IT・科学
感染対策と日常、どう折り合いつける?飲食バイトする医療記者に聞く
2020年の春、新型コロナウイルスによる危機が叫ばれ、緊急事態宣言による混乱の中で、多くの人生が変わった。
よく行くカフェの店員、通っているジムのインストラクター、イベント関係、旅行関係、たくさんの友人知人が職を休まざるを得なくなったり、職を変えるまで追い込まれたりした。たった数年で、消息を知らず「あの人は今どうしているんだろう」とふと思い出す人が増えた。
ニュースでは日々、新規感染者数と死亡者数が報道された。私自身、記者として感染対策を呼びかけながら、それにより生活に困る人が出ることに、なかなか折り合いがつけられずにいた。これまで自分がそうあるべきだと考えていた「正しい情報」は、すべての人を救うわけではないことを、あらためて見せつけられた。
そんな中、かつての勤務先の報道機関で上司だった記者が、レストランでアルバイトを始めたことを知った。岩永直子さんだ。
当時も、私が所属を移ってからも、私の目に岩永さんは「迷いなく筆を振るう人」に映っていた。実際、コロナ禍の彼女の精力的な執筆活動において、厳しい予測を語り、行動の制限を求める医療の専門家への取材が多く目についた。そうした記事はセンセーショナルにネットで拡散され、社会に少なからず影響を与えただろう。
もちろん、生活への目線を持った医療の専門家や、“医療の専門家”へのカウンターになる取材もあったが、基本的には注意喚起がメインだったように思う。
そんな岩永さんが、未だに感染リスクの高い場所とされる、食事とアルコールを提供する店でバイトをするのは、なぜなのだろう。彼女はネット上で個人的にバイト日記をつけて公開し、それは『今日もレストランの灯りに』(イースト・プレス)として出版された。
記者という仕事は、世の中のことを知っているようで、原稿以外のことで実感を持って語れることがあまりないかもしれない。そんな記者一筋で50歳を目の前にした岩永さんが、スタッフとして皿を洗い、ビールを注ぎ、注文を取り、さらには店の売上や人件費、テナントの賃料といったコスト意識を持っていく。エポックだ。
コロナ禍により失われた習慣の一つは、気軽に人と会うことではないだろうか。著書の取材を申し込みたいという口実で、岩永さんにひさしぶりに連絡を取った。
岩永さんは1998年に読売新聞に入社し、社会部、医療部、医療サイト「yomiDr.」の編集長を経て、転職。2017年5月にBuzzFeed Japanに入社した。私は岩永さんと一緒に医療部門を立ち上げ、2年ほど一緒に働いた。その後、私は現在の所属に転職し、最近になって岩永さんはフリーになった。
前述の著書によれば、<新聞社で20年、ネットメディアで5年、医療の専門記者として働いてきた>という叩き上げの彼女に、コロナ禍で変化が訪れたという。
<医療記者としての私は相変わらず感染対策について書きながら、バイト先で普段感じていることを思い、筆が迷っているのを感じている。>
繰り返すが、私の彼女へのイメージは「迷いなく筆を振るう人」だった。だからこそ、この一文を読んだときは驚いた。「もっとはっきり書いて」は、何度となく私が注意されたことだからだ。しかし、続く文章で、かつての岩永さんへの印象が本人により言語化され、腹落ちした感覚があった。
<もちろん流行初期から、感染を広げる場所として名指しされ、制限を加えられてきた「夜の街」や「芸術・文化」の側の苦悩も取材してきた。(略)そのどれもが切実な声だったが、むしろコロナ禍で取材が忙しくなり、サラリーマンとして安定した収入を得ている自分にとっては、どこか「他人ごと」だった感は否めない。>
記者は独立的かつ中立的であるべきで、報道は正確かつ公平でなければいけない。しかし、痛みを実感できないまま、ただ伝えるだけで、人は動くだろうか。
岩永さんはレストランでのバイトを経て、<これから緩和と感染対策との難しいバランスを考えながら、ますます記事の歯切れは悪くなるだろう><医療記者としても私は、簡単には記事が書けなくなったことを喜ぶべきなのかもしれない>と内省する。
レストランでのバイトを始めて<大袈裟ではなく人生が面白くなってきている>とした岩永さん。今は失いたくない居場所を得た上で、“それでも言わなければならないこと”を言っていることになる。岩永さんの感染対策の記事は、バイト日記をつけ始めたことで、かえって説得力を増したように感じる。
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