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いかりや長介が病床で書いた…志村けんへの思い「親子」のような絆
こっそり足を運んでいた「初舞台」
ザ・ドリフターズの付き人からメンバーに抜擢された志村けん。ドリフを率いていた、いかりや長介と志村とには非常に似たところがあった。志村の突然の訃報から1年あまり。いかりやが志村に託した思いから、「親子」とも言える2人の絆について振り返る。(ライター・鈴木旭)※本文は書籍『志村けん』論から抜粋して再構成しています
『8時だョ!全員集合』のプロデューサー・居作昌果は自身の著書の中でこう語っている。
「リーダーのいかりや長介は、どちらかというと、不器用な男である。おまけに口下手でもある。(中略)ハプニングに器用に反応したり、アドリブのトークで受けまくるということの苦手な男なのである。そのかわりに、ギャグをじっくりと考えていくのが、大好きなのである」(『8時だヨ!全員集合伝説』より)
志村もまた、素を見せるトークは苦手だった。じっくりと時間を掛けて考え、ギャグやキャラクターを生み出していったところも共通している。
さらには、多感な時期にアメリカの喜劇映画から影響を受けたのも同じだった。2人が愛したのは体や表情で滑稽さを表現する万国共通の笑いだ。いかりやは疎開先の現・静岡県富士市にいた頃、よく映画を観に行った。その中でも欠かさず観たのが1940年代〜50年代にアメリカで活躍した背丈が凸でこ凹ぼこのお笑いコンビ「アボット&コステロ」の喜劇映画だった。
「(映画の中で)二人がジープにのって川のなかに入っていくと、ずぼっと潜水艦みたいに車が水の中に沈んじゃう。そしたら水中で二人が口からブクブク泡を出しながら、『早く、早く』。何をするかとおもったら、おもむろに車のワイパーを動かし始める。水中でワイパーを動かすというナンセンス・ギャグに私は爆笑した。(中略)浅草で見てきたシミキンやラジオで聞いた金馬の『居酒屋』なんかと違う笑いが世界にはあるんだ、と初めて知った」(いかりや長介『だめだこりゃ』より)
志村も高校1年のときに50年代のアメリカでスラップスティック・コメディーの帝王として名を馳せたコメディアン、ジェリー・ルイスの映画に衝撃を受けている。ほとんど原点と言ってもいいコメディアンだ。
「一番ショックを受けたのが『底抜けてんやわんや』という映画で、ジェリー・ルイスが最後まで一言もセリフを言わない。体の動きだけで笑わせるんだけど、それがあまりに楽しくて、すごく影響を受けた。動きや表情をずいぶん真似したもの」(志村けん『変なおじさん【完全版】』)
また、志村が『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などで披露していた「鏡コント」は、1910年代〜40年代に舞台・映画で活躍し、後世のコメディー業界に多大なる影響を与えたコメディアングループ「マルクス兄弟」の映画『我輩はカモである』からヒントを得たと考えられる。
ミュージシャン的視点でお笑いに向き合うのも同じだった。リーダーのいかりや長介は、著書『だめだこりゃ』の中でこう書いている。
「私たちの笑いは、ネタを稽古で練り上げて、タイミングよく放つところにある。私たちはバンドマン上がりらしく、『あと一拍、早く』『もう二拍、待って』とか、音楽用語を使ってタイミングを計りながら稽古した。今では一般の方でも使う、『ボケ』『ツッコミ』『ツカミ』というような専門用語すら当時の私たちは知らなかった。ちょっとでも間が狂ったら、ギャグがギャグにならなくなる。それを恐れた」
念入りに稽古していたのは、バンドマンのリハーサルに近いイメージだったのだ。志村もまた、〝間のよさ〞を重要視しており、お笑いの人間だけでなく歌手やミュージシャンとコントを披露することも多かった。
ドリフの活動の中で、志村は「父親・いかりや長介」の一面も垣間見ている。『8時だョ!全員集合』の地方巡業に行った際に、志村はいかりやから2人で飲もうと誘われた。ちょうどネタ会議の主導権がいかりやから志村へと移ろうとしていたときだ。その席で、いかりやは弱音をもらしていたという。
「『お前もな、この年になるとわかると思うけどよ、しんどいんだよ』(と言ってたけど)今(の年齢になって自分が)しんどいですもんね。会場中の子どもたちがいかりやさんに『ゴリラ死ねぇ〜』とかって言うわけじゃないですか。そういうふうにつくってあるから。基本的に嫌われるように。で、僕らが足をすくうから笑ってたんだけど。それが親の身になってお子さんがだんだん大きくなると『う〜ん、子どものこと考えるとなぁ』っていうのはあるよなぁ」(2019年4月5日放送のTBS『中居正広の金曜日のスマイルたちへSP』での志村けんの発言より。一部わかりやすく修正している)
ドリフのリーダーであり、子どもの父親でもあるいかりや。その立場を理解した志村は、いかりやに観客の攻撃が向かないネタへの変更を受け入れた。志村が中心となり、いかりやの言う〝ギャグの串刺し〞になったのは、この部分も大きかったと思われる。
大柄で怖いイメージがあり、強いリーダーを思わせるいかりやだが、実はどこかに父親を探している部分があった。
そもそも、いかりやは、ドリフターズの結成メンバーではない。初代のリーダーは岸部清であり、2代目は桜井輝夫だ。途中加入後、いかりやは意図せず3代目リーダーを担うようになったのだ。この点について、いかりやはある種の運命を感じつつも、俳優への転向後は安堵の気持ちが溢れたという。
「私は長男で、上に相談に乗ってくれるきょうだいはいなかった。なぜかわからないけれど、いつも私が何かを決定しなければならない立場に立たせられてきた。(中略)ドリフターズでも、オーナーの桜井氏がフェイドアウトして、結局、責任者みたいになった」(『だめだこりゃ』より)
「きっと私は少しファザコン気味なのだろう。自分を委ねることのできる監督・演出家と出会うと、その相手に父親的なものを感じてしまう。ちょっと甘えているのかもしれないけれど」(同書)
一方で、志村は早くに父親を亡くした身だ。怖くて口下手ないかりやに父親を重ねていたところがあったのかもしれない。2019年4月5日放送の『中居正広の金曜日のスマイルたちへSP』(TBS系列)に出演した際、いかりやについてこんな発言をしている。
「僕は逆にオヤジが早く亡くなってるから、そういうふうな人がいて欲しいなっていうのは常にあったのかもしれないですね」
「(いかりやさんが)お前(オレに)似てるんだよって。で、ドリフの中でお前はツッコミもできて、モノも考えられてモノつくれるからな、お前な。大変だけど、ちゃんとそれをずーっとやれよっていうのは言われましたからね」
「笑わせ方はそれぞれ違うのはあるんだけど、離れてみるといかりやさんのこれは笑わせ方の手法。グループでの笑いのつくり方っていうのはすごく勉強になってますよね。だから僕はひとりでやらなくて必ず誰か置いてるから周りに。それがいつも〝5〞だったりする。数字がね。一緒にやってる誰かとかっていうのが」
1984年頃、志村といかりやの不仲説が流れた。
日刊スポーツは「長介志村が対立⁉」と銘打ち、『女性自身』(光文社)は「ささやかれる来春解散!いかりや長介と志村けんの確執が原因との声も」と題して報じている。
たしかに『8時だョ!全員集合』が終了して以降、2人の接点はほとんどない。しかし、いかりやは常に志村を気に掛けていた。志村の番組をチェックし、テレビ画面に向かって何かしらつぶやいていたようだ。
2001年8月、ドリフターズが揃ってNHKの歌番組『第33回思い出のメロディー』に出演することになり、2人は久しぶりの再会を果たす。
本番前の楽屋でいかりやが大福を口にすると、「本番前なのに食うかねぇ」と志村から指摘され、「なんだよ、悪いかよ」と言い返すようなやり取りがあったそうだ。仕事が終わって帰宅すると、いかりやは長男・いかりや浩一にそのことを嬉しそうに話していたという。
「僕はその話聞かされたときに、なんかこう変なわだかまりとかそういうのはないんだなっていうのを感じたのを記憶してますね」(2019年4月5日放送のTBS『中居正広の金曜日のスマイルたちへSP』でのいかりや浩一の発言より)
亡くなる前年の2003年に行われた舞台『沢田・志村の「さあ、殺せ!」』に、いかりやはひとりで足を運んでいる。誰にも話すことなく、自分でチケットを買ってこっそり観に行ったのだ。
歌手で俳優の沢田研二と志村はコント番組で何度も共演しているし、2001年10月19日に放送された『金曜オンステージ「ふたりのビッグショー沢田研二&志村けん歌もコントも大連発」』(NHK総合)でも名コンビぶりを発揮している。
しかし、「さあ、殺せ!」は、終戦直後の混沌とした東京を舞台にした物語という意味で一線を画す。所々にコントは挿し込まれているが、俳優陣を脇に固めた久世光彦の作・演出による芝居という意味で、志村にとっての初舞台だった。
この経験が後に舞台『志村魂』を始める足掛かりになっただろうし、いかりやも何か感じるところがあったのかもしれない。
2004年に病床に伏していたいかりやは、走り書きのメモを残している。震える手で書かれた文字には「オッス」「八時だよ」「次行ってみよう」「だめだこりゃ」と往年の決め台詞が並ぶ。その中に「加藤志村がえらい」という言葉もあった。
いかりやが余命宣告を受けて間もなく、2003年12月に放送されたフジテレビ系列の『40年だよ‼ドリフ大爆笑』のオープニングとエンディングを撮り直すため、久しぶりにメンバー全員が揃った。
オープニングシーンでカメラに寄ってくる5人。このとき、ほとんどのメンバーは足並みが揃っていない。しかし、志村だけはピタッといかりやに合わせて歩いていた。
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