地元
浪江町で受信した緊急メール 10年ぶりに訪れた「素通りした町」の姿
3月11日午後10時過ぎ。「震災から10年」の取材を終え、私は福島県浪江町にある国道114号沿いのコンビニエンスストアに来た。車通りはほとんどなく、静けさが漂う中、遠くからフクロウや獣の鳴き声が聞こえ、あたりは真っ暗だった。10年前のこの日、この時間、確かにここにいた。爆発する前の福島第一原発に向かっている道中だった。
2011年3月11日午後2時46分、大きな揺れが東北地方を襲った。私は写真記者として入社したが、当時は人事異動で福島総局のペン記者1年生として仕事をしていた。すぐに総局近くの県庁に行き、人々が慌ただしく避難する様子を取材した。
県庁にほど近い小学校の体育館には、近くの病院に入院していた患者たちが運ばれてきて、医師や看護師たちが懸命に対応していた。余震が立て続けに起こり、そのたびにどよめきが体育館に起きた。携帯電話には、津波が起きて、沿岸部で多くの行方不明者が出たことを告げるニュース速報がどんどん流れてきた。
午後4時を過ぎた頃には雪が降り始めた。寒々しい空気の中、このままどうなってしまうのだろうかという、行き場のない不安感に襲われた。
会社に戻り、同僚と警察や消防に被害の状況を電話で確認し、記事を書いた。電話越しに感じる荒々しい言葉遣い。冷静ではない対応に、事態の重大さが感じられた。大幅に早められた締め切り時間が終わり、一息ついた頃に、上司から、原発が立地する浜通り方面へ向かうよう指示を受けた。
福島市にある福島総局は、全国でも多くはない「原発を抱える総局」の一つだ。総局には、万が一の事態に備え、被曝(ひばく)を和らげるための防護服やガスマスクなどの防具が常備されていた。
原発に何か被害があれば、記者会見など報道対応があるかもしれないし、周辺で取材すべき事案が出てくるかも知れない。防具一式と緊急連絡用の衛星電話を車に積み込み、エレベーターや自動ドアが動かない自宅に戻って数泊分の荷物をまとめ、急いで出発した。
携帯電話は通じなかったが、メールは届いた。福島第一原発がある大熊町に入る前に、必ず連絡をするように言われた。日が暮れた頃、福島総局を後にした。
福島市内も場所によっては停電が起き、気をつけながら向かった。福島市から向かうためには、国道114号を延々東へ進む。途中、渋滞に巻き込まれながら進み、午後10時ごろ、国道沿いにある浪江町のコンビニエンスストアの駐車場に立ち寄った。まもなくぶつかる国道6号を南下すれば、すぐに大熊町までたどり着く。
メールを確認しようと、携帯電話を開くと、1件のメールが目に入った。件名は「【緊急】原発に近づくな!」だった。
衛星電話を開き、総局に連絡した。福島第一原発が被災し、放射性物質を含んだ空気を大気中に放出する措置が取られるかも知れない、とのことだった。「国道114号を逆流し避難するような車の動きはないか」と聞かれたが、辺りは静かだった。最寄りの避難所を1カ所取材して、南相馬市へ向かうように指示された。
避難所は、コンビニから2㎞ほど離れたところにある、浪江町立苅野小学校だった。工事用のぼんぼりがたかれ、発電機の音が響いていた。校庭に車を止め、体育館に入ると、多くの人が横になっていた。
投光器の光が薄く照らす中、ストーブの周りに車座になって暖を取る人の姿もあった。当時の取材ノートをひもとくと、その場にいた当時の校長と、住民一人にだけ話を聞いたようだった。写真と原稿を送稿した時間も含め1時間ほど滞在し、南相馬市へ向かった。
翌日、南相馬市からさらに移動し、相馬市で取材中に、福島第一原発が水素爆発した。爆発音は聞こえなかったが、メールによって、県内にいた記者たちに知らされ、内陸にある福島総局か郡山支局への退避を迫られた。その後、しばらく原発の近くには立ち入ることが出来なくなった。
それから10年間、考え続けてきたことがあった。
「どうしてあの夜、もっとつぶさに周囲を観察しなかったのか」「たくさん写真を撮らなかったのか」「避難している人の声をきちんと聞かなかったのか」。原発事故が近隣自治体の住民たちに与えた被害を思えば、当時そこにいたにも関わらず、記録が少ないことが非常に悔やまれた。
「あの場にいたことに意味がある」と言われたこともあるが、あのときの私は本当にそこにいただけで、写真記者に戻ってからも、多くの人が取り残されていた浪江町を「素通り」したという思いがずっとあった。
時間は戻らないが、同じ時間に、もう一度あの場所を訪れたい。その思いを胸に、震災から10年の2021年3月11日、再び自分の足跡を追うことにした。
震災当日の夜に立ち寄った国道114号沿いのコンビニは、着いた頃には閉店していた。10年前は停電で店内の明かりは消えていたが、町によると、この一帯の避難指示が解除された2017年に営業を再開したという。周囲には街灯はあるが暗く、行き交う車もまばらだ。
空を見上げると、満天の星。10年前は、空を見る余裕はなかった。田舎町の国道沿いは、どこでもそうだと思うが人気はなく、不安な感情がわき起こった。近くの民家で明かりがついているところが見えると、少し安心した。
国道114号を福島市方面に少し戻り、信号を右折。請戸川を渡り、さらに暗い県道を道なりにしばらく行くと、浪江町立苅野小学校に着いた。この裏門を通って、左側にあるグラウンドに車を止めたのだと、当時の記憶がよみがえってきた。点在する民家にはまだ明かりはあるものの、午後10時、あまりの静けさに、周辺の取材は翌日にしようと思い、苅野小学校を後にした。
12日、苅野小学校の周辺を歩いた。何か、特別知りたいことがあったわけではない。10年前の3月11日の夜、同じ時間を共有していた人の話を聞きたかった。そして、そこにいた人たちの10年間がどのようなものだったのか、聞きたかった。
近所を歩き回るうちに、苅野小学校がある浪江町苅宿地区で、震災当時、行政区長だった佐藤光衛さん(77)の存在を知った。佐藤さんはあの夜、避難してきた人たちの世話をしていたという。現在、避難先の福島市に住む佐藤さんに、知り合いを通じて、電話で話を聞くことができた
震災発生時、佐藤さんは燃料配達の仕事中だった。職場や自宅の片付けが一段落した夕方ごろ、地域の避難場所に指定されている苅野小学校に向かった。2組ほど、すでにシートを広げて避難している人たちがいたという。
深夜に新聞記者が来たことも覚えていた。「腕章つけて。夜遅くに」。確かではないが、それが私だった可能性がある。佐藤さんによれば、新聞記者がいなくなった後、日付が変わった頃に、沿岸部の避難者たちが続々とやってきたという。「みんな着の身着のままだった。足元も裸足に草履履きで、ぶるぶる震えていた」。グラウンドも満車状態となった。佐藤さんも避難してきた人たちとともに、一晩寝ずに夜を明かした。
翌日、炊き出しのための米を取りに自宅へ向かった。「藤橋地区にある自動米つき機が動いていたから、そこで米をついているときに、ドーンと爆発したんだ」。小学校に戻り、身を寄せていた人たちのためにご飯を炊いていたとき、町職員から「すぐに避難して」と言われた。
車列が数珠つなぎになった国道114号を内陸部に向かい、現在も帰還困難区域となっている津島地区の避難所に入る脇道の入り口で、町職員が赤い旗を振って「いっぱいで入れない」と合図を出していた光景を、佐藤さんは今でもよく覚えているという。
苅野小学校の目の前に住む長岡惣一さん(81)も、震災初日に小学校で避難所の手伝いをしていた。当時、地域の民生委員をしていて、野球チームの監督をしていたこともあった。
10年前の3月11日の夜について、「あの夜は本当に寒かったんだ。避難者の名前を記入する紙を用意したり、発電機やストーブを用意したりした」。沿岸部が津波の被害を受けたことを知らなかった長岡さんは、避難してきた人たちが、津波の話をしているのを聞いて、心配になった。
長岡さんは双葉町の沿岸部に嫁いだ次女の吉田紀美恵さん(当時42)と連絡が取れなくなっていた。震災発生当時は長岡さんとともに実家にいたが、双葉町の家の様子を見てくると、車で向かっていた。
「娘いなくなったの(心配な気持ちを)捨ておいて、避難所の世話していたんだ。精神的にあれは参った」。原発が爆発した後も、紀美恵さんが帰ってくるかも知れないと親戚とともに自宅に残っていたが、14日、玄関のドアに貼り紙をして南相馬市に避難した。紀美恵さんは約1カ月後、車の中で亡くなっているのが発見された。「俺が止めればよかったんだ」。今も悔いているという。
避難所となった苅野小学校は2020年に閉校が決まり、1月から解体工事に入っている。長岡さんは、自身も、3人の娘も苅野小で学んだ。「ここの苅宿地区は浪江町でも大きい部落で、苅野小学校のグラウンドで町の運動会やらお祭りやら、なんでもやった。残念だけど、もう人口も減っちゃったから。仕方ない」と寂しげに語った。
震災後、佐藤さんは川俣町や福島市を、長岡さんは南相馬市や郡山市、二本松市などを転々とし、長い避難生活を送った。長岡さんは2017年の避難指示解除後ほどなくして地元に戻り、体調を崩した佐藤さんは、医療環境の整った福島市で今も暮らす。
長岡さんは言う。「福島市に避難しているとき、仲間たちに、浪江町の名物『浪江焼きそば』を振る舞って喜ばれて。浪江町民のための自治会も立ち上げた。浪江を離れてさみしかったけれども、そんなことやってたから、なんとか気が紛れて、沈まないでやってこられた」。
東日本大震災から10年たった今、何を思うか。長岡さんは「駅やら道やら、いろんなものが出来たけど、精神的にはまだまだだね。心の復興という意味では、元には戻ってない」。佐藤さんは「(住民を)本当に帰らそうとするならば、やるべきことはまだあると思うな。とにかく、俺らみたいな年寄りじゃなくて、若い人たちのこと考えなきゃならんわな」と語った。
佐藤さんを紹介してくれた松本伸一さん(68)の言葉も印象的だった。
「(辺りを指さし)異様な光景だっぺ。こんな場所でも、昔は子どもが走り回る姿もあったんだ。いまはそんなのもねえし、除染が進んでんのも、人が住む場所だけだ。俺の仕事は林業だけども、山はまだ(放射能を示す地図上では)真っ赤で入れねえ」「壊れた原発から10㎞のところに住んでんだぞ。この前だって大きな地震あって。それ考えれば、戻ってこられない人の気持ちも分かる。みんな違うからな、一人一人。お互いの生き方を尊重しなきゃなんねえわな。いろんな生き方あっぺから」
苅野小学校周辺での取材を終え、再び、10年前に通ったのと同じルートで南相馬市へ向かった。車を走らせて数分。苅宿地区の集落を抜け、南相馬方面へと向かう道は「この先帰還困難区域につき通行止め」と書かれた看板に遮られていた。奥には常磐自動車道(2015年に全線開通)が見え、たくさんの大型トラックが行き交っていた。
震災から10年で、目に見えて「復興」した部分と、まだ立ち入りが出来ない取り残された部分があるという現実を目の当たりにした。
10年前、自分が素通りした町を、しっかりと見たい。周りをよく見て、そこにいる人の話を聞こう。そう思って、この場所を訪れた。当時はほとんど何も考えられていなかった。錯綜する情報のなか、指示されるままに動き、記事に必要だと思うだけの写真を撮り、住民の話を聞いた。
そして原発事故は起こった。事態の大きさに、十分な記録を残せなかったことを悔やむとともに、その当時の記憶も、苦々しいものとして刻まれていった。
今回、浪江町苅宿地区を再訪したが、すっきりしたわけでもなければ、何かを得た気持ちになったわけでもなかった。ただそこには、10年の歳月が過ぎたという事実だけがあった。
話をしてくれた人たちは、「いま」を生きていた。そして、震災から10年が過ぎた町の姿がそこにあった。私たちメディアは「復興」と言う言葉を使うが、人により、土地により、その意味は変わってくる。100人、100の場所があれば、その分だけ復興の形がある。そんな当たり前のようなことを確認した10年越しの取材だった。
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