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「周恩来おじさんの思い出」肉親が語った中国の指導者の「日常生活」
1949年の中華人民共和国建国後、死去する1976年まで総理をしていた周恩来は、多くの中国人が今も尊敬する指導者です。めいの周秉宜さんは、子どもがいなかった周恩来の近くで長年、生活をしていました。中国の指導者の「日常生活」とは、どんなものだったのか? 日中国交正常化45年の年、民間交流のために来日した周秉宜さんに「おじさんの思い出」を聞きました。
周恩来は1917年から1919年、日本に留学していました。留学の経験は、後の知日派としての政治姿勢につながったとも言われています。
周秉宜さんは1944年10月生まれで、現在72歳です。周恩来の弟の三女で、めいに当たります。
周秉宜さんも、伯父である周恩来ゆかりの国、日本に何度も訪れています。周秉宜さんの娘が日本の東京留学中は、毎年、来日していました。
周秉宜さんは現在、周恩来の生涯を研究する中国中央文献研究会・周恩来思想生平研究分会の常務理事を務めています。
周恩来には子どもがいませんでしたが、弟(周秉宜さんの父)には6人の子どもがいました。
三女の周秉宜さんは祖母(周恩来の母親)や、周恩来本人にも似ていたことから、周恩来の養女になる話が周囲から持ち上がったこともありました。
しかし、親戚の子ども1人を特別扱いしたくないという周恩来の考えから、養女の話はなくなったそうです。
「日本の生活は、周恩来の記憶に深く刻まれていました」と語る周秉宜さん。周恩来から聞かされる日本の印象は「非常に美しい文化を保った国」。「日本語はあまり上達しなかった」と、漏らすこともあったそうです。
1949年から1968年の間に、周秉宜さんは、周恩来の夫婦と一緒に、中国共産党の中枢である北京の中南海で生活していました。
「周恩来と暮らしていた当時、周囲の人間が持っていた日本の印象は『侵略者』でした。でも、おじさんは日本に対して、軍国主義と一般の人々は分けて考えるべきだと主張していました」と振り返ります。
間近で見た周恩来は「話すことは道理に合う」「怒らないのに威厳がある」という人だったそうです。
高校2年生の時、周秉宜さんが通う学校の卒業式で周恩来が講演することになりました。
近くで暮らしているとはいえ、普段、多忙な周恩来と話す時間はなかった周秉宜さんは、講演を聞けないか、当時の警備担当者に相談しました。
それを聞いた周恩来は「あなたは今年の卒業生ではありません。来年なら聞けるわけです」と返事をしました。
周秉宜さんは「私のお願いを断ったわけではありませんでした。態度は優しかったのですが、意思ははっきりしました」と語ります。
その年の講演を聞くのをあきらめた周秉宜さんでしたが、次の年は別の指導者に。結局、周恩来の講演は聴けなかったそうです。
指導者のめいという立場だった周秉宜さん。軍の高官や党の幹部の子どもが多い八一学校に通っていましたが、「他の幹部の子どもに比べると質素な生活でした」と語ります。
普段、学校に下宿している生徒が週末、実家に帰る時、多くの子どもは迎えの乗用車に乗っていました。ところが周恩来が手配したのは自転車でした。
伯母で周恩来の妻、鄧頴超からは「周恩来は国家の総理で、人民のために働くが、周家のために働くのではない」と聞かされたそうです。
45年前の1972年、田中角栄が毛沢東、周恩来と会談し「日中国交正常化」の道筋をつけました。
周秉宜さんがはじめて日本に来たのは30年前です。
「今の日本の女性たちよりも、服装やお化粧に気をつけていたような気がします。デパートも、今よりもっと豪華だった印象があります」
その一方で「日本人のマナーのよさ、清潔さ、礼儀正しさは変わっていませんね」と語ります。
周秉宜さんは、日本と国交がなかった時代、日本からの訪問者がどんなに少人数でも、周恩来が直接に会いにいっていたことを覚えているそうです。
今の日中関係について、どう思っているか聞きました。
「45年の節目の年に、民間では交流があると思いますが、政府レベルでは昔ほど熱心ではないように感じます。指導者があまり重視していないのではないでしょうか」
「歴史を振り返れば、日本は、漢字など多くのことを中国から学びました。そして、この百年の間は、中国が日本の学生になり、多くのことを勉強してきました」
「日中両国の人々が理解し合い平和を築くためには、草の根の交流が不可欠です」
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