お金と仕事
NPO法20年、自民大物がこだわった2文字 非営利でも「食っていける」
一人ひとりの力で社会課題に取り組む非営利組織、NPO。その存在が法的に位置づけられてから、20年がたちました。私たちが暮らす社会にある困りごとを、行政や企業にはない柔軟さで解決していこうという人たちの活動は広がり、NPOの数は5万団体を超えて、ちょっと大げさに言えば、私たちの生き方や価値観にも影響を与える存在になりました。NPOという器を得て、私たちの社会はどう変わったのでしょうか。
法律の名前はNPO法(特定非営利活動促進法)。1998年3月に成立しました。
それまでも社会に異議を申し立てる市民運動や、暮らしに根ざした消費者運動などはもちろんありましたが、「無償」や「奉仕」からなるボランティア活動の域から脱することができませんでした。
それは、市民活動団体は「法人」など法的な地位を得にくく、不動産を借りるのも銀行口座を開くのも難しいという時期が長く続いていたためです。
市民の力を生かすには――。そんな試行錯誤が続くさなか、転機となったのが、1995年に起きた阪神大震災です。機動力をいかし、被災地に多くのボランティアが駆け付けて救援活動を行い、「ボランティア元年」と呼ばれ、民のパワーを見せつけました。
そうしたうねりが、やがて国会を動かします。当時は自民党、社会党(のちに社民党)、新党さきがけの連立政権。市民活動に携わってきた人たちが党派を超えた議員と手を組み、NPO法の成立をはたらきかけたのです。
自民党内の反対派を説得。最終的に、自民党の大物議員が、自民党内にアレルギーの強い「市民」という文言を法案名から外すことを条件に、議員の手で法案を国会に出すことにゴーサイン。法案は成立しました。
「自民党は野党から与党に戻ったばかりで、非常におとなしかった。NPO法は、市民団体と一緒になってつくり上げた稀有(けう)な例だ」。当時、新党さきがけで与党の議論に加わった堂本暁子・元参院議員はそう振り返ります。
2001年には、認定を受けたNPO法人に寄付をしたら、寄付した個人や企業の税金が控除される制度ができました。ただ、認定を受けるためのハードルをいかに下げるかが宿題として残されました。
09年に政権交代により誕生した民主党政権は、行政以外の組織に公的な活動を担ってもらう「新しい公共」を看板に掲げます。NPOの力をいかすために具体的にどういう法制度が必要か、NPOにアドバイスを求めるなど、「政治」と「非営利」の距離はかつてなく縮まりました。
そんなさなかの11年3月、日本を襲ったのが東日本大震災です。多くのNPOが組織の柔軟さやアイデア、SNSを駆使して救援や復旧に活躍。世の中がNPOの実力を再認識する機会ともなり、寄付税制の大幅拡充につながりました。
NPOが大きく変えたのは、その活動範囲の広がりだけではなく、人々の働き方や価値観でしょう。企業でお金を稼ぐだけではなく、「社会課題の解決」がひとつの仕事として認知されるようになったことで、若者からシニアまで、多様な人材がNPOに参加するようになりました。
大学生がNPOを立ち上げてそのまま卒業後の仕事にしたり、子育てや介護などで企業では働きにくい人が柔軟な働き方で活躍したりというケースも珍しくありません。
企業支援に取り組むNPO「ETIC」の代表理事、宮城治男さん(45)は「20年前には、新卒の人がNPOの起業なんて考えられなかった。今や、働き方の選択肢の一つ。お金を稼ぐことより、社会を変えることに価値を置く若者が増えている」と話します。
誤解されがちなのですが、NPOは営利を目的とはしませんが、活動により利益を上げるのはOK。ただ、それを分配してはならず、次なる事業の活動費として使うのが決まり。そこが企業との違いです。
そうした中、補助金や寄付頼りではなく、活動から収益を得る「事業型」NPOも増えてきました。非営利の活動で「食っていける」時代がやってきたのです。
金融の世界で経験を積んだ人やプロのコンサルタントが、本業での経験やスキルをいかしてNPOの事業計画や戦略づくりを手伝う、いわゆる「プロボノ」も登場しました。
ふたたび自民党に政権が戻って5年余り。政治の側で、NPOと向き合おうという動きは続いています。超党派のNPO議員連盟が活動しているほか、自民党のNPO特別委員会はNPOとの対話を再開しました。昨年結党した立憲民主党は、NPOや市民団体と政策づくりなどに取り組む「つながる本部」を立ち上げました。
次なる20年は――。政治家に学生インターンを派遣するNPO「ドットジェイピー」の佐藤大吾理事長はこう話します。
「NPOに理解がある政治家は与野党を問わず増えた。NPO側も自分たちのイシューを通すために協力してくれる政治家なら、与野党問わず組む時代だ」