コラム
「そんな子が生まれても困る」と言われ…「死ぬ権利」アルビノの疑念
「生きていいよ」と言わない社会の罪
今年7月、全身の筋肉が衰える難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の女性患者から依頼を受け殺害した疑いで、医師2人が逮捕されました。女性が”安楽死”を望んでいたとする報道もあり、「当事者に『死ぬ権利』を認めるべきだ」という意見が広がっています。生まれつき髪や肌の色が薄い、遺伝子疾患のアルビノでライターの雁屋優さん(25)は、こうした風潮に強い違和感を覚えているそうです。「『死にたい』という思いは、差別が残る社会がもたらしたものではないか」。疾患ゆえに生きづらさを感じてきた一人として、誰にも侵害できない「生きる権利」の大切さについてつづってもらいました。
京都でALSの女性患者に頼まれ、薬物を投与して殺害したとして、医師2人が逮捕される事件があった。女性のものとみられるネット上の書き込みには、「安楽死」を望むような記載があったという。
このニュースを知り、私はあまり驚かなかった。「死にたい」と考えてしまうのは、難病患者が通ってもおかしくない道だからだ。
しかし、社会の反応を見て、私の中に無視しがたい違和感が出てきた。「彼女を死にたいと思わせたものは何だったのか」「それはどうやったら軽くできたのか」。一部の人々の間では、そういった議論は深まらず、「死ぬ権利」が必要だという話になっていったからだ。
「障害や難病がつらいだろうから、死んでいいよ」は、いつか「死ね」に変わる恐れがある。「難病でつらいのに、死なせてあげないなんて……」から始まり、「コストがかかるから、早く死ね」になっていくのではないか。
そこにあるのは難病や障害がある人の命を下に見る優生思想だ。この社会はまだ、優生思想を捨て切れていないのだ。
優生思想がこの世の中に存在することを知ったのは、ナチスドイツの所業を学んだときだった。しかし、私と優生思想との初めての出会いは、歴史を学ぶよりずっと前。5歳の頃、母の再婚相手の家族の言葉だった。
「また、そんな子が生まれても困る」
そんな言葉を、母に投げつけた人たちがいる。母は今、その人たちと割と良好な関係を築いているらしい。だが私は、母から伝え聞いたその言葉を忘れない。
私はアルビノだ。髪や目、肌の色が薄く生まれる遺伝疾患で弱視がある。難病にも指定されている。母親の再婚相手の親族は、連れ子の私を見て、同じように疾患のある子が生まれたら困ると考えたのだ。まさに優生思想そのものだ。
その人たちは今では身内である。一度でもそんなことを言った人たちを身内として扱わなければならないことを、ずっと不満に思ってきた。存在否定は忘れられないし、許せるものではない。その人たちは私の敵なのだと今も思っている。
幼少期の私に、多くの人たちが「お人形さんみたいでかわいい」「きれい」「外国の人みたい」と褒め言葉をくれていた。特に母方の祖父母には容姿をたくさん肯定されていた。そんな中に伝え聞いた、"その言葉"。何てひどい人たちなんだろうと憤った。
十数年後、私は、そのまなざしを自分自身に向けることになった。
大学生となり、私は生物学を専攻した。生命倫理や、ダウン症などの染色体異常を調べられる出生前診断にも、少し関心を持った。
技術が進んだら、アルビノも出産前、体外受精であれば着床前にわかるのではないか。そんな考えが頭をよぎった。それはとてもいいことに思えた。
私はほかの人とは違う外見や弱視のために、できないことを体験してきた。アルバイトに落ち続け、やさぐれていた。私はアルビノの先輩にこう漏らした。
「アルビノの子が生まれてこなくなったら、こんな苦労をする子もいなくなるってことですよね?」
私が体験した苦労をさせたくない。だから、アルビノの子が生まれてこなくなる未来を歓迎する――。そんな考えを持っていた。
それは、そっくりそのまま、「ひどい人たち」が母に向けて発した「またそんな子が生まれても困る」と同義だった。
同じ苦しみを背負う子どもを減らすことは、次世代のためになると信じて疑わなかった。当事者だからこそ、そう訴える権利はあるのだとも思っていたのだ。だから結婚や出産についても、アルビノの私は「してはいけない」のだとも思いこんでいた。いつのまにか、そう考えるようになっていた。
こんなの、どう見たって優生思想である。
私は敵とみなした思想に自らどっぷり染まっていたのである。5歳の私のまなざしは、そのまま大学生の私を刺した。
私には、希死念慮がある。今日眠って明日起きなかったらいいな、とか、重篤な病で余命宣告されないかな、とか考えている。理由はその時によって違う。
就活がうまくいかないから、お金がないから、家族と不仲だから……。そもそも生きているのが面倒だから。そんな理由で死にたくなる。
安らかに眠るように死ねる薬があったら、飲んでベッドに横になると断言できるときもある。だから、死ぬ権利が欲しい気持ちは、私にはわかる。
だが、死にたいと思うことの原因は、私にだけあるのだろうか。
就活がうまくいかない理由の一つに、弱視やアルビノの見た目が入っていないとは言わせない。事実、それで面接に落とされた経験をしている。お金がないのはなぜか。私にあった労働条件で働けるところが、そうないからだ。
これらは、私のせいではない。障害者や、外見に症状がある人たちへの差別がある社会だからこそ、起こることだ。
「死にたい」と考えている人の思いを否定はしない。だが、その「死にたい」は社会からもたらされたものではないだろうか。
もしそうなら、話が違ってくる。
社会がやるべきは「死んでいいよ」と言うことではない。「生きていいよ」と制度を整え、福祉サービスを充実させることだ。
障害年金の受給者の多くは働けない人なのに、生きていくには十分な額をもらえない。病気や障害があっても金銭的な心配をしなくてよい仕組みは必要だ。少なくとも、金銭的な理由で「死にたい」と思うことはなくなるはずだ。
京都で起きた事件をめぐっては、被害者の女性が難病を苦に死を望んでいたとの見方がある。私も差別を受け、生きづらさを感じてきた一人として、「死にたい」との気持ちは理解もできるし、納得もできる。だからといって、他人が「殺してあげる」ことは美談でも何でもない。
「死にたい」と思うことがありながらも、私が生きているのは、好きなものがあり、書きたいことがあるからだ。大好きな作品も書きたいことも日に日に増えるし更新される。それを味わうまでは、やりきるまでは、死ねない。そう思って生きている。
人はいつか老いるし、唐突に障害者になる。そのことを頭に置いて今回の事件を見て欲しい。障害があろうと、病気があろうと、生きる権利があり、それは誰にも侵せるものではないと、改めて理解されることを願う。
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