
村本さんが来ると知って来た人が半分、偶然居合わせた人が半分といったところでしょうか。みなが順番に震災の時どうやって避難したか、自分が今どういう生活をしているか、原発についてどう思うかなどを話しました。
生まれも育ちも浪江町だという50代の男性は「町がなくなるっていう言葉は気にくわない。俺はじいさんの代からこの町に住んでんだ。帰りたくたって帰れない人もいるけど、この町をなくすことはできないんだ」。村本さんは「僕はここに来るまで浪江について何も知らなかった。浪江の人たちの目を見て話して、何に対して怒り、何に対して悲しんでるか分かった」と答えました。
ある男性は村本さんにこう話しました。「村本さんが浪江を目で見て、都会に帰ってそれを発信してくれるのが俺らは一番うれしい。ぜひ浪江を見て行ってほしい」
2時間ほど話した後、帰り際、村本さんから頼まれました。
「明日、浪江町について教えてほしい」
翌日午前9時、村本さんを宿まで約束通り車で迎えに行きました。本当なら村本さんは始発電車で東京に帰る予定でしたが、仕事の予定を変更して浪江に残ることにしたのです。2018年4月に全校生徒10人で開校したなみえ創成小学校・中学校を訪問することに。
子どもたちは授業中で、「吉本の芸人だよ」と話しかけても、ぽかんとした顔で見つめる子ども。「最近俺、テレビに出てないから」と村本さんは苦笑い。20代くらいの女性教員だけがびっくりした表情で村本さんを見つめていました。
小学校の訪問後、村本さんを福島駅まで送るため、山あいの国道114号を車で走りました。原発事故の発生直後、この細い一本道が避難する浪江町民で大渋滞になったそうです。
約1時間半、車内で村本さんの質問攻めに遭いました。「福島の米って食べても大丈夫?」「聖火リレーはどこを走るの?」「避難指示っていまどうなっているの?」
私も村本さんに一番の疑問をぶつけました。「なぜ富岡でも南相馬でもなく、浪江に来たんですか?」
「特に理由はないんだよね。『浪江』って地名はよく耳にしていたし、原発事故の被害が大きい町って言うイメージがあったから」
途中、原発事故で帰還困難区域のままの浪江町津島地区を通りました。村本さんは車の中から鉄格子で封鎖された道路の向こう側の町を眺め、「ここに町があったのか」と小さな声でつぶやきました。
福島駅で別れ、村本さんは新幹線で東京に帰りました。いまも村本さんから「汚染水について教えてほしい」といった内容の連絡が時々あります。あの日以来、福島のことを必死に知ろうと努力しているようです。
「自分の町がなくなることへの話」ってので炎上してるらしい。たしかに思いやりのない言葉でした。僕の地元が福井県のおおい町で、地震があったら、って考えたら、感情的になって思いやりのない言葉を使ってしまった。すいません。 https://t.co/sGTJX9iNhy
— 村本大輔(ウーマンラッシュアワー) (@WRHMURAMOTO) 2019年2月15日
村本さんの発言を、どう受け止めるべきなのか。あらためて考えてみました。
私は昨年4月に名古屋から福島に赴任しました。恥ずかしい話ですが、それまで福島がどういう状況か、住民が今どういう思いで暮らしているのかほとんど知りませんでした。
赴任して1年間、取材や飲み屋で多くの福島の人に会い、福島の人たちが地元に対して抱く思いを知りました。家を再建して帰った人、様々な事情で帰れない人。全員に共通するのは「ふるさとが好きだ」という思いでした。
「町がなくなる」という表現は、以前の私でも悪気なく使っていたかも知れません。私や村本さんを含め、福島の外に住む多くの人たちが原発被災地に対して抱く感覚そのものなのではと思います。
今回、村本さんも足を運んで暮らしている人たちの思いを聞くことで、「町がなくなる」という発言の深刻さに気づいたのではないでしょうか。
「福島の話を漫才でする以上、ネットや本で知った話はしたくなかった。無責任なことは伝えられないから」。村本さんは車内でそう言いました。
一人でも多くの人が福島を訪れ、福島の現状を直接目で見てほしい。震災から8年。かつての自分を振り返りながら、今、そう思っています。
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