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熊本地震、大和さん一家の道のり 4カ月後の「おかえり」 そして…
熊本地震で行方不明になった息子・晃(ひかる)さん(当時22)を見つけたい。その一念で両親は独自に捜索を続け、4カ月後の8月中旬にご遺体が自宅に戻りました。私が捜索に同行して撮影をさせてもらったのはその1カ月前の7月でした。母・大和忍(49)さんにあらためて会いにいきました。(朝日新聞西部報道センター映像報道記者・福岡亜純)
4月14日の前震の夜から、勤務先の福岡と、熊本の被災地を行き来するようになりました。
行方不明になっている大和晃さんを知ったのは、同僚が取材した忍さんの記事でした。息子の時計を身につけて帰りを待っている母は、不安そうな表情をしていました。
その後、二次被害の危険があるとして晃さんの捜索は5月1日に中止され、忍さんは、夫の卓也さん(58)と、独自の捜索を始めました。
熊本県知事への捜索再開の要請でも、報道映像で見る忍さんはいつもうつむいていて、その硬い表情が気になりました。「笑ったらすごくすてきな顔をするんだろうな」「笑顔を撮影することができたらいいな」。そんな思いも頭をめぐりました。
被災地で長期にわたる取材をするのは初めてです。東日本大震災の直後に5日間、現場を歩きましたが、何の役にも立てなかった。なので、熊本地震の報道では、絶対後悔しないことを自分の目標にしました。
その日はちょうど、本震から3カ月の7月16日。両親と知人らが崩落した阿蘇大橋から下流約5キロの河原を捜索するのに同行できました。天気は曇りで蒸し暑く、動くとすぐ汗が出始めたことを覚えています。
降り続いた雨で、現場の白川は茶色くにごって水かさが増していました。至る所で白波がたつほど流れも速い。忍さんはひとり離れて、ひざをついて砂地を掘っていました。
離れてカメラを構えました。邪魔をしたくなかったのと、望遠レンズの圧縮効果を使って、濁流と忍さんを対比させるように撮影したかったからです。
顔をあげた忍さんの空(くう)を見つめる目は、疲れたようにも途方に暮れているようにも見えました。2度、シャッターを切りました。
10月に入って、一家を訪ねました。
自分たちで捜索を始めた時の気持ちを「このまま晃の存在が打ち消されていってしまう。連れて帰りたいの一心でした」。2人はそう語りました。
初めは長靴で河原を歩いていたのが、大きな石で滑って足をいためそうになり、トレッキング用の靴を買ったそうです。河原までの急な坂を下りるために、登山用のロープと革手袋、ハーネス、カラビナなども、インターネットで調べながらそろえていったということでした。
川沿いの家には一軒一軒、情報提供を求めました。地震の起こる直前に、晃さんの車の後ろを走っていたらしいドライバーも見つけ出しました。
車が転落したとみられる場所が絞り込まれていく一方で、大雨の梅雨が忍さんを追い詰めていきました。「流れが急になった川を見て、『晃の体は(粉々になって)形がなくなっているかもしれない』とか『このまま流れに身を投げたら晃の元に行ける』とあきらめかけたことも正直ありました」
卓也さんは「だから1人にできなくて2人で探してたんだ」と教えてくれました。
晃さんの遺骨と遺影は、仏壇の前で、にぎやかにトルコキキョウやキク、コチョウランに囲まれていました。日に3回、家族と同じ食事をお供えにするということで、この日の晩は、煮物とご飯、みそ汁という献立でした。
忍さんは、晃さんが家に戻ったことが喜ばしく、捜索に関わった多くの関係者への感謝を口にしたあとで、「まだ死を受け入れられません。生き地獄です」と声を震わせました。
「晃に向かって、まだ(心から)手を合わせられなくて。お葬式や法要で形としてはそうしても、どうして我が子にって。供養してあげなきゃ、声に出して話しかけてあげなきゃと思うんだけど」
忍さんはこの日から休職していた仕事に復帰していたそうです。「『そろそろお仕事に行かなんとよ』って晃に言われるような気がしていました。『お母さん、なんしよっと』って。でも催促するような子じゃないから、じっと近くにいてくれているような気がして」
息子のしぐさや、優しかった性格を話すとき、忍さんは目にいっぱい涙をためながら、笑顔をみせてくれました。
この記事は10月8日朝日新聞夕刊(一部地域9日朝刊)ココハツ面と連動して配信しました。
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