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「ママは頭のいい子が好きなんだ」息子の一言でよみがえった幼少時代
ママは、頭のいい子が好きなんだ――。
首都圏に住む会社員の女性は、息子が保育園に通う頃、そんな意味の言葉を投げかけられたそうです。当時はひらがなを覚えるため、カルタ取りの練習をしていました。
「無意識に『頭が良い方がいい』というメッセージを発していたのだと思います。息子なりの抗議だったのでしょう」。そう話す女性が省みてよみがえってきたのは、「やれば出来る!」という言葉を浴びていた自身の子ども時代の記憶でした。
女性の息子は現在、高校1年生です。
10年ほど前、息子が保育園に通っていた時のことでした。
小学校入学を控え、保育園ではひらがなを使ったカルタ取りをしていました。
保育園で取得枚数が掲示される日々。2桁の数字ばかりが並ぶ中、女性の息子はいつも1桁でした。
「今日は0枚だったよ」。帰宅後、残念そうに報告する息子に胸が痛みました。
「なぜ競争をあおるのかと思いつつ、私も気になって結果を聞いていました。がっかりする様子を見せていたのかもしれません」
カルタを買って練習しましたが、状況は上向きませんでした。
その頃から、息子の様子が変わったと話します。
「大好きだよ」
女性がいつものように言葉をかけると、冷めた口調でこう返すようになりました。
「○○くんがママの子どもだったら、僕のことなんか好きにならないよ」――。
カルタ取りが得意な子どもの名前でした。
ママは、頭のいい子が好きなんだ。僕のことは好きじゃないんだ。女性は、息子がそう受け止めているのだと感じました。
息子をありのままに受け止めたい。
そう思いながらも、ままならない現実がありました。
小学校に入ると、忘れ物が多く、音読ができませんでした。2年生の時、息子はADHD(注意欠如・多動症)と学習障害と診断されました。
女性は焦りを募らせたそうです。
「せめて、字の読み書きができるようになってほしい」。漢字カードを壁一面に貼り、泣いても音読をさせました。
「やれば出来る」。女性にはそんな思いがありました。
転機は、小学4年の頃です。
「息子がウソをつくようになったんです」
ある時は、空手教室を3カ月ほど無断で休んでいたことが分かりました。
胴着をクシャクシャにして帰ってくるので、通っているのだと思っていました。
「私にバレないように胴着を使い古したようにしていました。『うまくできない』のが嫌だった。それを私に言うのも嫌だったのでしょう」
こんなことが続くうちに、女性はこう思うようになります。
「やれば出来る!」を押しつけてしまったのかもしれない。私が間違っていたのかもしれない――。
「『やれば出来る!』と言われて育ちました。自宅の壁面にも、そんな標語が貼ってありましたから」
女性は幼少時代をそう振り返ります。
両親は、町工場を経営していました。
「家でも仕事の話ばかり。私が寝た後、両親がよくけんかをして、父親の怒鳴り声が聞こえました。母親は泣きながら怒っていました」
母親が家事を何日も「ストライキ」することもありました。
女性は、母親の「味方」でありたいと思うと同時に、不安な気持ちから認められたいと思うようになりました。
中学生の頃には、掃除や洗濯などの家事も積極的に手伝っていました。
ところが、「母親のやり方通りでないと、『余計なことをして』と言われました」
勉強にも励みました。小学校高学年の頃、90点の答案を持ち帰ったこともありましたが、返ってきたのは「いつもこれだといいよね」でした。
「どれだけやっても私は認められない。母親の物差しで評価されなければいけない苦しさがありました」
そんな苦しさを息子も抱いているとしたら――。女性は、そう思うようになりました。
息子は、確かに漢字をうまく書けない。それでも、書き取りは続けている。「書けるようになるなら、何でもする!」。そうも言う。息子も、必死でもがいていたんだ――。
「『やれば出来る』とはっぱをかけ、『出来ない』という気持ちを息子の中で際立たせてしまったのは、私ではないかと思ったのです」
それから女性は、「出来る」「出来ない」を軸に息子を評価することをやめたそうです。
「当時熱中していたユーチューブでもブロックでも、『いいね!』するようにしました。彼自身の存在を肯定していると伝えたかったのです」
それから息子は、自分の興味や感じたことを女性にも話すようになりました。「親子関係が格段に良くなったと感じています」
同志社大学の教授で、「『承認欲求』の呪縛」(新潮新書)などの著書がある太田肇さんは、「他人に認められたい」という思いは、部下の育成だけでなく子育てを通じても湧き起こると指摘します。
「立派な子を育てた」「子どもが優秀な大学を出た」――。そんな達成感で承認欲求を満たしてしまうことがある、というのです。「『子どものため』としながら、実態は『親のため』ということがあるのです」
女性自身、「きちんと子育てしないと!」とどこかに気負いがあったのかもしれない、と述懐します。
一方でこうも話します。
「『やれば出来る』の先にあるのは結局、『役に立つ』=『優秀』みたいな価値観だったと思うのです。私自身、そう強く思っていたところもあり、今でもそう思う部分はあります」
息子の将来に関して悩みは尽きません。
先日は、息子が短期で事務作業のアルバイトを経験。周囲の手際のよさにしょげて帰ってきたそうです。「障害の影響で、とても不器用です。働き出せば、こうしたハードルはたくさんあるのだろうなと思いました」
そんな女性はこう話します。「失敗を経験しながら、折り合い方を覚えていくしかないように思います」
「出来る」を積み重ねて「転ばぬ先の杖」とするのではなくて、失敗し、落ち込み、それでも折れずに生きていく、そのために回復する居場所であり続けられたら――。女性はそう思っています。
インフルエンサーが「ホームレスの命はどうでもいい」と発言して炎上、謝罪しました。
「役立つかどうか」「価値があるかどうか」で人間を判断するような基準の広がりが根底にあるのではないでしょうか。
一方で、「役に立ちたい」という個人の思いは、自らを苦しめることもあれば、肯定的にとらえられることもあります。
さまざまな視点で「役に立つ」を考えます。みなさんのご意見も「#役に立つの呪縛」でつぶやいてみてください。
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