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夫の姓、むしろ好きだけど……「旧姓」使い続けなければならない理由
夫婦別姓の議論をめぐって、「旧姓を通称で利用すれば済む話」という意見がよくあります。しかし、通称利用でも仕事や生活上の不便は解消されず、それ以上に違和感が残ると言う当事者も少なくありません。二つの名前を使い分ける違和感に直面した岡山市の松川絵里さん(38)に、その理由を語ってもらいました。(朝日新聞文化くらし報道部記者・田渕紫織)
「どちらの名前も本物の名前と思えなくなってきたんですよね」
取材時には、確定申告を前に、源泉徴収票や領収証の山と格闘していた松川さん。結婚前の「松川」姓と結婚後の「三好」姓が混在する宛名を眺め、こうこぼしました。
本業は哲学者。約半年前、ある市の公共施設から講師の依頼を受けて書類を書くとき、松川姓でもいいか聞くと、「大丈夫ですよ。ペンネームの人もいますから、何でも」と言われました。
「『松川絵里』はペンネームと同等なのか」と衝撃を受けた。
コンパクトな岡山の街では、仕事で知り合い松川姓を名乗った人とオフの日にばったり会うことや、プライベートだからと三好姓を名乗った夫の知人と後に一緒に仕事をすることも日常茶飯事です。
「暮らしのなかで公私は分けられないのに、二つの名前を使い分けなければならないことに、無理を感じます」
はんこも年賀状も、二つの名字を使い分けます。
実は松川さんは婚姻届を出す前、3年以上、事実婚をしていました。生活上の不便はなかったといいますが、友人が亡くなった時に、「自分たちのどちらかに何かあったら、一体誰が、公的な夫や妻として認めてくれるんだろう」と不安に駆られたそうです。
職場でも、親戚にも友人にも、「いつ結婚するの?」と聞かれ続けました。
「『2人の間では夫婦同然と思っていたけど、周囲から見ると違うんだ』と、絶えず不安を抱えている状態に耐えきれなくなりました」
自身も重い病気を患っており、常勤の仕事はできず、日常的に寝込んでいます。
このままでは、仮に自分が意識を失って家族が治療方針などを判断しなければならないときも、夫でなくて大阪に住む高齢の両親の手を患わせてしまう。「自分が何も判断できなくなった時は、夫に判断を任せたい」と思っていました。
夫と話し合い、2013年に法律婚をすることにしました。
さあ、どっちの姓にするか。2人で松川姓にすることも検討しましたが、弁護士として公文書を扱う夫に姓を変えてもらうのは負担が大きいと思った松川さんが三好姓に変えることに。
「ウェディングドレスに憧れるのと同じで、結婚して夫の姓を名乗ることに、憧れがないわけでもなかった」
無邪気に考えていたものの、改姓してみると、まず仕事上の壁に当たりました。
「名前を変えると、私を私だと気づいてもらえず、結婚前の実績が消えてしまう」と気づき、仕事上は旧姓を使うことに。
学生時代から「松川絵里」の名前で哲学カフェを開いたり、論文を書いたりしてきたからです。一度も会ったことのない人からメールで「松川絵里」の名前を頼りに講演などの仕事を受けることも少なくありません。
松川さんは「しかし、ここまでなら通称を使えばよいだけの話。旧姓を使ってもなお、煩わしさと違和感が拭えません」と言います。
講演などの報酬を振り込んでもらうための書類は、「松川」が必要な場合や、口座名義になっている戸籍名の「三好」だけの場合など、書式がさまざま。
「松川」で書いた書類を「三好」で作り直してもらったり、記入する姓を担当者に確認してもらったり、先方に手間をかけさせてしまうことがあるそうです。
「同じ依頼者から、『松川』姓と『三好』姓で2種類の源泉徴収票が送られてきたこともあります」
約4年前、開業届で「松川絵里」を屋号として登録しましたが、混乱は続きました。
手続きの煩雑さに、名を二つ持つ違和感が積み重なって、今では「結局、名前を変えなくてよかったんじゃないか」と思っているそうです。
「夫婦であるという公的証明さえあれば、すっきりしたはず」
でも、夫婦で別々の名前のまま法律婚をする選択肢はありません。
政府は、女性が働くことを推進しています。
「私のように結婚前の実績を生かして個人で新しい仕事をつくっていこうとするならなおさら、名前を変えなければいけないのは、足を引っ張られていると感じます」
旧姓に愛着があるという人もいますが、松川さんはそうではありません。むしろ名前の響きは「三好」姓の方が好きだと言います。
「好き嫌いや愛とは別次元で、名前を変えることで、社会の中で自分が識別されないということに、一番の違和感があります。名前を持ってこの世界を生きる以上は、多くの人が行き当たる違和感ではないでしょうか」
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