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朝ドラの蓮さまのモデル、「白蓮」の人生が実はすごい

現在放送中のNHK朝の連続ドラマ「花子とアン」で花子の腹心の友として描かれている「葉山蓮子」。この蓮子のモデルとなっている柳原白蓮(燁子)の人生が実はすごい。

伊藤伝右衛門と写真に写る柳原白蓮(左)
伊藤伝右衛門と写真に写る柳原白蓮(左) 出典: 朝日新聞

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25歳で2度目の結婚

 本名は柳原燁子(あきこ)。公家華族である柳原伯爵家に生まれ、大正天皇の従妹にあたります。15歳で遠縁にあたる子爵の息子と結婚し、1子をもうけましたが、5年後に離婚しました。東洋英和女学校には23歳で編入し、朝ドラの主人公である村岡花子とも出会いました。花子とは互いに「花ちゃん」「燁さま」と呼び、花子に英語の小説を訳して読んでもらったりもしていたようです。卒業後は、25歳で九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門とお見合いし結婚しました。(2008年、朝日新聞・柳原白蓮展図録より)

伊藤伝右衛門(右)と柳原白蓮
伊藤伝右衛門(右)と柳原白蓮

 当時の新聞を読むと、白蓮(燁子)の家柄を褒めたたえる一方で、伊藤伝右衛門については「無教育の大金持ち、炭掘男の伝ねむさん」、縁談も「家柄人柄教育財産すべて釣り合わぬ」と、かなり言いたい放題・・・。炭鉱での用語を東京でも使ってしまうといった「残念」エピソードまで事細かに報じられています。

白蓮(燁子)と伊藤伝右衛門(ここでは伝ねむ)との結婚を伝える紙面
白蓮(燁子)と伊藤伝右衛門(ここでは伝ねむ)との結婚を伝える紙面 出典: 1911年2月21日朝日新聞

筑紫の女王、社交界の花に

 新聞ではけちょんけちょんに言われた伊藤伝右衛門ですが、資金力は圧倒的でした。白蓮のために家を改築、別邸も建て、当時としては珍しい自動車なども所有していました。白蓮は、その美貌と知性で九州社交界の花に。別府にある別邸は白蓮のサロンのように使われたそうです。歌集を出版すると、大阪朝日新聞で彼女をモデルとして始まった連載「筑紫の女王燁子」とともに評判を呼び、歌人としての評価も高まりました。(2008年、朝日新聞・柳原白蓮展図録より)

 一方で、夫・伝右衛門には女中を始め複数の女性関係があり、白蓮は悩まされたようです。

白蓮が過ごした旧伊藤伝右衛門邸=福岡県飯塚市
白蓮が過ごした旧伊藤伝右衛門邸=福岡県飯塚市
旧伊藤伝右衛門邸にある柳原白蓮の部屋からは見事な庭が見渡せる
旧伊藤伝右衛門邸にある柳原白蓮の部屋からは見事な庭が見渡せる
旧伊藤伝右衛門邸の廊下。天井は船底天井になっている
旧伊藤伝右衛門邸の廊下。天井は船底天井になっている

愛に生きる!白蓮事件

 そんな結婚10年目に起きたのが白蓮事件でした。伊藤の家を捨て、弁護士だった宮崎龍介と駆け落ちしたのです。宮崎龍介は白蓮が書いた脚本を出版する際に出会った元東京帝大生で、この時白蓮は既に彼の子を妊娠していました。当時は不倫は姦通罪として法的に罪を問われる時代、華族としての世間体など大きなリスクを背負っての行動でした。

「白蓮事件」を伝える当時の新聞。紙面には大きく白蓮の写真と宮崎龍介の写真が掲載された
「白蓮事件」を伝える当時の新聞。紙面には大きく白蓮の写真と宮崎龍介の写真が掲載された 出典: 1921年10月22日朝日新聞
この頃の宮崎龍介
この頃の宮崎龍介

 新聞では伊藤伝右衛門との再婚のいきさつや、宮崎龍介との出会いのエピソードなども紹介、宮崎の「燁子を救ってやるのは僕の義務です」という決意表明ともとれる発言も掲載しています。ちなみにここでも伊藤伝右衛門については「抗夫上りの無理解」とバッサリ。

白蓮事件を伝える当時の新聞
白蓮事件を伝える当時の新聞 出典: 1921年10月22日朝日新聞

 白蓮は夫・伝右衛門に向けた絶縁状を大阪朝日新聞に掲載しました。絶縁状では女中の中には「主従関係のみが存在するとは思はれないものも」あり「家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪はれて」いたこともあったと訴えました。「私は金力を以て女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます」と書く白蓮の文章には、社会運動家である恋人・宮崎らの編集も入っているようです。

伝右衛門へ向けた最後の手紙を紙面に掲載
伝右衛門へ向けた最後の手紙を紙面に掲載 出典: 1921年10月23日朝日新聞

 この手紙に対し、伊藤伝右衛門は4日後の10月27日、今度は大阪毎日新聞に返答文を掲載しました。紙面では華族の妻をもらい大変だと思ったエピソードなどを紹介。結婚を後悔した時は「どうかして、これも縁あればこそだと思ひ返し、何とかして、お前のひねくれた心を真実の心持に目覚めさせたい、誰にもよいお前の持ってゐた無邪気さを生々とさせてやりたい」と努力したが「それもみな、水泡に帰した」とし、「お前が人の妻として資格のある女であるかどうかといふことを、まあお前の愛人に試験して貰つたがよからう、俺は、それでも楽しみにして眺めてゐやう」と、やや強がりにも見えますが、突き放す形で応じました。(2008年、朝日新聞・柳原白蓮展図録より)

「その後」も結構すごい

 事件後、この影響で白蓮の兄が貴族院議員を辞任。白蓮はしばらくの間、柳原家に幽閉され、その間に長男・香織を出産しました。翌年の1923年、関東大震災の混乱も手伝い、宮崎家へ向かい龍介と正式に結婚し、40歳の時には長女・蕗苳(ふき)も生まれました。

子どもたちと写真に写る白蓮(中央)
子どもたちと写真に写る白蓮(中央)

 宮崎龍介が病床についた時は、白蓮が歌や執筆活動などで生活を支えました。家では吉原の娼妓をかくまい自由廃業を手伝うこともあったそうです。

白蓮。龍介が体調を崩した際は家計を支えることもあった
白蓮。龍介が体調を崩した際は家計を支えることもあった
宮崎龍介と結婚後も歌人として活躍した白蓮
宮崎龍介と結婚後も歌人として活躍した白蓮
選挙活動中の宮崎龍介(左から2番目)と白蓮(中央)
選挙活動中の宮崎龍介(左から2番目)と白蓮(中央)
選挙活動中に吐血した龍介にかわり、白蓮が演壇に立つこともあった
選挙活動中に吐血した龍介にかわり、白蓮が演壇に立つこともあった

 長男・香織(当時24歳)を終戦4日前に亡くした後は、戦争をなくそうと「悲母の会」を結成し、平和運動にも力を注ぎました。
 亡くなる6年前からは、緑内障でほとんど目が見えない状態に。しかし、1日中ラジオを聞いては世の中の動きを追い、歌なども詠んでいました。病床についてからは、夫・龍介が介護に尽くしたそうです。晩年、娘の蕗苳さんに「私は九州に居た時にあんなに苦労をしなければ宮崎の家へは来なかったかもしれない。でもこうして宮崎の家へ来て幸せだった」と話していたそうです。(1967年2月22日・2007年8月17日 朝日新聞、2008年、朝日新聞・柳原白蓮展図録より)

1954年当時の白蓮
1954年当時の白蓮
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