お金と仕事
医学部の多浪会、40年ぶり華麗な復活 「中卒ひげ」が目指す医師像
東北大学医学部に多浪を経験した学生が集うサークルがあります。鍵を握る人物を訪ねました。
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東北大学医学部に多浪を経験した学生が集うサークルがあります。鍵を握る人物を訪ねました。
小若理恵 朝日新聞記者
共同編集記者東北大学医学部に多浪を経験した学生が集う「風雪会」というサークルがあります。発足は1978年。長らく休眠状態にありましたが2017年春、40年ぶりに復活を遂げました。その歴史の鍵を握る人物を訪ねました。(朝日新聞大阪生活文化部・小若理恵)
2019年の暮れ、1通の配達証明郵便が届いた。何かクレームかと思い、恐る恐る封を開けてみると、こんな手紙が入っていた。
「私は東京大学法学部を卒業後、東北大学医学部に入学しました。7浪相当です。入学式で出会ったとてもフレッシュマンに見えない同級生たち。経歴を聞いてみると、多浪や大学卒業後の人が多く、3浪以上を集めて『風雪会』を立ち上げました」
その少し前、朝日新聞大阪本社発行の夕刊「まだまだ勝手に関西遺産」で「大阪大学多浪の会」という学生サークルを取り上げた。入会資格は2浪以上。多浪ゆえに同級生と話題が合わず肩身の狭い思いをしたことなど、当事者ならではの悩みや思いを紹介したところ、全国から「応援したくなる」と励ましの声が届いた。
配達証明郵便もそのうちの一つだった。手紙はこう続いていた。
「その風雪会が40年ぶりに復活し、新たに立ち上がりました。その多様な様子は同封の艮陵新聞(東北大医学部の同窓会誌)のコピーをご覧ください。きっと、大阪大学多浪の会以上のインパクトを受けると思います」
手紙の主は東京都立川市で眼科医院を営む岩瀬光さん(67)。1978年、東北大医学部に「風雪会」を立ち上げた張本人だ。現役で東京大法学部に入学・卒業したが、医師を志し、25歳で東北大に再入学した。
入学式で周りを見渡すと、10代にはみえない貫禄の面々が並んでいた。「入学までに様々な風雪を経て流れ着いた者」に声をかけ、10人ほどで飲み会を始めたのが風雪会の始まりだ。
正会員には三つの分類がある。入学までに3~4年は「風雪注意報」▽5~7年は「風雪警報」▽8年以上は「風雪非常事態宣言」。3年未満だが、その内容が豊かな者を準会員とする――。
後輩たちが次々に加わり、往時は約40人に増えた。だが、岩瀬さんたちの卒業後はいつのまにか活動が途絶えてしまった。
そして2017年4月。1人の若者が東北大医学部の門をくぐった。人呼んで「中卒、ひげ」。その異名は、けっして学歴差別ではなく、入学までの「風雪」の積み重ねから自然と生まれたという。この男が40年ぶりに風雪会を再興した人物という。
ぜひ、話を聞きたいと、一路、仙台に向かった。
取材場所に指定されたのは、仙台市青葉区の歓楽街にある飲食店「フライパン」。風雪会が発足した1978年当時からの活動拠点で、医学生たちのたまり場だという。ほの暗く大人びた店の奥で、長い風雪に耐えた3人の男子学生が出迎えてくれた。
「中卒、ひげ」は、仙台市出身の小川耕平さん(29)=医学部3年(8浪相当)。まずはその風雪ぶりから。
「中学1年の時はちゃんと学校に行っていたんですが、2年から行かなくなりました。よくないグループで悪さもいっぱいして…」
中3の時、母に「行かなくてもいいから受けるだけでも」と懇願され、ダーツで受験する高校を決めた。刺さったのは仙台屈指の進学校。担任教師は「無理」と断言した。
塾の冬季講習に通い、奇跡的に合格したものの、高校に通ったのは最初の1カ月だけ。相変わらず中学の仲間とつるみ、2年に進級できず退学した。その後はコンビニでアルバイトをしていたが、17歳の時にコールセンターで人を管理する仕事に就いた。求人は18歳以上だったが、「生活がかかっている」と事情を話し、雇ってもらった。
「中卒」の自分に対し、世間の風当たりは強かった。
18歳になった小川さんは高校卒業程度認定試験を受けることにした。が、数学の試験問題に向かい面食らった。「英語じゃないのに何でアルファベットが出てくるの?」。小川さんには公式の意味がわからなかった。
コールセンターでは働きぶりを評価され、正社員への打診も受けた。でも「このままここで年を取るのは嫌だ」と退職。職を転々としながら生活は細り、漠然と不安が押し寄せた。「将来、どうやって生きていくんだろう…」
父は放射線科医だった。その背中を見て育った小川さんは「医者になりたい」と目標を定めた。23歳のことだ。
予備校は高校を卒業して一定の学力がある人の行くところ。そう思っていたから、文部科学省の学習指導要領で何から勉強すればいいかを自分で調べ、参考書に沿って独学で進めることにした。
翌年、医学部は落ちたが、私立大の薬学部に合格。いったんは「製薬の研究でも医療に貢献できるかも」と進学したが、すぐに「医師の立場で、患者と直接かかわりたい」との思いがわき上がった。退学して受験勉強を再開したが、その年もまた不合格だった。
そして3度目の挑戦。相変わらず、模試の結果は芳しくなかったが入試直前の11月、かろうじて合格ラインに食い込んだ。「いけるかも」。そのままの勢いでセンター試験は高得点をマーク。2次試験に挑み、ついに難関を突破した。
実は、小川さんの父は東北大医学部の卒業生で岩瀬さんの同期だ。
父のパソコンのデスクトップに例の同窓会誌「艮陵新聞」を見つけ、「風雪会」の存在を知った。父から「昔から変なヤツがいっぱいいたよ」と思い出話を聞かされた。
入学式後の歓迎レセプション。小川さんは「自分と同じ風雪経験者がいるはず」と仲間を探した。「失礼ですがおいくつですか」
意気投合したのが後藤修平さん(30)だった。後藤さんも入学式前の健康診断で小川さんを見つけ、「ひげ生えてるし、明らかにこいつ新入生じゃないな」と意識していたという。
後藤さんの風雪ぶりも見劣りしない。
札幌の進学校を出たが、仲が良かった小、中学校の友だちで大学に進む人はいなかった。「俺も大学はいいかな」と、卒業後はフリーターに。コンサートの誘導など日雇いのアルバイトで食いつなぎ、地元の友だちの家をたまり場にして日々を過ごした。
翌年、1浪した高校の同級生が一斉に国立大に進むと、ぽつんと取り残されたような気持ちになった。予備校に通い、医学部も射程に入るほど成績が伸びた。
が、センター試験で失敗し、国立大の歯学部に進むことに。なんとなく入学した歯学部では学問に興味を持てず、2年生になるとまったく足が向かなくなった。
2012年末、日本は政権交代をかけた総選挙に沸いていた。後藤さんはその後、アベノミクスの波にうまく乗り、株やFXで稼いだ。「もう歯医者じゃなくていいかな」。23歳で退学し、一度は住んでみたかった東京に出た。細々とトレーディングを続けながら暮らしているうちに、「これだけじゃ食べていけない」と危機感を募らせた。
あるとき、新聞に載っていたセンター試験の問題が目に留まった。問題を解いてみて「まだいける」と思った。「今なら間に合う。もう一度、医学部をめざしてみるか」
26歳で札幌に戻った。世間体が気になり、犬の散歩は夜中に出かけ、存在を消すようにして過ごした。宅浪を経て翌年、9浪相当で東北大医学部に合格した。
「以前はバイトでも年齢だけで『ダメなヤツ』とレッテルを貼られ、相手にもされなかった。医学部に入ったとたんに手のひら返しを経験した」
医学部入学前と後を比べ、後藤さんはこう振り返る。世間は権威を重んじるものだ。哲学者フランシス・ベーコンが唱えた「劇場のイドラ」を体現しているようだったという。
そんな手だれを前に、「お二人ほど風雪があるわけじゃない」と小倉雄太郎さん(24)が謙遜する。現・風雪会の最年少メンバーだ。
現役で東北大理学部に入学後、祖父ががんで亡くなったのを機に「がん患者と家族の苦しみに寄り添える医師になりたい」と志を立てた。医学部に再入学して驚いたのは、自分よりもさらに年上で経験豊富な同級生が大勢いたことだ。
高校時代は1浪さえも怖いと思っていた。でも長い人生でみたら、数年なんて大した期間じゃない。「強くてニューゲーム」。ゲームをクリアした時点のキャラクターのレベルや所持アイテムを引き継ぎ、新たにゲームを始めることを指す。様々な経験を積んだ自分たちを「強くてニューゲーム」に例える。
2018年には医学部入試で女子と多浪の学生への差別が明らかになった。そんな中でも「東北大は極めてクリーン」と3人は胸を張る。例えば2017年度入学者でみると135人中、風雪会への入会資格がある人は約1割。資格外の1浪、2浪など「当たり前」という。
3人は「自分たちはエリート層の上澄みにいる学生とは違う」と口をそろえる。酸いも甘いも、貧しさも、労働の厳しさも、世間の冷たさも知っている。そんな自分たちがめざす医師像とは――。
「自分でいろんな経験をして、失敗して、決断して、医師になる道を選んだ。だから余計に医師という職業に対する気持ちも強くなった。いろんな目線を持っているからこそ、いろんな患者に寄り添う医師になれるんじゃないかな」
がん治療に携わりたい。スポーツ医学に興味がある。ワーク・ライフ・バランスを重視した新しい働き方を求める。それぞれにめざす道は違っても、彼らなら患者の痛みがわかる医師になるだろう。4時間に及ぶ取材の後、すがすがしい思いで店を後にした。
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