連載
#12 #まぜこぜ世界へのカケハシ
ろう者の写真家・齋藤陽道が手話で語った少数者としての「生存戦略」
音のない世界で「声」を撮り続けている写真家がいます。齋藤陽道(はるみち)さん(35)。ミスチル(Mr.Children)のアルバムジャケットなど、有名アーティストを被写体に数々の作品を手がけてきました。齋藤さんは、耳が聞こえないろう者です。聞こえる人たちがつくる社会で生活をしている聴覚障害者たち。中でも、第一線の写真家として活動する齋藤さんは「わかり合えないことって、誰にでもある。その孤独感が、聞こえる人と聞こえない人をつなげることもできる」と話します。齋藤さんの言葉から「誰かとわかり合う」ことの意味を考えます。(withnews編集部・平尾勇貴)
現在、写真集『宝箱』(ぴあ)と『感動』(赤々舎)を刊行し、7年がかりの写真プロジェクト「神話」に取り組んでいる齋藤さん。写真を撮り始めたきっかけを聞くと、意外にも「写真が好きで始めたわけではない」と語ります。
初めてインスタントカメラを手にした中学生の頃は、不自然なくらいに人の写っていない写真が多かったそう。人の感情や意思が宿る「声」をモチーフに選ぶようになったのは、手話に出会ってからでした。
「とにかく、いろんな人や動物や、見えないものなど、いろんな存在と関わりたいと思っていて、それにあたって、写真がすごくちょうどよかったという感じですね」
齋藤さんの写真集には、動物や風景、障害者、LGBTQなどが被写体となっている写真が収められています。そのどれもが被写体の「声」を感じさせる写真ばかりです。
こうした被写体の「声」が写し出される写真は、多くの人々を魅了し、日本写真協会新人賞をはじめ数々の賞を受賞するなど評価されてきました。
齋藤さんが撮る写真の多くは、被写体を中心に据えた「日の丸構図」で撮られたものです。それは、齋藤さんが被写体の存在に真正面から一対一で向き合ってきた結果でした。
聞こえないという孤独のなかで、世界と自分とを結びつけるものとしての写真。写真を撮ることを通して、他者と関わり、つながろうとしていたそうです。
「写真をやることで、他者と関わるために必要な『声』というものの限界が、どんどん伸びて、広がっていく感じがあって、それが、とにかく、うれしくて、おもしろいです」
齋藤さんは「声」を「目の前にいる存在とこの私との間で相互に通いあうもの」だといいます。手話、表情、手のぬくもり、やわらかなまなざし、抱きしめられた時の力強さ。写真家としての原点は、こうした豊かな「声」の届かない「孤独」にありました。
齋藤さんが耳が聞こえないと分かったのは、2歳になる頃。発音を身につける施設で、しゃべるための厳しい訓練を繰り返したそうです。
しかし、そうして身につけた自分の発音は、自分の耳では聞こえません。自分の言葉のはずなのに、目の前の人の反応をみることでしか確認できない言葉でした。
それでも、小中学生の時は、聞こえる世界に憧れて、音声言語にこだわり続けました。聞こえてしゃべれて当たり前。そんな「呪い」が、齋藤さんを捕らえて離さなかったそうです。
聞こえると見せかけるために電話をかけるふりをしたり、日本語がきちんとしゃべれると見せかけるために、会話では発音が得意な言葉を多用したりしていたといいます。しかし、そんな生活は齋藤さんの孤独を深めていくばかりでした。
転機は高校生の時にやってきました。聞こえる人たちに合わせる生活に耐えきれなくなり進んだ「石神井ろう学校」(現・東京都立中央ろう学校)で、手話と出会うのです。
片手をグーにして枕を下げる動作で表す「おはよう」の手話。シンプルでも、使う人それぞれ表現が違うことに驚きました。手話に触れてはじめて、同じ言葉なのにひとりひとり違う「声」がある、と気づいたそうです。
手話と出会い、二十歳で補聴器を着けずに生きていくと決めたそうです。その時の決断を振り返って、こう語ります。
「補聴器を使って音を聞こうとする限り、自分じゃない自分のままでいるような気がして。当時は直感でしたが、今となってみれば、すごく正しい選択でした」
「『自分の身体に戻ることが出来た』と思いました。今はとても快適です」
そう語る齋藤さんは、自身の半生を記した著書『声めぐり』で次のように述べていました。
齋藤さんは「目がどんなふうに合ったかとか、手を握るときの、指先や手のひらが感じた直感とか、そういうものを、筆談や手話、通訳といった、ただわかるだけの言葉よりも、大事にしています」と教えてくれました。
22歳になった齋藤さんは、アルバイトとしてやきとり屋に飛び込みます。業務は厨房での皿洗いと調理補助。耳が聞こえないため、バイトリーダーとのコミュニケーションが大きな壁となりました。
リーダーは、ぼそぼそとしゃべる人でした。話が全く聞き取れない齋藤さんが、指示が分からずにうろたえている様子を面白がっていたそうです。せめて筆談を、と頼んでも無視されるばかりだったといいます。
しかし耳が聞こえないことを理由に、数十件の面接で落とされた末、ようやく合格できたバイト。簡単には辞められませんでした。
ある日、サラダや揚げ物の仕込みをしていた時のこと。バイトリーダーが齋藤さんの肩をつかみ、憎々しげな表情でゆっくりと、こう言い放ったのです。
「つ ん ぼ は よ け い な こ と を す る な」
リーダーが放った侮蔑の言葉。口を大きく開けながら、ゆっくりと区切って発せられたその言葉は、「こいつにしっかり分かるようにののしってやろう」という思いで発せられたのでしょう。
にもかかわらず、齋藤さんは、一瞬、「血の通ったぬくもりのある喜び」を感じたといいます。
「別に聞こえる人とも交わらなくてもいい、会話できなくても我慢すればいい。生きるためにはお金が必要だから、という思いでいて、平気なつもりでした」
「でも、たとえ悪口であったとしても、それが分かるということに喜びを感じてしまった。『ああ、そうか。人と言葉を交わしたいんだな』という自分の気持ちに行き当たりました。孤独が極まっているなと思いました」
本来なら差別に反抗すべきなのに、相手のしゃべっている声が分かるという喜びを、感じてしまったのです。「ああ、あれは怒るべき場面じゃないか」と気づいたのは後になってからでした。
差別と侮蔑が込められた言葉。皮肉にもそれは、バイト先で孤独だった齋藤さんが、ようやくバイトリーダーと通じあえた、「声」の交差点でした。
今回、取材をした私は難聴者。齋藤さんと同じ障害ですが、筆談や手話でコミュニケーションをする齋藤さんと異なり、主に口の動きを読んだり自分の声でしゃべったりすることでコミュニケーションをすることが多いです。取材は手話と筆談で行いました。
聞こえる人たちが作る社会で、聞こえない人は生活しています。私には聞きたいことがありました。耳が聞こえない私たちが、聞こえる人たちと上手く付き合っていくための「生存戦略」についてです。
私の場合、会話が分からなくてもうなずきや愛想笑いをして、「騒がしいところでちゃんと会話が出来ているように見せかけるために、結論を知っている話を振る」といったことをしたことがありました。今思えば「自分は普通に聞こえてしゃべれる人間だ」と誰かに認められたかったのかもしれません。
齋藤さんにそのことを話すと、「それはぼくもよく使いました。つらいねえ」と共感してくれました。
これまでにとっていた「生存戦略」はありますか――。私の問いかけに、少し間が空いて、こんな答えが返ってきました。
「戦略というほどでもないですが、自分のものじゃない言葉を、少しずつ自分の中から追い出し、自分のろうである身体やこころの感覚で感じていることを、正確に正直に伝える、というちいさなことから始めました」
齋藤さんがそれまでに触れてきた言葉や文章のほとんどが、聞こえる人たちの感覚で作られたもの。いざ伝えようとしてみると、聞こえる人たちのリズムや聞こえ方で作られた言葉が、ほんとうはそんな音を聞いたことがないにもかかわらず、つるつると出てきてしまう。手話が自分の言葉になるにつれて、徐々に違和感が芽生えてきたそうです。
今、齋藤さんは、ろうである身体の感覚に合った言葉を選ぶようにしていると言います。例えば、「おはようと言った」としがちなところを「その手は『おはよう』と動いた」「その口は『おはよう』を示していた」と表現するようにしたそうです。
「意味としては同じだけど、ぼくが日常的に見て使って、なじみあるものは、明らかに後者なんです。そういうふうに、だんだん言葉と自分の感覚が近づいてきたころには、すごく楽になりましたね」
生活に言葉は欠かせません。その言葉が、聞こえる世界に住む他者からの借りものだったら。齋藤さんは生き抜くために、自分の実感に合わない「つるつるの言葉」を使わないという道を選びました。
それは、ろうである自分の身体やこころで感じとれる言葉だけを使う生き方でもあります。こうすることで、他の人と同様に聞き、話せない人が、時にはじかれてしまう社会と距離を置くことにしたのです。
斎藤さんが、この自分の感覚をごまかさずに表現した作品のひとつが、「わたしの名前はわたしのもの」という意味を込めた「MY NAME IS MINE」です。手話がことばになってきた自分自身の感覚を、写真のうえにどうやって活かすことができるかという実験でもありました。
「MY NAME IS MINE」は、ろう者が自分の名前を表現する手話の動きを捉えています。齋藤さんは、「手話は、その人の姿や手やそのまわりの空間があってこその言葉です。手だけではなく、その人の存在すべてをもって見る言葉です。存在自体がすでに名前になっているのだ、ということでもあります」と語ってくれました。
聞こえる人と、聞こえない人。わかりあえる部分はあるのでしょうか。齋藤さんは「こんなにも分かりたいと願うのに分からない」という「孤独」でつながれる部分があると語ります。
「好きな人がいるけれど、相手が何を考えているか分からないとか、師匠や先輩が自分のことをどう思っているのかが理解できない、とか。結構ささいなことでも感じているはずです。そんな感情って、聞こえても、聞こえなくても共通ですよね。どっちもただの人間だから」
「でも、聞こえない人と聞こえる人とでは、そう感じる場面の比重に差が、ものすごくあるんです」
しかし、齋藤さんはこう続けます。
「聞こえない人の抱える孤独感を、自分がこれまでに感じたであろう孤独感と結び、つなげてもらえたらいいなと思います。同じ人間として抱えざるをえないものを、起点として見つめるしかないですね」
「大切な問題は、聴覚障害がどうこうではなく、他者と関わるため方法が、幅が、ものすごく狭い、というところにあると思っています。その、他者と関わるために必要な『声』の幅を広げることはずっと考えています」
「幼い子どもが、初めて世界に触れるときのような方法、衝撃に、「声」の幅を広げるヒントがあります。世界にあるもの、自分が見つめる先にあるもの、そのことごとくがメッセージです」
他者との関わり方の幅を広げる。豊かな「声」を受け取れるようになること。必要なのは、少しの好奇心と、少しの勇気。わかり合えないことから、それでもわかり合うために、私自身も、自分のコミュニケーションのスタイルを固定せずに、豊かな世界に対してひらかれた身体でありたいと思っています。
今回、取材をした私は難聴の障害を抱える当事者でもあります。手話と筆談。お互いが自由に使える言葉で行われたインタビューでは、普段とは違った心地よさを感じました。
私の場合、音声言語を使ったコミュニケーションが中途半端にできてしまうこともあり、これまでは手話を本格的に習得する道を選ばず、聞こえる言葉の世界で生きるという選択をしました。
同じ程度の聴覚障害でも、ろう者として生きる齋藤さんと、難聴者として生きる私。生き方の違いから見える発見が少なからずありました。
「手話と出会って、自分の身体に戻ることができた」。すっきりとした表情でそう語る齋藤さんを、心底うらやましく思う一方、まだ自分の言葉を見つけることが出来たという経験がない私にとってはあまりピンとこず、さみしさを感じました。
でも、障害者同士でも、障害に対する考え方の違いがあることには、むしろ、うれしさとして受け止めました。
特に印象に残ったのは「ろうである自分の実感にあった言葉を使うことで、自分を取り戻せた」という齋藤さんの発言です。
人一倍、コミュニケーションの言葉に疎外されてきたからこそ、人一倍、コミュニケーションの言葉を大切にしている。そんな生き方が伝わってきました。
言葉は豊かな「声」への入り口でもあります。私は普段、手話ではなく、日本語でやり取りをしています。齋藤さんの話を聞きながら、もし自分が手話で物事を考えたのなら、どのような風景が広がるのかを想像しました。
これまで理解していた概念を、違う「言葉」でもう一度理解し直す。それは、障害の有無を超えて、誰かの豊かな「声」を受け取る助けになるのでしょう。
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