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「志村さんは死んでいない」渡辺徹が語った「近くて尊いスター」

志村けんさんについて語る渡辺徹さん。最初に会った時は「大好きな人に会えた!っていう思いのほうが強かった」という=スギゾー撮影
志村けんさんについて語る渡辺徹さん。最初に会った時は「大好きな人に会えた!っていう思いのほうが強かった」という=スギゾー撮影

目次

志村けんさんが亡くなって約7カ月。渡辺徹さん(59)は、俳優およびバラエティータレントとして活躍する中で志村さんと出会った。『加トちゃんけんちゃんごきげんテレビ』『志村けんのだいじょうぶだぁ』に出演し、その後、『志村X』シリーズではトークコーナーのホスト役を担当するなど絶大な信頼を得ていた。役者・志村けんにつながる舞台誕生にまつわる秘話。コントへのこだわりや、スタッフとの闘い。渡辺さんにとって「近くて尊い」存在だったという志村さんの魅力について語ってもらった。(ライター・鈴木旭)

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渡辺徹(わたなべ・とおる)
1961年5月12日生まれ。茨城県古河市出身。劇団文学座所属。1981年、日本テレビ「太陽にほえろ!」でレギュラーに抜擢(ばってき)され、ラガー刑事役で人気を博す。翌年にゴールデンアロー賞放送新人賞、1984年にエランドール新人賞、2000年に菊田一夫演劇賞を受賞。ドラマ、バラエティー番組の司会などマルチな才能を発揮し、現在は舞台を中心にナレーションや声優など幅広く活躍。2015年からはお笑いライブ『徹☆座』をプロデュース。これまでの俳優人生や病気克服等の経験をいかした講演活動も精力的に行っている。
 

「いい加減にはできないぞ」という緊張感

――最初に志村さんとお会いになったのはいつ頃ですか?

いつ頃なんだろう……『加トちゃんけんちゃんごきげんテレビ』かなぁ。志村さんと加藤さん、僕の3人で「肉を食べるのに焼かずに生で食べてた」ってオチのコントだったと思います。『志村けんのだいじょうぶだぁ』も出てるけど、そっちが最初じゃないですかね。


――志村さんの著書『変なおじさん』の中に、『太地(喜和子)さんから「(渡辺徹さんは※筆者注)芝居をやらすとうまいわよ」と聞いてたこともあって『だいじょうぶだあ』に出てもらったりしてた』とあったので、てっきりこちらかと思っていました。

じゃそっちが最初なのかな(笑)。いずれにしろ、志村さんのほうから声を掛けていただいたんだけど、番組に呼ばれたきっかけも今知ったぐらいで。共演する前に会ったりはしてないと思うから、いきなりコント収録で顔を合わせた感じですね。


――志村さんとの初共演は緊張しませんでしたか?

そりゃ最初はね。ただ僕の場合、デビューが刑事ドラマの『太陽にほえろ!』で、一番最初に会った芸能人が石原裕次郎さんなんです。だから、初めてやるのは興奮や緊張が当たり前っていう感覚もあって。そういう意味では、志村さんにお会いした時も、ボス(石原裕次郎さん)と同じような気持ちがありましたよね。

厳密に言うと、志村さんには「大好きな人に会えた!」っていう思いのほうが強かった。ボスは上の世代のスターだったけど、志村さんは子どもの頃から見ている同時代の人気者。そんな大好きな人と同じ空気を吸えるっていう喜びですよ。

最初に共演した頃から、志村さんがとても気を遣ってくれてやりやすい雰囲気をつくってくださった。とにかく自由にやらせてもらったのを覚えてます。とはいえ、共演していくうちに「志村さんって命を懸けてコントやってるんだ」っていうのがわかってくる。それで、こちら側も「いい加減にはできないぞ」っていう緊張感が自然と湧き上がっていきましたね。

「最初に共演した頃から、志村さんがとても気を遣ってくれてやりやすい雰囲気をつくってくださった」=スギゾー撮影
「最初に共演した頃から、志村さんがとても気を遣ってくれてやりやすい雰囲気をつくってくださった」=スギゾー撮影

『志村魂』スタートは渡辺との会話がきっかけ

――『だいじょうぶだぁ』では、渡辺さんが自分の体でダシをとる「とんこつラーメン店の店主」のコントが衝撃的でした。このコントは、事前に志村さんが準備していたものだったんですか?

そのへんも記憶が定かではないんですけど、コント設定については基本的には志村さんが準備していて、僕のアイデアも何度か取り入れてくださいましたね。だいたい飲みの席なんですけど、「こういうの面白くないですか?」とかって話すと、後に本当にコントでやってくれたってことがありました。


――やはり飲みの席でコントが生まれることもあったんですね。

収録が終わると、志村さんは必ず飲みに誘ってくださるんです。そこで芸についての話を聞かせてもらったり、志村さんのほうから劇団のお芝居についてよく聞かれたので「こんな稽古して、こんな感じでやってます」っていうようなことを話したりもしましたね。

その中で、ずっと「客前でやりたいんだ」っていうことはおっしゃってました。コントってスタジオでやることが多いんですけど、「やっぱりオレ、客前の出だから。お客さんが目の前にいて、スベッたウケたっていうのがやりたいんだよね」っていうようなことをね。

ある日の飲みの席で、僕が「だったら志村さん、客前でお芝居なさったらどうですか?」って伝えたんですよ。「藤山寛美さんの作品を志村さんがやったら面白いだろうな」とか「人情噺っていうのは志村さんに合うと思うな」みたいなことを口にしたら、志村さんも「オレも好きなんだよね」とおっしゃっていて。

その流れで本当に(舞台の)『志村魂』を始めることになったんですよ。僕、実は初回にお誘いを受けたんですけど、劇団の芝居が入っちゃって共演の夢はかなわなかったんですけどね。2006年に『志村魂』がスタートする少し前の話です。だから、僕とのやり取りが舞台を始めるきっかけにはなってると思いますよ。
 

「コント設定については基本的には志村さんが準備していて、僕のアイデアも何度か取り入れてくださいましたね。だいたい飲みの席なんですけど」=スギゾー撮影
「コント設定については基本的には志村さんが準備していて、僕のアイデアも何度か取り入れてくださいましたね。だいたい飲みの席なんですけど」=スギゾー撮影

スタッフの粋な計らいに「やりやがったな」

――渡辺さんが『志村魂』のスタートを後押ししていたんですね! 志村さんと共演されていて、具体的にはどんなところがすごいと感じましたか?

志村さんって観察力がすごいし、演技力がすごい。だから、うち(文学座)の太地喜和子さんにしろ、森光子さんにしろ、高倉健さんにしろ、いろんな名優たちも志村さんとやりたがったわけですよね。僕自身もすごいなと思ったところはたくさんありますよ。

志村さんって、ひとみ婆さんみたいなキャラクターにしろ、「だいじょうぶだぁ」のフレーズにしろ、全部モデルがいますから。「だいじょうぶだぁ」は福島県にあるお義姉さんの実家に遊びに行った時にお義父さんが繰り返してた言葉だったりするし。デフォルメしてるキャラクターの“元”をすごく大事にする人なんです。

実は志村さんの会議にちょっと参加させてもらったことがあるんですけど、とにかく考えてる時間が長いんですよ。「お尻を出して走り回る」っていう着地点は見えてるんだけど、「なにゆえに裸にならなきゃいけなかったのか」っていうのを見つけるまでに時間が掛かる。つまり、起承転結の“起”の部分がしっかりしていないと志村さんは納得できない。お芝居なんですよ、コントのつくり方が。


――そこは本当に徹底されていたようですね。周りにいる関係者の方にも影響があったんじゃないですか?

『だいじょうぶだぁ』だったかな。志村さんが「コントのセットが気にくわない」と言って収録が中止になっちゃったこともあって。それで番組の音響さんやら照明さんやらを含めた志村組が余計に奮闘するわけですよ。スタッフさんのほうも「志村けんに文句言わすか」っていう緊張感で仕事をしてるんですよね。

ある時、江戸時代に暮らしている田舎の農家って設定のコントがあって。スタッフさんから「じゃお願いします」って声が掛かって入っていった時に、かまどを見た志村さんがニヤッと笑って小声で「やりやがったな」って言ったんですよ。ちゃんと見ると、かまどの四隅に塩が盛られてる。美術さんが志村さんを驚かせたいっていう一心だったんですよね。

そのへんのこだわりを飲みの席で志村さんに聞いたら、「いい加減な中でバカなことやったらなにも残らない。本物の中でバカなことをやるから面白いんだ」と話してましたね。要するに、きっかけとかセットとかっていう骨組みが適当になっちゃうと、ここでバカやってることが立たないっていう考えなんです。志村さん特有のリアリズムなんでしょうね。それは、お芝居にも通じる話で。だから、僕に「どうやって芝居つくってるの?」っていうようなことをよく聞いてきたんだと思います。

テレビ番組の録画撮りのためのスタジオで、スタッフを呼び、気にかかっている小道具をもってこさせ、チェックする志村けんさん=1988年5月
テレビ番組の録画撮りのためのスタジオで、スタッフを呼び、気にかかっている小道具をもってこさせ、チェックする志村けんさん=1988年5月 出典: 朝日新聞

志村さんはボケとツッコミが両方できる

――渡辺さんは1996年4月から始まった『けんちゃんのオーマイゴッド』にレギュラー出演されています。吉村明宏さんやホンジャマカ・石塚英彦さんといった新メンバーを加えて、ホーム・コメディー調のコントになりましたが、志村さんの中で新しいことに挑戦したいという思いがあったのでしょうか?

『だいじょうぶだぁ』とかだと、マーシー(田代まさしさん)や桑マン(桑野信義さん)にはあんまりボケさせない。前振りができる人を置いて自分が落とすっていう形なんですよ。それが『オーマイゴッド』でいろんなキャラクターを入れたってことは、そっちをボケにして志村さんがイジるっていうような笑いの転換はあった時期なのかなって思いますね。

志村さんってコント師なんですけど、漫才師で言うならボケとツッコミの両方できる方じゃないですか。ボケはもちろんだけど、加藤(茶)さんにしろ、柄本明さんにしろ、ボケの相手にツッコミを入れるのもすごかった。だから、『オーマイゴッド』ではボケじゃなくて、ツッコミというか“イジり”の面白さを追求したかったのかなって気はしますよね。ゲスト出演したアッコ(和田アキ子)さんなら体が大きいだとか、僕なら大食いだとかっていう部分にスポットを当てるっていう。

挑戦っていうより、単純にやりたかったんでしょうね。あれだけ芸達者でいっぱいボケてきたから、イジりをやりたくなるって気持ちはわかりますよ。「変なおじさん」とかいっぱいボケのキャラクターはつくってきたわけで、そこからツッコミ、イジりのほうをやりたくなったんだろうっていうね。

そういうふうに志村さんも台本をつくってきてましたよ。相手がボケられるようにとか、自分がボケる用につくっていたものを誰かにボケさせるとかっていう移行期だったのかもしれないですね。


――コントへのこだわりを持つ半面、1997年の後半くらいから志村さんは自分の番組以外のバラエティーに顔を出し始めます。この心境の変化についてはなにかお話していましたか?

長く1つのことやった人って周りから職人って言われるじゃないですか。でもやってる本人は、「自分は職人気質だ」なんて思って生きてないと思うんですよ。

志村さんは興味のほうに向かって生きてたってだけじゃないかな。持論とか芸術論とかっていうのはあるけど、新しい人とコントをやるとか自分が人の土俵に上がっていくってこととかも含めて、常に自分の刺激に対するアンテナが高かったんじゃないですかね。

「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」を収録中の志村けんさん=1988年5月
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」を収録中の志村けんさん=1988年5月
出典: 朝日新聞

「芸としてやろうとしている人」が好きだった

――あくまでも結果的なものだったと。『志村X』でトークコーナーを設けたのも、ちょっと意外だった記憶があります。

無類の照れ屋ですからね。『志村X』をスタートするにあたっても、「トークコーナーやりたいけど、1人じゃできないから徹ちゃん付き合ってくれ」って誘いを受けたんです。しかも酒飲みながらじゃないとできないと。ちょっと話が変わっちゃうけど、これが大変だったんですよ。1日で2本撮りなんだけど、1本目からマジ飲みするの。だから、2本目のゲストがくる頃には2人してベロベロに酔っぱらってる状態だった(笑)。

あとお互い将棋にハマって、ライバルみたいな関係になったんですよ。僕が優勢になったりすると、志村さんが「おいおいおいおい」なんて言ってきたりしてね。だいたい本番前に指すんですけど、将棋って時間通りに終わらないじゃないですか。「もう始まりますよ」ってスタッフさんが呼びにくるんだけど、「ちょっと待ってくれ!」って言って2人ともずっと将棋盤をにらんでる。番組のゲストを待たせてなにやってんだって話ですけどね。

吉田拓郎さんがゲストの時なんか、本番中に将棋やりましたから。トーク中に拓郎さんも将棋好きだとわかって、「じゃ今から指そう」って本当にやり始めちゃった。そんなトーク番組ないっちゅうねん(笑)。トークコーナーの2本目はベロベロになってのびちゃうでしょ。「OKでーす!」って本番が終わっても、まだそこで飲んでる。「もうそろそろ」って言ってスタジオを出て、それから店でまた飲むんですから。


――やりたい放題ですね(笑)。飲み代もすごい金額だったんじゃないですか?

志村さんに1回注意したことがあるんですよ。「いつも飲みに行く時にスタッフまで連れていくけど、年間いくらかかってるかちゃんと計算しましょうよ」って言ったら、「わっすげぇかかってるなぁ」って驚いた顔してね。「もうちょっとそこ考えないと」って念を押すと、「でもねぇ。仕事場で興奮しちゃったのをどっかで落ち着かせないと家帰れないんだよ。帰って話す人いないんだもん」ってこぼしてね。

ワァーって汗かいてコントやって、家帰ったら一人ぼっち。そのために犬がいたりもしたんでしょうけど、そういう人恋しい思いみたいなのはしょっちゅう口にしてました。だから、仕事場に家族を求めたんじゃないですか。志村さんの仕事場のファミリー感って本気だったんですよ。スタッフさんにすごく怒ることもあったけど、同じくらい一緒になって笑う。あれは表面上じゃない本当の関係でしたね。


――渡辺さんも『志村X』でトークを頼まれるっていうのは、志村さんから相当信頼されていたってことだと思うんですよ。ご自身では、信頼された理由ってどのあたりにあると思いますか?

さっきと矛盾するわけじゃないけど、志村さんってエキスパートは好きでしたね。たとえば僕自身がいまだに劇団にいるってことをすごく評価してくださった。

「芸能界でこれだけいろんなことをやっていて、俳優をやめたっていいはずなのに徹ちゃんはこだわりがあってやってる。そういう人間が好きだ」って言葉をいただいたことがあります。ということは、志村さん自身もそういう考え方だったんでしょうね。

番組のゲストを考えても、単に面白い人っていうんじゃなくて、なにかをやっている人を呼んでますよね。俳優だとか歌手だとか。タカアンドトシが「僕ら“欧米か”ぐらいしか(代表的なネタが)ないんです」って口にしたら、志村さんに「バカ野郎、それをやり続けたら立派なもんだ」と返されたってよく言ってますけど、それって言い得て妙だなと。志村さんはコントを芸としてやってたんでしょうね。だから、「芸としてやろうとしている人」が好きで、一緒になにかやりたくなったんだろうと思いますよ。

「志村さんってエキスパートは好きでしたね。たとえば僕自身がいまだに劇団にいるってことをすごく評価してくださった」=スギゾー撮影
「志村さんってエキスパートは好きでしたね。たとえば僕自身がいまだに劇団にいるってことをすごく評価してくださった」=スギゾー撮影

芸を極めてく人って素人のすごさがよくわかってる

――山田邦子さんと司会をされていた『邦子と徹のあんたが主役』は、『加トちゃんケンちゃん~』の「おもしろビデオコーナー」から発展したような番組ですよね。この番組も志村さんとのつながりを感じますね。

ご縁がありますよね。志村さんっていろんな素人さんをモデルにしてキャラクターをつくってたじゃないですか。芸を極めてく人って素人のすごさがよくわかってるんですよね。うそがないから、芸にプラスに働くんだと思う。

そこを見つめていくと、ああいう素人投稿のビデオは興味持つだろうなって。動物や子ども、お年寄りの面白さを撮ったホームビデオって志村さんの芸と合致してるなと思いますよ。だって昔から一般の人をあんなに観察してる人なんだもの。そのラインに乗ってる話なんでしょうね。


――おっしゃる通りだと思います。志村さんってコントのオチよりも、キャラクターを重視していた感じもありますよね。

志村さんが亡くなってから特番が多かったじゃないですか。そこで『ドリフ大爆笑』のコントとかたくさん流してましたけど、やっぱり今見ても面白いんですよね。別の日に衛星放送とかで昔のドリフのコントも見たんですけど、基本的には同じことやってる。でも、だからこそすごいんです。

古典落語にしろ、シェークスピアにしろ、もうやり尽くされてるじゃないですか。にもかかわらず、洋の東西を問わず、いまだに100年以上前の演目が上演されている。なぜかって理由を考えると、お客さんはストーリーを観にきてるわけじゃないってことなんですよ。

コントもそうで、展開とオチだけを観にきてるんじゃない。そこで起きている出来事、人間の右往左往が人は観たい。その右往左往は、いつでも現実で今目の前で起きてることなんです。つまり、あの志村けんが目の前で汗かいてコントをやってるっていう臨場感ですよね。だから、同じことやってても笑っちゃうんだと思うな。


――志村さんは早くからそこに自覚的だったと思いますか?

わかってたでしょうね。だって、最後に「たらい落そう」とか「水いっぱい出そう」とかってオチは、一番本人が「またこれか」って思うはずじゃないですか。だけど、志村さんは自信持ってやってましたよ。スタッフさんも、何度もやってきたことを「はい」ってやる。僕だって一瞬思いましたよ、「もうオチのパターンがないのかな?」って。でも、やったら面白いし楽しいし、「ムリして変える必要がない」ってことなんですよね。

古典落語もそうじゃないですか。同じ噺でも落語家が変われば、別の噺に聞こえてくる。志村さんの場合は、「だから、相手役を変える」ってことが重要だったんじゃないですか。オチは一緒でいいから、共演者を変えるっていうことが。

「やっぱり今見ても面白いんですよね。別の日に衛星放送とかで昔のドリフのコントも見たんですけど、基本的には同じことやってる。でも、だからこそすごいんです」=スギゾー撮影
「やっぱり今見ても面白いんですよね。別の日に衛星放送とかで昔のドリフのコントも見たんですけど、基本的には同じことやってる。でも、だからこそすごいんです」=スギゾー撮影

近くて尊い。それでいて温かい唯一のスター

――最後に志村さんとお会いになったのはいつごろになりますか?

最後はいつかな……電話ではいろいろ話してましたけど。うろ覚えですけど、2~3年前に深夜でやっていたコント番組が衣替えして出たのが最後だと思います。「たまには出てよ」と誘われて、第1回のゲストが僕だったんです。しかも、その収録日は志村さんのお亡くなりになった日で。なにかのご縁というか、複雑な気持ちになりましたね。


――本当に最後までご縁があったんですね。残念ながら亡くなってしまった志村さんに伝えたい思いなどあれば聞かせてください。

朝ドラの『エール』もいい意味で、コントと違ってなにもしない志村さんが本当に素敵でした。やり過ぎず、やらなさ過ぎず、余計なことをしないっていう加減がね。余計なことをしないっていうのは、余計なことをいっぱいやってきた人じゃないとできないと思うんですよ。志村さんのお芝居だけじゃなく、話の展開を含めてこれからだと思ったから、本当に残念でしたけどね。

この歳になると、自分の親だったり親友だったり、人の死っていうのに出くわす機会が多くなってくるんです。そんな中、訃報を聞いた途端に涙が止まらなかったのは志村さんだけでした。志村さんが親戚のように扱うから、まるで自分が親戚みたいになっちゃったんですかね。

だけど、世の中の人はみんな死ぬわけでね。それは決まっているわけで。今、新宿や渋谷の街中を歩いてる人がいますけど、100年後は誰も生きてないですよ。ただ、消滅しても“無”にはならない人がいて。みんなの心に残ってる人は無にはならないので、志村さんは死んでいないって僕は思ってます。

今までいろんな人と共演させていただいて、それぞれに素敵な人がいたけど、志村さんは圧倒的に“近い”んですよね。近くて尊い。それでいて温かい。お笑いだからとかじゃなくて、ああいうスターっていないんですよ。はにかみ屋でとっつきにくそうな雰囲気に見える時もあるんだけど、温かいんだろうなぁ。

やっぱり偉大な人っていうのは、自分にとってのその人を想起させるんですよ。それは著名なスターとかでもあるんだけど、志村さんの場合はそれよりもっと深いところに染み入ってくる。ここまで近いって感じるスターは、志村さんが唯一なんじゃないかな。だから、日本中のみなさんが悲しんだんだろうと思いますよ。

また去り方がね、なんの心の準備もなく「ちょっと待ってくれよ」って。心と一致させるのに時間を掛けさせるじゃないですか。それも志村さんの不器用さっていうか。つい触れたくなっちゃう。最期までそうだったのかってね。

「今までいろんな人と共演させていただいて、それぞれに素敵な人がいたけど、志村さんは圧倒的に“近い”んですよね。近くて尊い。それでいて温かい」=スギゾー撮影
「今までいろんな人と共演させていただいて、それぞれに素敵な人がいたけど、志村さんは圧倒的に“近い”んですよね。近くて尊い。それでいて温かい」=スギゾー撮影

取材を終えて

渡辺さんは、志村さんのターニングポイントで現れたこれ以上ない理解者だった。番組のトークコーナーでは新たな出会いをサポートし、コントや芝居では晩年まで続いた舞台『志村魂』のスタートを後押ししている。信頼されて当然の存在と言えるだろう。

とくにトークバラエティーが主流となっていった1990年代中盤は、舞台俳優である渡辺さんの言葉がとても心強かったのではないだろうか。ドリフターズで培ってきたやり方を客観視できただろうし、今後自分がどこへ向かうべきか再認識することもできたはずだ。その先に「役者・志村けん」が誕生したのは、ある種必然だったのかもしれない。

お笑いが好きで、ゴルフに行ったり将棋を指したりと、2人は趣味嗜好が似ているところもあった。志村さんが渡辺さんに心を許していただろうことは容易に想像できる。それだけに、志村さんの死に対する悲しみもひとしおだったことだろう。

格好悪さ、だらしなさ、切なさ、弱さ、いかがわしさ。志村さんのコントには常に哀愁が漂っている。それが志村さんの信じていたリアリズムであり、気の置けないスタッフや友人に見せていた自身の姿だったという気がする。志村さんの存在が「近くて尊い」のは、その虚実皮膜を実際に生きたからではないだろうか。

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