感動
被災地のミュージシャンが背負った「バブル」 7年経っても歌う理由
東京近郊のけやき並木沿いにある広場に集まった人たちに、音楽ユニット「LAWBLOW」のMCは語りかけました。「ライブって楽しいところでしょ。わざわざ、あの時のことを歌って、思い出させていいのかな」。当時も今も岩手県大船渡市に住みながらメジャーデビューを目指す。2人を訪ねると、意外にも歌うのがつらい曲があると言って、この7年間の葛藤を語り出しました。
冒頭の言葉は、東日本大震災から7年の3月11日、東京の京王線府中駅近くで行われた野外ライブでの出来事です。主催は「復興支援隊☆チーム府中」。菅原盾さん(39)と里見和哉さん(32)は、「アンコール」を含め7曲を歌い上げました。
近くを車や人が行き交う音が自然と耳に入ってしまう、街頭ライブですが、MCをする菅原さんは曲と曲の間に、こうも語りかけていました。
「津波があった翌日、真っ昼間なのに何一つ音が聞こえなかった。今じゃあ想像できない」
「あの日、外は真っ暗だった。何日かして、夜、街を見下ろした時、遠くに何個か灯りが見えた。それだけでほっとした。光って、そんな力あるんだな」
「僕ら、誰かの光になりたい。道標になる光になれたらいい」
「家に帰ろう」は、菅原さんが震災直後に作った曲の一つ。2011年7月にリリースされたアルバム「復興者」に収められ、12年秋にはNHKの「いわてみんなのうた」に選ばれて、ヘビーローテーションされました。復興イベントに招かれ、歌う機会も多くありました。
今回の府中での街頭ライブは、聞きに来てくれた人たちが東京の人たちということもあり、こんな胸の内も吐露しています。
「本当のことをいうと、震災の曲、歌っていいのか迷ってしまう時があります」
日常生活を取り戻している人たちへの配慮。日常生活をまだ取り戻していない人への配慮。そして、被災地に暮らすからこそ分かる、被害の軽重がもたらすことへの配慮。
「俺たちが歌わなかったら、誰が歌うのかな」
こう悩みつつ、みんなの前で宣言しました。
LAWBLOWの2人は、まだメジャーデビューできていません。菅原さんは、スイミングスクールのコーチをしながら、里見さんは家族で営むホタテ養殖を手伝いながら、週末、仙台を中心に全国で年間50回ほどのライブをしています。
2月25日、私は大船渡に2人を訪ねました。
菅原さんの自宅の庭先に作られた音楽スタジオの近くには、2016年6月に入居が始まった災害公営住宅がありました。
菅原さんの自宅は高台にあり、津波の被害は受けませんでした。命を失った家族もいませんでした。
遠く離れた東京から見れば、同じ被災地ですが、家族や家、仕事を失った人たちと隣り合わせに暮らす中、後ろめたさを感じたそうです。菅原さんは勤めていたスイミングスクールが津波で被災し、里見さんはホタテの養殖いかだが全滅しましたが……。
「当時はみんな、被害のレベルで付き合う人を選んでいたのかもしれないな」と里見さんはつぶやきました。
LAWBLOWの代表作「家に帰ろう」ですが、実は「世に出していいのか」「誰かを傷つけているのではないか」と、作った当時も今も悩みつつ歌っていると話してくれました。
LAWBLOWのコンセプトは「誰も傷つけない音楽」、そして「うその物語を書かない。自分の感じたことを書く」というモットーやルールがあるからです。
だから、ありのままのことを書いたら、「家に帰ろう」になりました。
ただ、複雑な思いもありました。
「アルバム『復興者』に収められた震災直後に作った曲の歌詞は、ありのままが故に、攻撃的な曲。暗い部分も書いたりしたんで、聴いた人が勘違いをするんじゃないかと思いました。傷をえぐることになるから……」(里見さん)
「家が残っている自分が、『家に帰ろう』ということを、自分より被害がひどかった人がいる中で歌っていいのか」「日常生活を取り戻す人が増える中、この歌を歌い続けることで、震災を思い出させるのではないか、嫌なことを思い出させるのではないか、分からなくなりました」(菅原さん)
震災後3~4年は、復興イベントに招かれ、年間のライブは100回ほどありました。涙してくれる人も多くいました。しかし、「自分たちの力以上に注目されていた」と冷静にも見ていました。
「震災が風化したら、俺たちに何が残るのか、と」
ミュージシャンとしての葛藤の中、生まれた曲が「Believe」(2017年7月11日リリース)でした。
「普段の生活の中で誰かに想いを正確に伝えることでさえ難しいことなのに、以前の僕は『沢山の誰か』に届けようとしてました。そんな曖昧なものではなく、世界でたったひとりの大切な人へ届けたいと思ってBelieveを書きました」(菅原さん)
被災地での復興ライブへの出演は、ほとんどなくなりましたが、少しずつファンの輪が広がっていました。
「復興ソング」と言われる曲を歌うことに戸惑いを覚える2人ですが、そんな曲を歌い上げても、その後にライブが沈んでしまうようなことは次第になくなったそうです。
「震災の時に作った曲に頼りたくなかった自分たちもいたし、一切やらない時もありました。けど、今は必要な時には歌ってもいいのかな、と思っています」(菅原さん)
LAWBLOWの曲は、寄添歌と呼ばれ、親しまれています。
「自分は強いと思っていません。応援歌というと偉そうな感じがします。引っ張っていく、背中を押していく力も自分たちにはありません。だから寄添歌なんです」(菅原さん)
音楽は、人の心を癒やし、奮い立たせ、希望の道を示すことがある。震災直後、多くのミュージシャンが、岩手、宮城、福島を訪れました。また、海外のミュージシャンが予定通りに来日公演を開いたり、チャリティーを行ったりしていました。
ただ、私が気になっていたのは、仙台を中心に宮城、岩手、福島をベースに活動するミュージシャンの実像でした。音楽は力を持っていますが、彼らはメジャーでなく、被災地に暮らす、被災地がベースがゆえの苦しさです。
私がそう感じるのも、震災後、盛岡で記者の原稿を見るデスクをしたり、仙台でテレビ局のディレクターをしたりしていた経験があるからだと思います。番組の特集に、地元のミュージシャンの曲をBGMに付けたこともありました。
7年という月日と震災・復興という通常の音楽活動では起こりえない巨大なエネルギーは、本来の音楽性や成長のプロセスを狂わせてしまう側面があることも否定できません。
震災後、政府の復興予算が付き、官民含め色々な形で被災者を励ますイベントが開かれてきました。ただ、LAWBLOWの2人が言うように、これはある意味で「バブル」でした。
「荒々しい音楽にラップを乗せていたサウンドから、『復興者』を作った時にはとげとげしさがなくなっていた」
菅原さんがこういうように、震災は音楽性も変えてしまうほどの出来事でした。
私はこう感じました。
震災は、音楽でも人を救えることを示してくれたと同時に、被災地のミュージシャンの存在をかき消してしまったのではないかと……。
今回、「家に帰ろう」は名曲だと思っていた私は、2人のミュージシャンとしてのその後を追いたくて取材をしました。その時は、2人の中でこの曲がこんなにも苦しめているものだとは想像もつきませんでした。
同じような感覚は、岩手、宮城、福島をベースにするミュージシャンに共通していたのかもしれません。
LAWBLOWが現在所属する音楽事務所は、社長の土屋勇輔さんが2人とともに立ち上げたそうです。
土屋さんはこうコメントしてくれました。
「LAWBLOWの音楽を誰よりも信じているからこそ、1人でも多くの方々に聞いて頂けるようにバックアップして行く」
7月7日には、地元の「大船渡KESEN ROCK FREAKS」でワンマンライブがあります。
今年3月11日、府中の街頭ライブで聴いたLAWBLOWの里見さんの胸の奥底に響く声は、ライブならではのものでした。
LAWBLOWだけでなく、岩手、宮城、福島をベースに活動するミュージシャンが、歌い、演奏するライブを、「3.11」関連のイベントだけでなく、少しでも多くの地域で、多くの人たちに届けられるように。そのチャンスが増えることを願っています。もちろん、全国の心意気に答えられるだけの楽曲を抱えて行くと思います。
それが、岩手、宮城、福島をベースにするミュージシャンのreborn(再生)だと思いました。
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