コラム
ダイビングの海…だけじゃない 餓島と呼ばれた南洋の島で見たもの
日米開戦から今年で75年。安倍晋三首相が訪れた真珠湾への奇襲で始まった戦地は広がり、旧日本軍ははるか南半球のガダルカナルまで進出しました。青い海が広がる砂浜に響く観光客の笑い声のすぐそばには、生死をかけた戦争の痕跡が今も残っています。私たちは、空や陸、海の中で戦争の痕跡を探しました。その撮影の裏側や思ったことを伝えようと思います。(朝日新聞映像報道部記者・橋本弦)
撮影のため乗り込んだ「あすか」はアメリカ・セスナ社製560型「サイテーション・アンコール」というビジネス用小型ジェット機で、巡航速度740キロ、乗員乗客11人乗り。普段は羽田空港に常駐していて、事件事故などの取材に活躍しています。
座席は通路を挟んで片側1列。乗った感じは天井が低く前後に少し長めなワンボックス車ぐらいの広さです。今回の取材にはパイロット2人、整備士2人、記者、カメラマンの計6人が乗り込みました。撮影は機長席(左側)後ろの撮影窓、もしくは搭乗口の下側にある窓からすることになります。撮影窓は歪みが少ない特別仕様の光学ガラス製です。
旅客機の窓から外の景色を撮影したことがある人も多いでしょう。簡単そうだと思うでしょうが、飛行機の小さな窓からの撮影は意外と難しいのです。先代のジェット機「はやて」は窓を取り外して撮影するのでのぞき込むことで比較的広い視界を確保できたのです。
一方、ガラスがはまった窓から見えるのは限られた真横だけ。いつ狙った被写体が視界に現れるのかタイミングを取りづらく、ガラス面への写り込みもありレンズを向ける範囲も限られます。
フレームいっぱいに被写体を納めるためには視野が狭くなる超望遠レンズを構え、なるべく近く(低く)飛ぶことになります。できるだけ速度を落としても速度は時速260キロ程度で、草むらに横たわる零戦や密林の中の戦車をとらえられるチャンスはわずか数秒になります。
なおかつ、被写体の近くを旋回するときに身体には強烈なG(重力加速度)がかかり、気流が悪ければもちろん揺れます。揺れとのしかかるGに四苦八苦しながら枠の中に被写体をきちんと配置するには、コツと経験(慣れ?)、腕力と体力、気合と三半規管の鈍さが必要なのです。
撮影対象は多いときで1日20~30カ所にもなりました。おおよその見当をつけてはいるとはいえ、うっそうとした森の中にちらっと見える「何か」を探し出すのは一苦労です。何度も旋回しながら乗組員一同目を皿のようにして探し、見つかれば撮影のために旋回を繰り返します。さすがに気分も悪くなり、1日のフライトが終わると一同ぐったりとして口数も少なくなります。
撮影は空からだけでなく、海の中や密林の奥深くまで及びました。ソロモン諸島沖は沈んだ軍艦や航空機の残骸で海底が埋め尽くされているということから「アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)」ともよばれています。
ロープを伝って青い水の底へと降りていくと、プロペラとエンジンを翼に備えた現役時代を彷彿とさせる飛行艇の姿が視界に飛び込んで来ました。タイムトリップするような不思議な感覚に襲われます。
また、密林の奥深くに分け入って濃い緑の中に零戦の機体にペイントされた日の丸の鮮やかな赤い色を目にしたときは、70年以上の月日が経っているとは思えずまるでつい数年前に墜落したような気がしました。
米軍の砲弾によって開いた無数のクレーターの間で白く朽ちた零戦の残骸は、まるで力尽きて横たわった人の白骨のようにも見えます。マリンブルーの珊瑚礁の中に赤茶けた砲身をさらす戦車の場違いな姿は、美しさのあまりそこで起きたことを忘れてしまうのを警告しているかのようでした。宝石のような美しい島々に目をこらせば、至る所に戦争の傷痕が刻まれていました。
かつて「餓島」と呼ばれたガダルカナル島では、偶然同じ時期に島で元日本兵の遺骨収容をするボランティアの人たちの活動に同行させてもらうことになりました。急峻(きゅうしゅん)な斜面を下り、新たに見つかったご遺骨に酒や線香を捧げ、一緒に手を合わせました。ふと頭上を見上げると、強い日差しを遮る背の高い木々の葉や枝がゆったりと風に揺れ、耳を澄ますと遠くで鳥が鳴く声だけが響いていました。
故郷から遠く離れたこの場所で、この風景を見上げながら70年もの間人知れず日本に帰る日を待っていたのかと思うとやるせなさと切なさがこみ上げました。そして、今でも110万を超える日本兵が異国の青空や夜空を見上げながら帰る日を待ち続けているのです。
飛行機から降りて、陸からソロモン諸島を取材しはじめて一つだけ違和感を感じたことがあります。どこで写真を撮る(取材をする)のにもお金がかかることです。飛行機や戦車の残骸が並ぶ自称「博物館」のような撮影するものがある場所なら納得もいきますが、何も無い原っぱ(昔、滑走路があったらしい)や、ただ村を通過するだけでもお金を要求されるのには参りました。
ぎらっと光る山刀を肩に担いだおっさんに、暗く落ちくぼんだ眼窩(がんか)からうつろな目で見つめられ、イライラした様子で鋭利なナイフをヤシの幹に意味もなく突き立て続ける(女子高生ぐらいの)女の子に背後を固められれば、とても生きた心地がしません(でも地元のガイド氏がうまく話をつけてくれました)。
当初は釈然としない気持ちになりましたが、人々の暮らしを知ると少し理解できる気もしました。多くの人は農業などほぼ自給自足のような生活をしています。平均賃金は年間200ドルほどとも言われ、現金収入は少ないようです。
密林の中を零戦まで案内してくれたジャン・ポール氏(通称JP、年齢は20代半ばぐらい?)が、密林を歩きながらぽつりと言ったことばが印象的でした。「(零戦の部品を持ち出して売った村人に)売れば多少の現金にはなるかも知れないけど、きちんと保存すれば観光客からずっとお金を受け取れる。村のためにもなるんだ」。残された「戦争遺産」は彼らの生活を支える資源でもあるのです。
70年が経った今でも、南洋のかつての戦場には多くの「遺産」が残っています。それはそこに住む人たちが戦争の記録として大切に残してきた、というよりも経済的発展や開発から取り残されてきた地域だからこそ、密林の奥深くや海底にそのまま放置されてきたり、貴重な現金を得る手段として保存されたりしてきたのかもしれません。
日本がそれらの国々に経済的な援助をしてこなかったわけではありませんが、日本人にとって南洋に残る戦争遺産は、70年前に何があったのかを昨日のことのように思い出させてくれる有能な語り部であると同時に、勝手に戦争に巻き込んでしまった人々のために、戦後、何を「してこなかった」のかということも考えさせてくれるものなのかもしれません。
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