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あの聖火走者が死去 2度目の東京五輪前に残した言葉

原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれ、東京五輪開会式の聖火リレー最終走者として、聖火台に火をともした坂井義則さんが亡くなりました。五輪に平和への夢を重ね、「五輪の意義を伝えるのが一生の仕事」と語っていた坂井さんの言葉を紹介します。

1964年10月10日 東京五輪開会式
1964年10月10日 東京五輪開会式 出典: 朝日新聞

目次

原爆が投下された1945年8月6日に広島県三次市で生まれ、19歳で東京五輪開会式の聖火リレー最終走者として、聖火台に火をともした坂井義則さんが10日、脳出血のため69歳で亡くなりました。五輪に平和への夢を重ね、「五輪の意義を伝えるのが一生の仕事」と語っていた坂井さんの言葉を紹介します。

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平和への夢とともに走る

東京五輪開会式で聖火リレー最終走者として走る坂井義則さん
東京五輪開会式で聖火リレー最終走者として走る坂井義則さん 出典: 朝日新聞

1964年10月10日、NHKアナウンサーが「最大の演出家、それは人間でもなく、音楽でもなく、それは太陽です」と実況する好天の東京。早稲田大1年だった坂井義則さんは聖火リレーの最終走者として、7万人の観衆に見守られながら、国立競技場を走った。

自身も陸上400メートルで五輪を目指していたが、代表選考に漏れた。しかし、組織委はそのフォームの美しさと原爆の日に生まれたというメッセージ性から、聖火台への点火という大役に抜擢した。

日本中の人が、私が聖火を持って走る姿に平和への夢を重ねました。
朝日新聞2009年12月16日朝刊

しかし、坂井さんが1964年の東京五輪で最も印象に残っているのは、自分が主役だった開会式ではなく、観客の一人としてその場にいた閉会式だったという。

1964年10月24日 東京五輪閉会式
1964年10月24日 東京五輪閉会式 出典: 朝日新聞

それぞれの国を代表して戦ってきた選手たちが、みな笑顔で手を振り合いながら入場してくる。

各国の選手たちが隊列を組まずにバラバラに入ってきて手をつないでいました。まさしく、平和の祭典でした。
朝日新聞2009年12月16日朝刊

あのとき感じた希望をいまも

坂井さんは、大学卒業後、テレビ局に入社し、スポーツ報道の分野で五輪に関わりつづけた。どこに行っても「聖火リレー最終走者」という呼び名はついて回ったという。敗戦から立ち上がった日本を国内外に示した64年東京五輪には、それだけのインパクトがあった。

国民一人ひとりが自分も参加しているという意識が強かった。だから、僕は変な生き様は見せられないと今でも思う。当時を知る人たちの、あの時感じた希望を失わせたくない
朝日新聞社2008年3月25日朝刊
坂井義則さん
坂井義則さん 出典: 朝日新聞

核兵器や平和の問題についても、求められれば発言した。聖火走者として感じた、日本中の平和の夢を大切にしたかったからだ。

重荷に感じたこともありますが、その夢を壊さない義務があると感じ、機会があれば核兵器廃絶と平和を訴えてきました。私が「核に関心がない」なんて冷めた態度をとったら、夢が消えてしまいますから。
朝日新聞2009年12月16日朝刊

日本から改めて発信を

昨年、2020年東京五輪開催が決まったことを、心から喜んでいた。

次男の厚弘さんもスポーツ中継の道で、五輪報道に関わり、その長女の名前は聖奈ちゃん。由来はもちろん、聖火だ。親子3代での五輪観戦を楽しみにしていた。

あの興奮、感動をまた味わえるなんて幸せ。五輪は日本の子どもたちにとって、一生の宝物になる。平和とは何かということを、日本から改めて発信してもらいたい。
朝日新聞2013年9月10日夕刊

64年の聖火ランナー、孫の名は聖奈 3世代で待つ五輪

聖火台の横で当時の様子を語る坂井義則さん=吉本美奈子撮影
聖火台の横で当時の様子を語る坂井義則さん=吉本美奈子撮影
出典: 朝日新聞

記者(古田)はこれらの引用のうち、2009年12月の記事を担当していた。平和の祭典としての五輪の魅力を語った最後に、坂井さんはこう言っていた。

広島と長崎で五輪が実現すれば、素晴らしいことだと思います。東京五輪の閉会式、被爆地であの光景を見たいと願っています。
朝日新聞2009年12月16日朝刊

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