お金と仕事
バスケ漬けの人生…「天才との差」に危機感、「手に職」求めた元選手
「好きな運動」長く続けるため選んだセカンドキャリア
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「好きな運動」長く続けるため選んだセカンドキャリア
身長190センチの元バスケットボール選手の森川悦子さん(37)は、中学生時代、バドミントン部の“幽霊部員”でした。中3の時、赴任してきた先生との出会いがきっかけで、バスケを始めます。「大きくても走れる」を強みに強豪チーム「デンソー」でプレー。そこで知ったのは「天才との差」でした。現在はストレッチ専門店でトレーナーとして働く森川さん。バスケしかなかった人生から再就職できた理由は……。森川さんのセカンドキャリアを聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
森川悦子(もりかわ・えつこ)
中学時代、バドミントン部だったのですが「これほど才能がないのか」というほど下手で、幽霊部員として過ごしていました。転機が訪れたのは、中3の時です。赴任してきた先生が中学バスケットボール選抜の監督でもある人で、「バスケしないの?」と声をかけられました。当時、身長180センチを超えていたので、目立ったのだと思います。
その時、「やってみようかな」という気持ちが芽生えました。先生に都内のバスケの強豪校を紹介してもらい、その中でも、基礎練習やトレーニングを重視する学校を教えてもらいました。その一つが、後に進学をする佼成学園女子高校でした。
入部したバスケ部では、最初の1年間、他の部員とは別メニューでひたすらトレーニングとフリースローの練習のみ。監督の先生が「選手に怪我をさせないこと」を徹底していたため、初心者の私は体作りから始まりました。
引退した高3の先輩がつきっきりで指導をしてくれたのですが、毎日怒られ、毎日泣きながら特訓をする日々を送っていました。特に苦労したのが、周りとの「身長差」でした。
当時、私は185センチあり、チームで1番身長が高いプレーヤーでした。周りの動きを真似ても、身長差がネックとなりテンポが合わず、うまくいきません。そこで工夫したのが、指示の内容を、自分のタイミングに置き換えたり分解したりして、練習に落とし込むこと。
その結果、私は「大きくても走れる選手」へと成長していきました。
どんなに過酷な練習にもめげなかったのには、高校バスケ部監督の先生が、私の親に「(娘さんには)3年間怪我をさせません。将来は実業団チームに入れます」と約束をしてくれたことが大きく影響をしています。
小学生時代から身長170センチを超え、いつも人から好奇な目で見られてきました。でも、足は早くなければ、体力もない。運動面において、これまで人から期待されることは一度もありませんでした。そんな私が、バスケを通して期待をかけてもらいました。それに応えたいと思ったんです。
続けていくうちに、「もしかしたら、私もお客さんの入ったコートに立てるかもしれない」とも思い始めました。正直、バスケが楽しいと思ったことはありませんでした。ただ、私の居場所はここしかないと思っていました。
大学卒業後も、バスケは迷いなく続けようと思いましたね。でも、大学時代はチームとしても、個人としても、目立った成績は残せず……。実業団からのオファーはなく、トライアウトを受けようと思っていた大学4年の春、実業団チーム「デンソーアイリス」を持つデンソーから声をかけてもらいました。二つ返事でOKしたのは言うまでもありません。
デンソーとの契約は、引退後は退職をするというものでした。バスケで一生食べていけないことはわかっていましたが、当時は念願の実業団チームに入りたい気持ちが強く、引退後のことなど考えませんでしたね。
居住地を愛知県へ移し、引退するまでの6年間は寮生活を送りました。選手である以上、日本代表に入りたい気持ちを持ってプレーしていましたが、結果的に、その願いは叶いませんでした。
「夢は叶わない」と悟ったのは、2012年の27歳の時、全日本総合バスケットボール選手権で初めて決勝戦進出をした時のこと。決勝戦の相手は、何度も優勝をしている王者、ENEOSサンフラワーズでした。
相手チームには、米女子プロバスケットボールWNBAを経験している渡嘉敷来夢選手や、五輪大会でも活躍された吉田亜沙美選手がいました。シーズン中は何度か対戦していたチームだったにも関わらず、決勝戦では全く違う顔を見せつけられました。同じ190センチ台の渡嘉敷選手と対峙した時、「世の中には天才がいる」と思い知りました。
逆立ちをしても、追いつけない現実。努力でどうにかなるものでないことを痛感した試合となりました。結果は準優勝。同期や先輩が多く引退していく中、自分はどうするか考えた時、「あと1年バスケがしたい」と思ったんです。
このチームをどう強くするかを考えた時、周りの選手を生かす存在でありたいと思いました。そう決断した矢先、チームの主力選手が怪我で欠場することに。若いチームだったため、ベテラン選手の私がメイン選手に抜擢されたんです。
結論から言うと、そのシーズン、チームは大幅に成績を落とし、雰囲気も良くない状況に陥りました。これまで主力選手に頼り過ぎていたこと、そして自分の準備不足を突きつけられたように思いました。
シーズンの最終戦後の記憶はなく、気づいたら帰宅していました。今でも詳細な記憶は思い出せないほど、トラウマとなった1年でした。私を拾ってくれた監督、チームメイト、そして、無名の私を応援してくれたファンの方々……。「結果を残せなくてすみません」という言葉しかありません。
それでも、唯一自分を褒めてあげたいのは、エリート選手と同じステージに立てたこと。多くの人の支えで、全日本の試合の決勝戦の舞台に立てたこと。それは誇りに思っています。
学生時代から痛めていた右膝も限界に近づき、28歳で引退を決意しました。今後を考えた時、バスケに何か還元したいと思い、母校の日本女子体育大学バスケ部のアドバイザーとして携わることになりました。
部員の中には指導者を目指す学生もいたため、自分が先生になったとき、選手に怪我をさせないための考え方や教え方を伝えました。
ただ、将来を考えた時、ずっと続けられる仕事かどうか不安になり、34歳になった頃、それは「危機感」に変わっていました。再就職を考えても、電話対応やITスキルなどは持ち合わせていないため、一般企業への転職は厳しい。そこで思ったのは、手に職をつけることでした。
ほぐしやセラピストの勉強をはじめたのですが、体のことを学んでいくうちに、バスケに限らず、「スポーツの現場に立ち返りたい」と思うようになりました。そして、「ベンチの後ろでもいいから、もう一度コートに立ちたい。選手たちと同じ目線でゲームを見たい」と思ったんです。
そんな時、たまたまストレッチ専門店の「Dr.stretch」の採用広告を見ました。ストレッチ専門の会社で、「ここなら、自分のやりたいことができるかもしれない」と思い、運営会社のフュービックの面接を受けました。これまでバスケで培った経験が生かせること、そして引退後のキャリアに迷った私と同じ気持ちの元アスリートに向けて、選択肢の可能性を提示していく存在になりたいことをアピールしたところ、正社員のトレーナーとして採用されました。
現在、入社して2年が経ち、2店舗目の神奈川県相模原市の店で働いています。客層はその地域によって異なり、今は40、50代の男性が多いですね。バスケで成立していた世界しか知らなかったので、来てくださった方との会話を通して、見聞が広がっています。
Dr.stretchは、トレーナーがお客さまと1対1で接するのが特徴です。独自の技術でストレッチをすることで、個人では伸ばしにくい筋肉や関節に働きかけ、体の可動域を広げていきます。
お客さまの来店時、来店理由や悩み事を汲み取ることはもちろん、“人”としてまた会いたいと思ってもらえることを意識しています。コロナ禍でも来てくださることに感謝し、その人が楽しく日常生活を送るために、自分は何がお手伝いできるかを日々考えています。
私は大学時代以降、怪我に泣きました。お客さまの中には、趣味でスポーツしている人もいるので、好きな運動を長く続けてほしいと思っています。
今の仕事において、バスケの経験が生きていることは、体の動かし方を理論立てて説明できること。高校時代、身長が高いがゆえに、周りと同じ動きをするのに苦労したため、体の動きを細かく分解し、理解をしていました。その習慣が今に生きていると感じます。
現役選手の中で、引退後に不安を感じている人はいると思います。引退する前に勉強した方がいいとか、現役時代から他業種の人と関わった方がいいという声を聞きますが、それが難しいケースもあると思うんです。
私の場合、基本的にチームで行動していて、ひとりの時間はなかなか作れませんでした。しかも今はコロナ禍のため、人と会うにも制限がかかっていますよね。現在はSNSの時代なので、まずは、不特定多数に向けて、自分はこういう選手です、こういうことをしていますとアピールするのは良いと思います。
発信が苦手な人は、プロフィールだけでも作ってみては。どこかで自分のことを見てくれていて、それが新たな出会いにつながるかもしれません。
引退後は焦燥感にかられたり、あるいは気持ちがプツンと切れて燃え尽き症候群になったりする場合もあると思いますが、それは頑張った証拠。そういう時は、動き出そうと思うまで、何もしないのはアリです。休養期間もあってもいいと思います。
私は引退後、職探しに焦りを感じましたが、34歳でも再就職できました。休養期間を経てから動くのでも遅くないと思います。
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