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「岡崎体育」ができるまで 口パク公言の真相、脱サラして音楽一本へ
昨年ミュージックビデオの〝あるある〟を歌った「MUSIC VIDEO」がユーチューブで注目を集め、いっきに全国区になったシンガー・ソングライターの岡崎体育さん(27)。勢いはおとろえず、ワンマンライブのチケットは全公演が完売に。岡崎体育さんの個性的なスタイルは一体どのようにできたのでしょうか。(朝日新聞奈良総局記者・浜田綾)
昨年5月にメジャーデビューを果たしたあとも、実家の学習机でパソコンソフトを駆使して作曲するかたわら、地元のスーパーで品出しのアルバイトを続けています。キレのあるダンスで盛り上げるライブは「ほぼ口パク」を公言。タモリさんが司会する音楽番組「ミュージックステーション」では歌詞をど忘れする演出で、視聴者の笑いを誘いました。これまでのミュージシャン像をくつがえす独自のスタイルが話題です。
――デビューまでの道のりは?
奈良市のライブハウス「NEVERLAND」を拠点に2012年から活動を始めました。最初の2年はほぼ関西で、14年から東京とかほかの地域でも活動するようになりました。そのころからSNSで「岡崎体育ってやつがいる」と言ってもらえることが増え、名前が広まっていくのを実感しました。
――京都府宇治市出身でいまも在住。どうして京都じゃなく、奈良だったのですか?
ぼくが通った高校は奈良に近い京都の南部にありました。友人もそっち(奈良方面)に多く住んでて、京都市内に行くより奈良の方がアクセスが良くて楽でした。なので、高校生のころからバンドの練習で奈良市のスタジオを使ってました。奈良には昔からぼくを見てくれている人がいる。お世話になった特別な場所です。パフォーマンス重視のスタイルは、奈良でできたものと思ってますし。
――ライブは「ほぼ全曲口パク」と公言していますね
ブッキングライブ(ライブハウスが選んだ数組の出演バンドが出演するライブの形式)の持ち時間って大抵30分なんですが、今はほとんど口パクです。でも、初めのころは口パクは1曲で、ほかは弾き語りとかいろいろ混ぜて試し、お客さんにウケるものを探してました。徐々に口パク率が上がっていきました。
最初に口パクをしたのは、「NEVERLAND」で初めてライブをしたときです。5曲のうち1曲がどうしても覚えられなくて、家で録音したのを流してしまおう、と。偶然の産物のようなところはありましたね。もともと一人くらい口パクでライブしてるヤツがおってもええんちゃうかなって思いはありました。
バックバンドもDJもいないので、歌唱に重きをおくとステージの見栄えが良くない。だから歌は口パクにして、体の動きや表情でお客さんを引きつけようと思いました。パフォーマンスの幅が広がりました。
――デビューアルバム「BASIN TECHNO」について
最初、収録する曲の半分くらいは「まじめな曲」にしようと思ってたんです。本当はそれがやりたい音楽だったので。「MUSIC VIDEO」「家族構成」といったエンタメ性の高い曲は、やりたい曲への導線のつもりでした。自分に興味を持ってもらうきっかけになれば、と。
でも、レーベルの2人と話し合い、名刺がわりの1枚になるアルバムにしようと決めました。今やっている音楽をできる限り盛り込んだら、8曲のうち5曲が「ネタ曲」で、残りの2曲(「エクレア」「スペツナズ」)がまじめな曲になりました。(残り1曲はInstrumentalです)
――レーベルの人に曲のアドバイスをもらうことは?
曲を聴いてもらうのはライブが最初と決めているので、基本的にはライブで発表する前にレーベルの担当者に聴いてもらうことはしません。打ち合わせの会議室だと空気がピリッとするから、笑いの沸点も上がる気がして。曲の善し悪(あ)しは、ライブのお客さんの反応で判断したいんです。ウケたら続け、ウケなかったらボツにしたりいじったり。
――パフォーマンス重視のスタイルはやりたいことですか?
やりたいこと……どうなんやろ。ようやく、やりたいことになりつつあります。最初は抵抗がありました。ぼくはワチャワチャしてる人があまり好きではないので、「それに成り下がってる」って葛藤が強くて。おれ、むっちゃちょけてる(「ふざけている」の関西弁)やん、でも、これくらいしないと世間にはウケへんしな……って。
こういうパフォーマンスでテレビとか出始めたので、結構批判もあって。ぼくも音楽やってなかったら、批判する側と同じ意見だったろうなと思います。最近、そういう意識は薄れてきてはいるんですけど。
でも、ぼくの感覚では、まだ50%以上の人にウケてるんです。肯定派が49%以下にならへんかぎり、今のスタイルを続けたいと思ってます。
こういうパフォーマンスしててウケると、実際うれしいです。だから、これまでライブを続けられてるんやと思いますし。結構、今は楽しくパフォーマンスできてます。
――制作活動について教えて下さい
家にいて、起きてるときは作業してます。仕事がなければ昼ごろに起きて、朝昼兼用のご飯を食べて、ユーチューブとか見て。しばらくして制作し始めます。あまり「思いついた!」みたいのではなく、ルーティンで作業して、いい音ができれば採用します。朝まで作業することもあります。
タイアップとか提供が続いてたのが最近落ち着いてきたので、自分の歌もそろそろと考えています。
メロディが先とか歌詞が先とか、特に決めていませんが、最初にテーマを設定することが多いです。例えば、「木村カエラさんみたいなウェディングソングをねらって作ったけど、新郎の家庭環境が複雑すぎて伝わらん曲」ってテーマとか。
歌詞は思いつき。今日も移動中に看板をながめたり、人の会話に耳をそばだてたり。それをメモってます。
――最近メモしたのは?
(スマホを取り出して)メモ帳に全部書いてます。「乳歯to the 永久歯」ってメモしてますね。子どもから大人にかわることを歯で表現しようとしたんかな。歯科医院の看板とかマークを見たんやと思うんですけど。こういうフレーズばっか並んでます。人に見せるのは恥ずかしいですけど。
――曲づくりにおけるこだわりは?
歌って楽しいものを作ることです。例えば、「潮風」なら拍の上のサ行が気持ちいいという持論に基づいて、サビのビートに重なる音がサ行多めになってます。
あと、テレビアニメ「ポケットモンスター」のエンディングテーマ曲の「ポーズ」やったら、早口言葉とか子どもたちが言ってみたくなるフレーズを意識しました。聴いてくれた人が気持ちよく歌える曲を作りたいと思ってます。
――去年はアイドルグループの私立恵比寿中学に「サドンデス」という曲を提供し、ミュージックビデオの監督もしました
うれしいです。中学から曲を作り始めたんですけど、昔は自分が表に出るつもりはありませんでした。ゲーム音楽を手がけたかったので、裏方というか、作り手になりたくて。就職活動もゲーム会社のサウンドエンジニアの試験を受けたんですけど、すべて落ちてしまって。自分には音楽の才能ないんかな、向いてへんのかなと思ったこともありました。
だから今、こうして楽曲提供やプロデュースといった「作る側」の仕事ができるのが本当にありがたい。これがやりたかったんやなって、しみじみ感じます。
――これまでの音楽経験は?
人に習った楽器はピアノだけです。小学1年のとき、音大生だった近所のお姉ちゃんに教えてもらったんですけど、そのお姉ちゃんが就職活動で教室を閉めてしまって。3カ月しか通えず、志半ばでした。作曲は任天堂DSの音楽ゲーム「大合奏!バンドブラザーズ」で中学のころ始めました。
バンドを組んだのは高校から。そのときはドラムでした。ライブハウスに出るようなバンド活動は大学からです。
――それはサークル?
いえ! ぼく、サークルが嫌いで……ワチャワチャしてる感じがほんまに無理で。
中高とテニス部やったんで、大学でもテニスサークルの見学に行ったら、高校の先輩がチャラなってたんです。むっちゃうまかったのに、全然ちゃんとテニスしてへんやんって……失望です。サークルという存在自体に嫌悪感を抱いて、そのへんからゆがみ始めたというか。集団でちょけてる人が大嫌いになりました。
だからサークルに入るのはあきらめて、学外で友人のツテとかでバンドを組みました。1年くらいでメンバーが次々に引っ越して解散しましたが。
大学の4年間は勉強と音楽とバイトでした。バンド活動と平行して、大学1年のころから個人的に打ち込み(パソコンによる作曲)もしてました。
――バンド活動はどうでしたか?
バンドを組んだときにベースがいなくて、ぼくが弾くことになって。京都の楽器屋さんにベースを買いに行ったら、店員さんに「このパソコンソフトにベースの音が入ってる。それでできるから」ってぐいぐい来られて、DTM(デスクトップミュージック)ソフトを9万9千円で買いました。
一緒にいたギターのやつも「おもしろそうでいいんじゃない?」と言ってくれて。「ベース、おらんやん」とならなかったのが不思議ですけど(笑)。
その後、母に英会話を教えていたオーストラリア人の先生が急きょ帰国することになり、持って帰る荷物が多いとお金がかかるからとベースを譲ってくれて、バンド活動もぶじできました。聞いたこともないメーカーので、むっちゃ弾きづらかったですけど。
――バンドはずっと続けるつもりだったのですか?
メンバーが遅刻すると、一人でいらいら。「ぼくは、人と何かをやるのは向いてないんやな」って思ってしまいました。
方向性が違っていたんです。ぼくは本気で売れたかったけど、ほかのみんなは「楽しめたらええわ」みたいなところがあって。
だから、「バンドを続けたい!」みたいのはなかった。解散した時点で、ゲーム音楽を作るサウンドエンジニアを目指し始めました。でも夢はかなわず、大阪のIT関連の会社に就職し、営業をしていました。会社員になっても音楽活動もほそぼそと続けてて、ネットに曲をアップしたり、時々ライブにも出たり。
――その後、脱サラして音楽の道へ
入社して半年くらいのころ、今やっているパフォーマンスに近いライブを「NEVERLAND」でやって、結構お客さんにウケたんです。ライブハウスの人にも「いけるんちゃう?」って言われて。
ちょうどそのころ、東京へ転勤が決まったんですが、「今は東京に行きたくないな」と思ってしまったんです。
半年で辞めるのは給料ドロボウみたいだなと少しちゅうちょしましたが、音楽一本にしようと決めました。その後はバイトしながら、ひたすら音楽活動です。
会社を辞めた直後に家族会議が開かれて、親に「4年は音楽活動をやれるだけやってみなさい。芽が出えへんかったらあきらめて、普通の企業に就職してほしい」と言われて。だから、死にものぐるいで打ち込みました。もちろん、楽しかったんですけど。
冷蔵庫に貼ってあったメモ書きを英語風に読んでみた pic.twitter.com/QiGhyFHF51
— 岡崎体育 (@okazaki_taiiku) 2016年1月7日
――「冷蔵庫に貼ってあったメモ書きを英語風に読んでみた」というツイッターの動画が話題になりました
あれは意外でした。ああやって、狙ってなかったのがウケたりするんですよね。今はSNSの発信を通じて、何が消費者層にウケるのかを模索している段階です。まだ世論を読み切れてないですから。
ステージ上の振る舞いはお笑いに学んだところも大きいです。小さいころから吉本の芸人さんを見る機会が多かったんですけど、「ラーメンズ」さんや「バナナマン」さんとか、関西人でも吉本でもない方々のコントも大好きでした。DVDを借りてよく見てました。
――言葉への思いは?
こだわりはあります。ぼくの母語は関西弁なので、関西弁の面白さを引き出すような文章を書きたいと思っていて。
大学は言葉を分析する学部にいたので、日本語の歌詞や小説を分析したことがあります。ヒット曲にどの一人称が使われているのが多いか、とか。言語の感覚とか分析法は大学で養いました。
――もともと大学で言葉を学びたかったのですか?
正直、勉強する内容は後からついてきました。地元の同志社大学(京都府)にどうしても行きたくて、いろんな学部を受けて。受かったのが文化情報学部だったんです。高い学費払うわけですから、ちゃんと勉強したくて。言葉に対する思いやこだわりが芽生えたのは入学してからです。
――本はよく読みますか?
今も昔も本はまったく読みません。マンガやスポーツ記事は読みますけど、小説とか文字だけに触れることはないです。言葉の感覚は主に人とのコミュニケーションで培ったと思ってます。話の得意な友達の言葉をじっくり聴いて分析したり。電車ではいつも聞き耳を立ててますよ。
――これからも音楽スタイルは「盆地テクノ」ですか?
そうです。ただ正直そんなジャンルないんですよ。そもそも全然テクノじゃないですし。支持者もいなくて、ぼく一人でやってることなので。自分の音楽活動の指針というか、信念のつもりでそう言っています。
夢はデビュー前から変わらず、「30歳までにさいたまスーパーアリーナでの単独ライブ」です。目標や夢は、口にするだけ可能性が大きくなると思ってます。
ぼくはこれまで音楽フェスの参加や楽曲提供とか、ツイッター発信で実現したことも多いですし。発した言葉には「言霊(ことだま)が宿る」と信じているので、これからもどんどん口にしていきます。
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