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「観客の大半が70代以上…」演歌歌手の危機感、英語を学びフェスにも
このままでは、演歌がなくなる――演歌歌手の神野美伽さん(55)は、客席の大半が70代以上である事実に危機感を覚え、ジャンルを超えた活動の幅を広げてきました。国内外のロックフェスに参加し、米NYのジャズクラブで歌い、YouTubeで発信……。「自由でかっこよくて気持ちいい演歌が、なぜ若い世代に伝えられないのだろう」。英語を習い中国語も勉強しているというベテラン演歌歌手の挑戦を聞きました。(朝日新聞・坂本真子)
神野美伽さんは大阪府貝塚市出身。1984年、18歳で演歌歌手としてデビューしました。「男船」や「浪花そだち」がヒットして座長公演も任され、演歌の王道を歩みます。
10年ほど前、コンサートで、観客の大半が70代以上であることに不安を覚えたのが、全ての始まりでした。
「私が歌う演歌は自由でかっこよくて気持ちいいものなのに、なぜ若い世代に伝えられないのだろう」と思い悩んだ神野さんは、2014年、海外に可能性を求めてNYへ向かいます。
ライブハウスやジャズクラブにCDやDVDを渡して交渉。ことごとく断られる中、オーナーの前座で15分間、という条件で1軒だけOKが出ました。アカペラ(無伴奏)で「リンゴ追分」など数曲を夢中で歌ったそうです。
NY在住のジャズピアニスト、大江千里さんとSNSを通じて知り合い、千里さんに渡したライブ音源がジャズボーカルの巨匠、マンハッタン・トランスファーのジャニス・シーゲルさんの手に渡ります。そして、ジャニスさんの自宅に招かれました。
「ジャニスに『美伽、歌って』と言われて、私が『リンゴ追分』を歌うと、『そのヨーデルはどこで学んだの?』。『これは日本の演歌のこぶし』と説明して、一緒に歌ったんです。2人の声が重なって、なんてきれいなんだろうと」
その後もNYには何度も足を運び、ライブ活動を続けています。ジャニスさんとは、2018年に出したアルバム「夢のカタチ」でも共演しました。
一方、日本国内では2015年から、ピアニストの小原孝さんと組んで、ジャズ系のライブハウスで歌い始めます。
2016年には、ロックフェスの「オハラ☆ブレイク」や「アラバキロックフェス」のプロデューサーから「フェスで歌ってみない? 演歌をガンガンやって」と依頼されました。ロックバンドTHE COLLECTORSのギター、古市コータローさんを紹介され、初対面で意気投合。The Birthdayのドラムス、クハラカズユキさんと3人で、ロックフェスなどに出演してきました。
「歌うのは演歌。『リンゴ追分』や『座頭市子守唄』を、選曲も編曲もコータローさんにお任せしています。ジャンルは違うけど、同世代で、演歌や歌謡曲にもとても詳しいので、この曲をやりたい、とメールでやりとりして、3人で、リハーサルで作っていきます。鍛えられますよ」
2018年春には、米国で最大級の音楽や映画のフェス「SXSW」(サウス・バイ・サウスウェスト)に参加。インストポップの山崎千裕+ROUTE14bandと共演しました。
「若い人たちに一生懸命ついていって刺激をもらっていますし、彼らも演歌に興味をもって楽しんでくれている。これが私のめざしているところだと思います」
ロックフェスやジャズ系のライブハウスで歌いつつ、演歌の新曲を毎年発売し、コンサートや音楽番組に出演してきた神野さんですが、今年2月末、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、全ての音楽活動ができなくなりました。
「例年より多くのコンサートを予定して、秋にはNYに行くつもりで話を進めていたのね。今年は楽しいなぁ、と思っていたら、とんでもないことになって、最初の1カ月はオロオロしていました。中止という連絡ばかりで、自分のスケジュールを確認して、愕然(がくぜん)として」
テレビの収録も中止に。歌う場所がない、という初めての状況に戸惑い、気持ちは沈むばかりでした。さらに、この春、大きな手術を受けたのです。
元日の朝、首が痛くて「寝違えたのかな」と感じて以来、徐々に頭痛と首の痛みが増し、ブロック注射をしても効かない状態に。「絶対に首が折れてる」と、すがるような思いで受診した3軒目の病院で、ようやく頸椎化膿性脊椎炎(けいついかのうせいせきついえん)という病名がわかりました。
「細菌が体に入って、7個の頸椎のうち2個が化膿(かのう)したのね。とにかく待てないと言われて、すぐ手術。あと1週間遅かったら、呼吸器がまひするところまで腐っていたんです。骨が弱いから、何かが起きていることはわかっていたけど、そんな病気があることは知らないし、我慢していたんです。生きていたら何が起こるかわからない。今年はそのことを痛感しています」
膿(うみ)を取り除いて、腰の骨の一部を患部に入れ、チタンのプレートで固定してボルトで止める、という大手術に。その後も頑丈なコルセットで首を固定して過ごしました。
「退院しても1カ月は、あごから背中の途中ぐらいまで全然動かない。ロボコップみたいで、そのコルセットをやっと外せても、すぐに動かない。もともとそんなに太くない首筋が、スープを取った鶏ガラみたいになって、そこからまたリハビリ。もだえているような日々でした」
神野さんが大きな手術を受けるのは、これが6度目。一昨年の暮れには、足の甲の骨が空洞化するリスフラン関節症などで両足を手術しました。
今春、大手術とコロナ禍で心も体もきつい状態が続いていたときに、音楽仲間たちから、さまざまな呼びかけがありました。4月下旬には、アコーディオン奏者の桑山哲也さんの演奏に合わせて、「オー・シャンゼリゼ」を歌い、配信。「朝も昼も夜も春も夏も秋も冬もいつも……」という、自分で付けた詞で歌いました。
「すごく元気な自分が、お天気がいい春先に緑いっぱいの表参道辺りを闊歩(かっぽ)しているイメージの歌詞なんです。でも今、自分がすごく沈んでいるのがわかるし、まだ首にコルセットを付けていて、声はベストじゃない。それでも歌ってみたら、自分で自分の歌を聴いて、初めて慰められて、癒やされて、感動したんです」
「歌は一番好きなことではあるけれど、一番厳しい仕事でもある」と語る神野さんにとって、37年目にして初めての経験だったそうです。
「自分の歌に、自分が一番喜んで、自分が一番励まされて、自分が一番慰められて、歌と自分の心がつながった気がする。ああ、こんな思いをしないと気づかないのか、と」
ピアニストの小原孝さんとの共演も配信。桑山さんの妻で俳優の藤田朋子さんに誘われて、オンラインドラマにも出演しました。古市コータローさんとは歌を共作し、コーラスグループBaby Booとの共演も配信しました。
そして8月には、ジャニス・シーゲルさんがライブハウス支援のためにさまざまなミュージシャンに呼びかけて配信していた「Vocal Gumbo」に出演し、ジャニスさん、ニューヨーク・ヴォイセスのローレン・キーナンさん、ボイスパーカッション奏者の北村嘉一郎さんと共に「リンゴ追分」を歌いました。
「ジャニスとローレンは仲良しで、その2人が始めたのがVocal Gumbo。まさか自分がそこに参加するなんて夢にも思いませんでした。ジャニスが音楽として私を認めてくれている、と実感したのは今回が初めて。ローレンと嘉一郎くんも仲良しだし、私と嘉一郎くんもずっと一緒にライブをやっているから、『やるなら日本の歌をやろう』とジャニスが言ってくれて、『リンゴ追分』をやったんです。面白かったですよ」
9月には、ロックフェス「オハラ☆ブレイク」のライブ配信にも参加。古市コータローさん、クハラカズユキさんと3人で、久しぶりに演奏する姿からは、画面越しに見ていても、歌う喜びが伝わってきました
久しぶりのコンサートを10月31日、大阪の新歌舞伎座で行います。神野さんやスタッフ全員がPCR検査を受けて大阪に入り、感染対策を徹底した上での開催です。11月4日には東京のライブハウス、コットンクラブで歌います。いずれも、観客は収容人数の半分です。
「お客さんの数は半分。それでもやりましょう、と。私たち、演歌のジャンルでも、これからは、コンサートをできる人とできなくなる人が分かれるかもしれない。それぐらい今は厳しいと思うんです。コロナがなくても、先細りしているジャンルであることは、誰もが感じていたし、だから私はなんとかして、自分が歌っていくためにアメリカに行き、ロックフェスに出て、いろんなことが今につながっていると思うんです」
以前から、YouTubeにアップした歌に、外国語のコメントが多いことが気になっていたという神野さん。配信で世界各地とつながれることを実感した今、改めて海外へ目を向けています。
「私の動画で、普通の演歌なのに、なぜか1千万回以上再生されているものがあるんですよ。コメントはほとんど中国語、英語、韓国語……。見たこともないような文字もあって、自分の歌を聴いてくれる人たちにもっと近づける方法はないか、自分の言葉で発信できないか、と。NYに行かなくても英語で発信できるように、今、明らかに時代が変わったことを、演歌を歌っている私ですら感じています」
「演歌というジャンルが自分のアイデンティティーだと、やればやるほど思うし、ジャニスが私をリスペクトしてくれるのは、彼らにはない音楽性、声、感性を持っているからなんですよね。演歌と一言で言うと違うかもしれないけど、私が歌ってきた歌は、これからも歌っていく場所があるんじゃないかな、と。最終的な目的は生のライブなので、NYや香港、台湾、他の国でも歌っていきたいですね」
9月に出した新曲「泣き上手」は、少し懐かしい歌謡曲風のバラード。安全地帯など3千曲以上を手がけてきた作詞家の松井五郎さんによる作品です。同じく松井さんが作詞したカップリング曲「こころに灯す火があれば」では、「きっと明日は きっと来る」と力強く歌います。
「今は配信の時代ですけど、私を育てて一緒に歩いてくださったお客様がまだいてくださることも大きな事実なので、演歌をCDで出すことは大切。さらに、少しでも聴いてくださる人の枠を広げたい、同世代にもっと広げたいという努力が、今回の作品です」
一方で、神野さんは今、英語と中国語を学び、世界で演歌を試したいと考えています。
「今度有料で配信ライブをやります、と言っても、演歌ファンの多くは、チケットの買い方を知らないんですよ。YouTubeを見られるようなったのが最近で、ガラケーからスマホに変えて、お孫さんに使い方を教わって、『ただでこんなに見られたなんて』と喜んでいらっしゃる。やっぱりまだパッケージなんですよ。何でもデジタル化されていくけど、紙でしか情報を得られない人たちが、びっくりするほどたくさんいる。元に戻ろうとするのは無理だけど、でも、全てを変える必要はない。本当に必要なものと、そうでもないものを、一人一人が意識して暮らすことが大事。物も時間も、一人一人が意識するだけで変わると思う。少しずつバランスが変わっていくでしょうね」
コロナ禍で世界が大きく変わる中で、神野さんが今、一番感じていることとは?
「自分の歌に慰められたり、自分の歌に励まされたりして、歌があって良かったなぁ、と思っています。歌どころじゃないときもあったけど、やっぱり音楽は必要。歌が好きなんだ、と痛烈に感じています」
日本のアニソンやシティポップ、ロックは、YouTubeやストリーミングの広がりに後押しされ、今や世界中で聴かれるようになりました。演歌もまた、日本独自の文化として海外でもっと広く、もっと大勢に認められるために、神野さんの挑戦はまだまだ続きます。
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