連載
#26 #カミサマに満ちたセカイ
「自己啓発本」の正しい効用 不安な人を惑わす「大きな物語」の罠
心を包み込む「気持ちよさ」の功と罪
自己啓発本は、なぜ売れるのか。〝中の人〟である編集者の一人は、不安定な時代に「大きな物語」を提供してくれる存在だと明かします。「信者ビジネス」とも言われ、批判も受けやすい自己啓発の世界。果たして〝正しい効用〟はあるのでしょうか? 自己啓発本の功罪から、適度な距離の取り方について考えます。(withnews編集部・神戸郁人)
今年5月、自己啓発本の類書の制作に携わってきた書籍編集者・鈴木康成さんに、主に平成期に流行した自己啓発本の変遷と、そのエッセンスについて語ってもらう記事を書きました。
「自己啓発本は、人間の脂っこい欲望を喚起する」「努力が報われない時代に、読者は言葉で『ドーピング』する必要があった」。文中では印象的なフレーズとともに、日本経済の衰退と過度な競争主義、そして出版不況により、ムーブメントが加速した経緯があぶり出されていきます。
熱量の高い語り口も相まって、記事情報はツイッター上で1000人以上に拡散されました。感想を追うと、「手に取る際の注意点がまとまっている」「興味深い自己啓発本の社会史」などの肯定的なコメントが目に入ります。その中には出版関係者の声も少なくありません。
記事に大きな反響があった理由に、鈴木さんが書籍編集者という肩書を持つ〝中の人〟だったことがあります。そして、もう一つ、見逃せないのは、批判的に語られがちな自己啓発本の「効用」についても説得力をもって述べられていた点です。
自己啓発本をめぐっては「読後感は心地良いが、身にならない」といった批判や論評が、既に数多くなされてきました。鈴木さんは、こうした意見を認めつつも、実体験を基に功罪両面があると指摘します。
例えば、自身が2010年代に手がけた、自己啓発本の一つ「筋トレ」指南本のエピソード。有名スポーツ選手を表紙に起用し、ビジネスマンを中心に売れたと話します。さらに、ヒットの背景に「努力すれば出世し、給料が増え、異性と付き合いやすくなる」という「昭和的」な神話の崩壊があると説きます。
かねてから自己啓発本が煽(あお)ってきた価値観が、やがて不況などの要因で実現しづらくなった。まじめな働き手たちは、競争からはじき出された後、肉体を鍛えることに伴う達成感に意味を見いだすーー。このような流れを経て、筋トレ本が一種の受け皿になったと、鈴木さんは言います。
人生を下支えする「大きな物語」、今回の例で言えば「努力は報われる」という定型句への信頼が失われたとき、何に寄って立てば良いのか。不安定化した心を、文字通り「啓発」し、もり立てるものが自己啓発本的思考である。鈴木さんの分析は、そう教えてくれるようです。
業界の内側から世間のトレンドを追い、人々の「満たされなさ」を癒やすコンテンツを届ける。一つ一つの言葉が、そうした具体的な経験に裏打ちされているからこそ、従来の批判に抜け落ちていた「効用」という視点を、読者に示すことができたのではないでしょうか。
一方で、「罪」の側面にまつわる見解も、興味深いものでした。
出版社が主催し、本の購入者だけが参加できる著者講演会。著者をカリスマとして崇拝し、その考え方を一途に信じる人々で構成される、サロン的コミュニティ。そうした文化の苗床を、自己啓発本が部分的に形作ったというのです。
背景にあるものについて、鈴木さんは読者が抱える「自己実現による称賛欲」「承認欲」を挙げました。他人より優れた存在になりたい。ありのままの自分を受け入れてほしい。二つの願望を増幅し、似た考えを持つ人同士を、自己啓発本が媒介したというわけです。
ファンを囲い込むことで収益につなげる構造を、鈴木さんは「信者ビジネス」と呼び疑問視しています。こうした特徴は、著名人などがウェブ上を軸に展開する、「オンラインサロン」に引き継がれていると考えられそうです。
組織によっては、ビジネスプランを練るといった課題が、講師から出される場合もあると聞きます。アイデアを憧れの存在から評価されることで、メンバーは居場所や生きがいを得たという感覚が持てる、との側面もあるのかもしれません。
主催者から利用者への金銭的搾取が指摘されるなど、オンラインサロンを始めとした自己啓発的な営みには、否定的な見方も根強くあります。にもかかわらず存続してきたのは、少なくない人々が「寄る辺なさ」と向き合いあぐねているから、とは考えられないでしょうか。
私たちが住まう社会は複雑です。誠実に働き、家庭を守り、友人を大切にしたとしても、思わぬ「変数」によって、日常が損なわれてしまう場合があります。新型コロナウイルスの影響で、暮らしが一変した今、そのことを強く実感したという人も少なくないでしょう。
自己啓発本は、そうした不安定さを内的に克服するためとして、読み手に「物語」を提供します。「自分は変えられる」といった物言いが典型かもしれません。
膨大なコストをかけ、複雑な社会に働きかけるよりも、個人の資質を高めた方が早い。似た考え方の傾向は、「筋トレ本」や、オンラインサロンにも見て取れるものです。極めてシンプルな世界観によって、現実を操作可能なものと捉え直すこと、とも言い換えられると思います。
自らを救い、奮い立たせるものとして生かされる限り、こうした主張には意義があります。ただし一度(ひとたび)、他人に差し向けられれば、自己責任論にもつながりかねないことも事実です。ともすれば、一人ひとりの生きづらさを深めてしまう恐れさえあるかもしれません。
自己啓発本、そして、それに類する営みから適切な距離を取るには、どうすれば良いのか。この点について考えるとき、私は大学時代の出来事を思い起こします。
就職活動を始めて間もない頃、私はとあるセミナーに出席しました。何日かにわたり、成し遂げたい夢について参加者同士で話し合い、最終日に全員の前で結論をプレゼンする……という内容です。
期間中は「他の参加者の言葉を否定しないように」と求められました。人間関係に悩み、将来の展望も描けなかった当時の私にとって、とても居心地が良かったことを覚えています。主催者による講義も行われ、「変えられるのは過去ではなく未来だけ」「夢は自分の意欲次第でかなう」といったメッセージが伝えられました。
強く影響を受けた私は、「ネガティブ思考は悪」など、極端な思想を強めていきます。そうした考え方を近しい人々に押しつけ、口論に発展する場面もありました。そんな中、友人から振る舞いの奇異さを指摘され、それまでの言動を顧みるようになったのです。
あの頃を振り返ると、私の心は「誰にも理解されない」「居場所がない」という思いでいっぱいでした。あらゆる意見が肯定され、価値観が近い仲間と出会えるセミナー空間こそが、自分らしくあれる環境なのだ――。そう錯覚してしまっていたように感じます。
記者として働き始めて以降、セミナー関係者と連絡を取る機会はなくなり、今ではつながりもありません。公私とも、年齢や所属、ルーツが違う人々と交わる回数が増える。人生経験を積み、社会の中で一定の役割を得る。そのようなプロセスを経て、現実と折り合えるようになっていったからだと総括しています。
耳に痛いときがあっても、自分とは異なる意見を聴くこと。社会の複雑さを、複雑なままに受け止めようと努めること。月並みではあっても、結局そうした地道な生き方こそが、自己啓発的なものと上手に付き合うための条件なのかもしれません。
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