感動
「死んだ」と思った…被災した東海大生が選んだ「自分にできること」
熊本地震から1カ月がたつ。壊滅的な被害を受けた熊本県南阿蘇村では、今も住民避難が続き、村にある東海大学・阿蘇キャンパスは再開のめどが全く立たない。「お世話になった村に、息の長い支援をしたい」。東京の親元に戻った東海大生の一人は、村を支援する募金箱を、飲食店などに置いてもらう活動を続けている。
感動
熊本地震から1カ月がたつ。壊滅的な被害を受けた熊本県南阿蘇村では、今も住民避難が続き、村にある東海大学・阿蘇キャンパスは再開のめどが全く立たない。「お世話になった村に、息の長い支援をしたい」。東京の親元に戻った東海大生の一人は、村を支援する募金箱を、飲食店などに置いてもらう活動を続けている。
熊本地震から1カ月がたった。壊滅的な被害を受けた熊本県南阿蘇村では、今も住民避難が続き、村にある東海大学・阿蘇キャンパスは再開のめどが全く立たない。「お世話になった村に、息の長い支援をしたい」。東京の親元に戻った東海大生の一人は、村を支援するための募金箱を、街の店先に置いてもらう活動を続けている。
青森県弘前市で深夜営業中のバー。東海大農学部・応用植物科学科の対馬玄人さん(23)が、「南阿蘇村 復興への架け橋」とロゴを貼った募金箱を抱えて頭を下げた。
「いいよ。協力できることは、させてもらいたい」
店を営む友人は、カウンターの真ん中に募金箱を置くと、さらに財布からお金を取り出し、「俺がまず支援する」と募金箱に入れてくれた。「うれしくて、忘れられない」と対馬さんは振り返る。
阿蘇キャンパスに通っていた対馬さんは、熊本地震で被災。村には避難指示が出され、東京の親元に帰ってきた。その後、10歳まで暮らした青森に足を運んだのは、親類や幼なじみに会って無事を知らせるため。そして、募金箱の設置をお願いするためだった。
大阪と愛知にいる東海大OBとも連絡を取り合い、計3人でつてをたどり、飲食店や美容院に募金箱を置いてもらっている。試行錯誤しながら、これまで10店舗以上に協力してもらえた。
山々に囲まれた南阿蘇村には、大学周辺だけで学生アパートや下宿先が56棟も立ち並んでいた。親元を離れて暮らす学生は、実に約750人。
対馬さんは「村にコンビニは2軒だけ、飲食店もほとんどない。すごく不便だけど、住めば都だった」と振り返る。
春にはあちこちのアパートや下宿で、大家主催の歓迎会が開かれる。週末には、地元の人が学生を「バーベキューするんだけど、一緒にしないか?」と誘う光景も見られた。
遊び場が少ないから、学生が集まるのも自然と互いのアパートになる。
「初めて話す学生同士でも、まず『どのアパートに住んでるの』という話になる。それで『隣じゃん、今度遊びに行くわ』って。都会なら友達の家に行くのは相当仲良くなってからだと思います。集落全体が、巨大な下宿みたいな感覚でした」。
対馬さんが5年間暮らしたアパートでも、何日も出歩いて遊んでいると、近くに住む大家さんから「しばらく、部屋に電気ついてるの見ないけど、大丈夫?」と心配する電話がかかってきた。対馬さんは「本当に、大家さんは親代わりでした」と話す。
4月16日未明の本震に襲われたとき、対馬さんはアパートの部屋にいた。熱帯魚を飼っていた、重さ120キロある満タンの水槽が吹き飛び、左足に落ちてきた。体が前後左右に揺さぶられた。「まるで洗濯機の中にいるみたいだった」。必死にソファにつかまっていると、外からドーンという音が聞こえた。雷に似た轟音が続き、「死んだ」と思ったという。
慌ててアパートの外に出た。周りの後輩たちに呼びかけて避難させたあと、脱出はできるのかと懐中電灯を持って、目の前の阿蘇大橋の方へ走っていった。
「どこにあんの、橋」
懐中電灯の頼りない光の中で、山肌が大きく崩れて、阿蘇大橋を押し崩していた。橋がかかっていた大きな谷がなければ「たぶん、アパートごと土砂に飲み込まれていた」。
東京の親元に戻ってきてからも、電車に乗ったり、人混みに紛れたりすることへの恐怖心が続いた。「この場で地震が起きたら、と考えてしまう。逃げ場が無い場所にいるのが恐ろしい」
そんな中、対馬さんにとって、心の支えとなったのが南阿蘇村の人たちとの交流だった。
アパートの大家さんとは、LINEでやりとりを続けている。4月下旬、避難生活を心配するメッセージを送ると、変わらぬ優しい返答が送られてきた。
「学生さん達に良い思い出として、ずっと心に残る故郷になれば嬉しいです。家も無くなりましたが前向きに頑張って行きます」
避難生活を続けるコンビニ店員の男性からは、40枚以上の村の写真がLINEで送られてきた。「俺らの暮らした村、こんなひどい状況を少しでも広めて欲しい」とメッセージが添えられていた。
少しずつ、村への支援活動を考えるようになった。
母親の知人が開いた、経営者50人ほどが集まる企業設立発表会で、地震の体験を講演した。講演後、大勢の参加者が、励ましの言葉とともに募金を渡してくれた。
活動に目を向けてもらおうと、募金箱と同じロゴを入れたTシャツやステッカー作りを、支援してくれる人もいる。
今月18日に、これまで集まった募金を届けに南阿蘇村に行く。対馬さんは「東海大生はずっと村にお世話になってきた。活動も、地道に長く続けていきたい」。
東海大によると、阿蘇キャンパスは復旧のめどが立っていない。余震で被害が広がる恐れがあるうえ、梅雨に入れば土砂崩れの危険もあるからだ。同キャンパスでの授業再開には「かなりの日にちを要する」としか言えない状況だという。
暫定的に7月から、阿蘇キャンパスにあった農学部の授業は、熊本市内のキャンパスで再開する予定だ。しかし、南阿蘇村とは違い、市街地で約750人分もの住まいを急に確保することは難しい。東海大は通えない学生のため、授業のインターネット配信も検討しているという。
南阿蘇村が、再び学生でにぎわう日がいつになるのか、先は見通せない。しかし、離ればなれになった今も「大きな下宿」で暮らした住民と学生の絆は、続いている。
対馬さんの活動の公式フェイスブックは、下記の通り。
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