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「いくら伝えても戦争がなくならない」空襲に遭った93歳の言葉から

空襲の体験をギャラリートークで話す真野和雄さん=嶋田達也撮影
空襲の体験をギャラリートークで話す真野和雄さん=嶋田達也撮影

10万人という市民の命が一夜にして奪われた東京大空襲。27歳の記者は「歴史上の出来事」ととらえていましたが、経験者の生の声を取材していくなかで考え方が変わっていきました。講演会で子どもたちから「死体を見たときはどう思った?」と問われた、空襲の経験者が語ったことは……。(朝日新聞記者・小川聡仁)

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「慣れっこ。いくらあったって驚かない」

80年前の1945年3月10日、現在の東京都江東区や墨田区、台東区などで1665トンに上る焼夷弾が投下され、民間人が無差別に焼かれました。

記者がこの東京大空襲の取材班に入ったのは、今年2月上旬ごろでした。

これまで初任地・新潟県の長岡市で空襲被害を取材したことがありましたが、腰を据え、時間をかけて戦争の企画にあたるのは初めてでした。

先輩からは幅広い世代に届けるために「戦争に詳しくない人の視点で、取材してほしい」と言われました。

2月21日には、空襲当時、現・墨田区で中学2年の時に被災した真野和雄さん(94)の講演を取材しました。

場所は真野さんの母校でもある二葉小学校。

柴田拓副校長によると、「ネットや本で調べるだけでは、表面的な理解で終わってしまう。実際に体験した方の生の声を聞いて、児童に考えてほしい」という狙いがあったといいます。

真野さんは、小学6年生の児童約100人を前に、東京大空襲の経験を語りました。

「防空壕に入ったらすぐだよ。焼夷弾が落ちて、向かいの家があっという間に燃え上がった」

「何十体もの死体を、兵隊さんがトラックに積み込んでたんだ」

子どもたちと一緒に、私も耳を傾けていました。

経験者が語る生の声だからこそ、伝わる説得力があり、真野さんが体験したことが映像として頭に浮かびました。児童からの質問も途絶えることなく続きました。

母校でもある二葉小学校で、自身の体験を語る真野和雄さん(左奥)
母校でもある二葉小学校で、自身の体験を語る真野和雄さん(左奥)

一方、80年前の戦時下と現代で、感覚のずれを感じる瞬間もありました。

理屈では「このあたりは焼け野原だった」ということは分かりますが、現代の発展した東京の町並みとなかなか重なり合いません。

児童からはたびたび、「死体を見たときはどう思った?」という質問がでました。

真野さんは、「もう慣れっこ。死体がいくらあったって驚かない。人間って怖いね」と答えました。

少し、腑に落ちないような表情を浮かべた児童もいました。

このように、戦時下を直接知らない私や児童にとっては、80年の壁は厚く、共感しきれない場面が時折ありました。

母校でもある二葉小学校で、自身の体験を語る真野和雄さん。子どもの質問にも答えました
母校でもある二葉小学校で、自身の体験を語る真野和雄さん。子どもの質問にも答えました

「いくら伝えても、世界で戦争がなくならない」

戦争を語り継ぐ意義は、一般に「戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えていく」ことだと言われます。

もちろんこれは非常に重要で、記者も意識して取材して記事を書きます。

しかし、受け手側のことを想像すると、単に話を聞いたり、記事を読んだりするだけでは、「戦争や平和といった漠然とした概念を自分ごととして落とし込むのは難しい」とも思います。

「自分ごととしてもらう」ためのヒントになったのは、現・江東区で被災した亀谷敏子さん(93)のお話でした。

亀谷さんは東京大空襲の夜、炎が広がる町を逃げ続け、もんぺの裾に火がついて1度は死を覚悟しましたが、父に手をひかれ、近くの工場の塀の中に投げ込まれたおかげで生き延びました。ただ、母親ときょうだい5人が犠牲になりました。

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亀谷さんへの取材の過程で話題に上がったのが、現在も戦争や紛争が続くウクライナやガザの話でした。

「いくら伝えても、世界で戦争がなくならないんです。なぜウクライナの市民が、死ななければいけなかったのか」

無力感を含んだその言葉で、亀谷さんは自分の経験と、ウクライナやガザをつなげて考えているのだと分かりました。

逆に、私は無意識に、「日本の戦争=過去の歴史」「ウクライナやガザ=現代のニュース」と切り分けていたことに気づかされました。

台東区で被災した亀谷敏子さん
台東区で被災した亀谷敏子さん

亀谷さんが生きてきた93年間を振り返ると、常に世界のどこかで争いが起き、血が流れ続けてきました。

1965年以降のベトナム戦争では米軍がゲリラの拠点として農村を焼き払い、90年代の湾岸戦争では巡航ミサイルによる「ピンポイント爆撃」が取り入れられました。現代はドローンを活用した兵器も登場しています。

攻撃する側が「無差別ではなく、軍事目標を攻撃している」として正当性を主張するようになりましたが、結果的に民間人が巻き込まれる事例が後を絶ちません。

たとえば、米軍が2021年まで対テロ戦を展開したアフガニスタンでは、民間人の死者は約4万5千人にのぼるとされます。

技術や戦術が変わったとしても、多くの民間人が命を落としている構図は、変わらないのが現状です。

その意味で、亀谷さんが「戦争の悲惨さを伝えたい」という思いから語り継ぐ東京大空襲の経験は、現代の戦場とも通じる、普遍的な戦争の姿でした。

すでに「記憶」の多くが失われている

東京大空襲の取材を終えて、私には変化がありました。
 
現代のウクライナやガザの人々が体験している悲嘆が、より現実味を増して感じられるようになりました。

平和な日本で暮らす立場から「寄り添えた」とはとても言えませんが、それでも過去の戦争を通じて、現代の戦争への解像度が上がったように感じます。

思い出したのは、こんな言葉です。

「歴史は繰り返さないが韻を踏む」

歴史上全く同じ出来事は起こらないが、似たようなことが繰り返される。このような意味だとされています。

戦争の歴史を振り返ると、少なくとも「子どもを含む多くの住民が巻き込まれ、亡くなる」「悲惨な経験や死別を強いられる」ことは80年前も今も変わらない普遍的な事実だと思います。

だからこそ、過去80年の歴史を縦軸として、現代の世界を横軸として捉えれば、戦争の普遍的な悲惨さを少しでも自分ごとできないだろうか――と考えました。

ただ、課題もあります。

取材で痛感したのは、既に当事者の「記憶」の多くが失われている、という当然の事実です。

当時10歳だった経験者でも、今では90歳。当時を知る人を探す中で、「10年前だったら、証言できる人がいた」と言われることもありました。

今回、取材に応じていただいたのは、小中学校時代に空襲を経験した92~94歳の3人でした。

どの方も取材に誠実にご対応いただきましたが、ところどころ、記憶が薄れ、正確な記憶を思い出すのに時間がかかる時もありました。

証言が事実関係と相違ないか、資料と突き合わせ、時に資料館の学芸員さんから意見を伺いながら、記事を構成していきました。

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総務省の統計では、2023年10月時点で全国の90歳以上の男女は約272万人、100歳以上は約8万7千人です。

根気よく当事者の方を探しつつ、残された手記や記録を生かして時代に即した企画で提示することもメディアの役割のひとつだと感じました。これからも取材を続けたいと考えています。

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