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「アホの坂田」愛され人生 その〝代償〟と葛藤 最後は尼寺でお葬式

トレードマークの前掛けをまとう坂田利夫さん(中央)=2012年10月、大阪府摂津市
トレードマークの前掛けをまとう坂田利夫さん(中央)=2012年10月、大阪府摂津市 出典: 朝日新聞社

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昨年12月29日に82歳で老衰のため亡くなったお笑いタレントの坂田利夫さん。1月28日には『坂田利夫さん、たくさんの笑いをあ~りが~とさ~ん!』(カンテレ)が放送される。新喜劇の研究生からスタートし、その後は漫才師へと転向。シングル曲「アホの坂田」のヒットを受けての葛藤など、爆笑の裏にあった苦労とは? 多くの人に愛されながら幕を閉じた利夫さんの芸人人生を振り返る。(ライター・鈴木旭)

「芸能界に入って親孝行したい」

“アホの坂田”こと、坂田利夫さん(本名・地神利夫=じがみ・としお)は1941年生まれ、大阪市港区出身。幼少期からクラスの人気者で、西条凡児の漫談や川上のぼるの腹話術などを真似て周囲を笑わせていたという。

1950年9月に上陸したジェーン台風の影響により、大阪湾の高潮が発生。港区は浸水し、利夫さんは母親に手を引かれて逃げた。父親はワイヤーロープを作る工場を営んでいたが、自宅や工場が流されたため、必然的に家計は苦しくなったという。

此花商業高校(現・大阪偕星学園高校)を卒業後、どの仕事も長くは続かなかった。学生時代から目立つのが好きだった利夫さんは、「芸能界に入って親孝行したい」と思い始める。そんなある日、喫茶店で目に入って来たのがテレビ画面に映る「吉本新喜劇研究生募集」の文字だった。

オーディションは、応募者1500人のうち合格者15人。後のレツゴー三匹・逢坂じゅんさん(2014年他界)もそこにいた。利夫さんは、この難関を突破。晴れて研究生となったものの、与えられる役は通行人ばかり。

セリフが少なかったため、アドリブを入れると先輩によく怒られた。舞台終了後は、先輩たちの命令に振り回されるなど、苦労も少なくなかったようだ。
 

“アホ”の原点は漫才の掛け合い

劇場の楽屋には、演歌歌手・村田英雄の「王将」の歌詞が貼ってあった。この王将から将棋棋士・阪田三吉を連想し、本名と組み合わせて芸名を「坂田利夫」と決めた。

利夫さんの盟友とも言える存在が西川きよしだ。彼もまた、通行人役ばかりやらされていた。下積み時代は収入が少なく、新喜劇のヒロイン役を務めていた杉本ヘレン(現・西川ヘレン)にきよしと外食をご馳走になるなど、大いに世話になったようだ。<1月5日に放送された『追悼特別番組 坂田利夫師匠へ感謝のメッセージ あ~りが~とさ~ん!』(BSよしもと)西川きよしのコメントより>

しばらくすると、きよしは横山やすしと組んで漫才コンビを始め、みるみる人気者になった。きよしからも「よう儲かるで」と漫才師への転向を勧められ、程なく新喜劇の先輩・前田五郎さん(2021年他界)から「漫才やろか」と声を掛けられた。

新喜劇の作家・檀上茂から「コメディNo.1」とのコンビ名を授かり、1967年に利夫さんは心機一転、漫才師としての活動を開始。横山やすし・西川きよしに迫る勢いで関西のテレビ・ラジオに出演し、人気者となっていった。

“アホ”の原点は漫才での掛け合いにある。利夫さんは、2017年に公開されたドキュメンタリー映画『ワレワレハワラワレタイ ウケたら、うれしい。それだけや。』(吉本興業/木村祐一監督)の中で、こう語っている。

「たまたま舞台出て漫才してるときに、うちの相方が『おい、お前アホやろ』とこう言うたから。普通みなさん方やったらアホ言われたら『誰がアホやねん!』と怒るわな。ところが、俺怒らんと『うん、アホや』って言うたんや。それが変にバッとウケたんや。宝くじ当たったようなもんや」

「親にまで迷惑掛けてんのか」

1970年に上方漫才大賞で新人賞、1971年にNHK上方漫才コンテストで優秀話術賞、1972年に上方お笑い大賞で金賞を受賞。同年、テイチクからシングルレコード「アホの坂田」を発売すると、6万枚を売り上げるヒットを記録した。

人気者ゆえの弊害もついて回った。前述のドキュメンタリーの中で、利夫さんは「教育委員会からな、『坂田いう子が学校行ったらいじめられる』言うて。だから、(筆者注:レコードの販売が)中止になった」と苦笑交じりに語っている。

また、これにあわせて、飲み屋で女性ファンに声を掛けられサインに応じ、後から来た男性に「そのサインくれ」と言われ「この色紙はお金出して買ってはるから、すみませんがあなたも買うてください」と断ったところ、突如右目のあたりを殴打され28針縫うケガを負ったこともあったと当時を述懐している。

母親とレストランで食事した折には、修学旅行で大阪を訪れていた学生の団体に「おい、アホや!」と絡まれた。すると、母親は顔を真っ赤にして「うちの子どもはアホちゃうねん。仕事でアホやってるんです。そんなん言わんといて!」と生徒たちに怒鳴った。利夫さんはその姿を見て、「親にまで迷惑掛けてんのか……」と胸を痛めたという。

キャリアを重ね、収入にも余裕が出てきて、“アホの坂田”を演じることが恥ずかしくなった時期もある。そんな状況を救ったのが、利夫さんをかわいがっていた松竹新喜劇の藤山寛美の言葉だ。同じように“アホ役”で一世を風靡した先輩からの助言には説得力があった。

「『坂田くん、まだキミは世間に害を及ぼすアホや』言われてね。やっぱ生々しいアホやったんかなぁ。あかん、それはダメやと。『アホというものは、堂々と胸張って明るく。善人でなかったらあかん』てね。『恥ずかしがったらいかん。堂々と胸を張ってアホなことしなさい』って言われてね、こんこんと。あぁ~なるほど、そうやなぁと思って」<前述の『ワレワレハワラワレタイ~』より>
 

生涯独身も“尼寺”で葬式

女性を紹介されても照れてしまって進展しない。子どもができてイジメに遭ったら、どう対処すべきかわからない。生涯独身を貫いたのは、そういった繊細な性格によるところも大きいのだろう。

しかし、生前のエピソードは、思わず笑ってしまう人間くさいものばかりだ。

駆け出し時代のダウンタウンの漫才を見て、利夫さんが「お前らなかなかおもろいやないか」と褒めたものの、自分は“2メートル近くあるちょんまげに青っぱなの殿様”という強烈な容姿で舞台袖のパイプ椅子に座り腕組みしていたこと。

妹の結婚式の挨拶で「ふつつかな妹ですが」を「ふしだらな妹ですが」と口にして失笑を買ったこと。高齢の独身生活は危ないと考え、カバンにメリケンサックを常備していたことなど、どれもインパクトが強い。

「あんたバカね、オホホ~」「あ〜りが〜とさ〜ん」といったヒットギャグを持ち、愛嬌ある声からCMのナレーションでも活躍。劇場で共演した後輩たちからは、一様に「お洒落で優しい」と慕われた。

人生の大半を“アホの坂田”として生き、『あっちこっち丁稚』(ABCテレビ)など共演歴も長かった間寛平夫妻に最期を看取られた。その後も、最後の最後まで利夫さんらしいオチがあったようだ。

前述した『追悼特別番組 坂田利夫師匠へ感謝のメッセージ~』の中で、落語家・桂文珍は利夫さんの葬儀についてこう語っている。

「生涯独身を貫かれてね、お弔いが阿弥陀池っていうね、尼寺(筆者注:大阪市の寺院・和光寺)やったんです。あっこはね、閻浮檀金(えんぶだごん)っていう仏像が伝わって、それを池の中へ投げ入れたというね、そういう伝説のある立派なお寺ですけど。その尼寺でね、“尼寺”でお葬式をなさった(笑)っていうのもね、面白い人やなぁと思ってね。感心しました」

“アホ”でいることには、さまざまな代償が伴ったのかもしれない。だが、その分、多くの人から愛されたように見える。昭和の芸人を思わせる、ある意味で理想的な人生だったのではないかと、筆者には思えてならない。
 

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