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「非常口」が逃げた!SNSで注目、ピクトグラム作者のまじめな思い
破天荒と思いきや…ストレス社会への問いかけ
ここ最近、SNS上を賑わせている立体アート作品があります。誰もが目にしてきたであろう、「非常口」の標識。その中に閉じ込められた、人物のピクトグラム(絵文字)が、前に向かって「飛び出す」構図です。今にも逃げ去らんばかりの勢いに、「ヤンチャ過ぎる」と度肝を抜かれる人が続出しています。一見、破天荒と思える展示品には、ストレス社会に対する作者の思いが込められていました。(withnews編集部・神戸郁人)
8月31日、作品の画像がツイートされました。
地面に寝かせられているのは、建物の中などで見かける、非常口の位置を指し示す標識。内部に電灯を備える、オーソドックスな外観です。白地に緑色であしらわれた、「非常口 EXIT」の文字や、出入り口のイラストが表面に見えます。
しかし、人型ピクトグラムが見当たりません。上側に目を移すと、あの「全力疾走」ポーズのまま立体化されていました。しかも、前方へと勢いよく突っ込む格好です。窓部分の保護用透明板が、まるで飴細工のごとく伸び切っています。
「非常時らしい焦りを感じる」「こんなヤンチャな非常口標識は見たことない」。ツイートには驚きと称賛の声があふれ、10日時点で20万超の「いいね」もつきました。
さっき完成したやつ。 pic.twitter.com/pJ3aSJSfbU
— 松枝 悠希 (@matsueda_yuki) August 31, 2021
作者は、茨城県常総市在住のアーティスト・松枝悠希さん(40・@matsueda_yuki)です。東京芸術大学に入学後、大学院まで進みデザインを修めました。「ありそうでありえない瞬間を作品に」をコンセプトとして、平面から物体が飛び出す構図の造形物を手掛けています。
注目を集めたのは代表作「This is EXIT」です。2010年に初めて発表して以降、幾度もリメイクしています。今回は購入希望者に納品する分を、自身のファンコミュニティーサイト上で公開制作。完成直後、現物の写真を撮りツイートしました。
そもそも、なぜ非常口の標識をモデルにしようと思ったのでしょうか? 松枝さんが、経緯を振り返ります。
「2010年、『in the Dark』というテーマのグループ展に出す作品について考えていました。暗闇の中で行う展示だったため、実際に暗い場所を歩き、アイデアを練ったんです。すると、昼夜点灯し続けている、非常口のサインに目が行きました」
有事に備え、非常口の場所を通行人に教えてくれる標識。その中に、緑色の人物が閉じ込められている……。「このままでは彼が危険だ。三次元の世界に脱出させよう!」。そのように想像力を膨らませ、作品化を決めたそうです。
外観は実物さながらの出来栄えですが、全ての部品を手作りしています。標識のフレームはMDF(木の繊維を成形したパネル)を切り出し、塗装して使用。プラスチックの一種・PETで透明板を作り、ピクトグラムの人形はアクリル製です。
「パーツがそろったら、透明板を加工して伸ばしていきます。何度も失敗して、やっと成功するんです。それらを組み立てて、サインを入れ、梱包して完成となります」
「This is EXIT」は、松枝さんの芸術家人生に転機をもたらします。発表後、海外からの展示依頼が、飛躍的に増えたのです。形状に微妙な差異はあるものの、国際的に用いられるシンボルであったため、世界中の人々の共感を得たのでした。
「ただ、最初に制作したものは、実際の非常口標識より、かなり小さく仕上げていました。電灯用のスイッチが不便といった点もあり、もっと作り込んだものにしたいと、折に触れて改良し続けています」
標識への興味は、松枝さんの目を、日常にありふれた事物の面白さへと開かせました。パズルのピースから、卵の黄身に至るまで、言語や文化、宗教に左右されないモチーフを選び、「飛び出す」アートへと変換していったのです。
小品を含めれば、これまで世に出した創作物は、1千点をくだらないといいます。独特の作風が好評を博し、しばしばメディアで取り上げられ、個展や購入の依頼は引きも切りません。とはいえ、始めから順風満帆だったわけではないそうです。
松枝さんは大学時代、金属や樹脂を使い、巨大なオブジェづくりに打ち込みました。学部の卒業制作では、地面に突き刺さった不発弾をイメージした「Unexploded Bomb」を制作。博士課程に進学後も、立体作品を生み出し続けます。
「でも、似たようなものを手掛けている人は大勢いました。自分は本当にこれが作りたいのか。もっと人を驚かせたい。そう思ううちに、平面と立体を融合させられないか、と考えるようになりました」
ある日、制作に使用するパーツを作っていた時のことです。型が台座から外れ、偶然パーツにくっついてしまいました。完全な失敗でしたが、まるで型が「脱出」したように見えたことが、またとないヒントになったといいます。
「その後、トランプのハートといったマークが、カードから飛び出す作品を試作しました。先輩や教授に評価してもらったり、図書館で前例がないか調べたりしたところ、誰もやっていないとわかった。本格的に挑戦してみようと決意しました」
そして、平面と立体を一体化する技法は、自らのルーツとも深い関わりがあります。
両親は、故郷の常総市で印刷会社を営んでいました。幼少期の松枝さんも、うなりをあげて回る印刷機や、何百枚もの紙を一度に切り落とす断裁機に囲まれて育ちます。ものづくりのプロであるスタッフとも交流しつつ、用紙を使って絵を描き、工作して遊びました。
印刷物という平面的な物体と、それらを成立させるための、立体的な印刷機器。これら二つの要素が、身近に混在している環境で過ごした日々が、現在の表現に結実した――。「だからこそ、しっくりきている」と、松枝さんは語ります。
松枝さんの生き方が、そのまま反映されている、一連の作品。根っこには「何かから解放されたい」との思いをしのばせているそうです。
「私自身、新しい表現を模索している時、全てを投げ捨て、逃亡したくなるほどつらかった。『飛び出す』作品と出会ってからも、『どのジャンルにもないものをアートとして良いのか』という不安で、心がいっぱいだったんです」
「でも、平面から解放されたトランプのマークや卵を見ていると、自然とにやけてしまった。それは無理なく作品を作れている証拠だと思います。今度は固定観念やしがらみ、不安から自分を解放しなくては、と考えるようになりました」
眼差しは、ストレスフルな現代社会にも向けられています。「危なくなったら、いつでも逃げて良いんだよ」。深刻化の一途をたどる、SNS上での誹謗中傷やいじめを念頭に、そんなメッセージを創作物に編み込んでいるのです。
その意味で、人生における「非常口」を表現した「This is EXIT」が話題を呼んだことは象徴的と言えます。制作に臨む上で、何を最も強く意識しているのですか――。最後に問いかけると、次のような答えが返ってきました。
「何も意識していないです。自らの感覚に照らして面白いか、かっこいいか、美しいか。それが全てです。決して自信があるわけではありません。しかし、自分で決めるからこそ、個性が確立すると思っています」
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