コラム
「誰か相手にしてくれると思いますか?」20代障がい者、結婚の壁
配偶者を持つ・持たないの判断はもちろん個人の考えによりますが、もしも結婚を阻む要因が「障がい」だったら――。ある20代の若者の「誰か相手にしてくれると思いますか?」という言葉から、障がい者が直面する、「当たり前」を阻む壁を感じたという、車いすユーザーの篭田雪江さん。本当の意味での「共生社会」の壁となっているものについて綴ってもらいました。
「誰か相手にしてくれると思いますか?」
目の前に置かれたハンバーグをフォークで荒っぽくつつきながら、J君は言った。今までのやわらかな笑顔は一転、口の端をゆがめた苦いものに変わっていた。
それを聞いた私はなにも返せず、冷めかけたコーヒーに口をつけた。J君の笑いのように苦かった。
前年秋のこと。私は久しぶりにJ君とファミレスで飯を食った。J君は元同僚である。年齢は20代後半で、出産時にトラブルがあったため股関節の身体障がいを抱えている。ある程度両脚の可動はあるのだが、歩行までは困難なので普段は車いすに乗っている。同年代の健常者より若干身長が低く、腕も健常者よりは短い。
専門学校卒業後、私の前職場に就職してきた。デザイン部門に配属された後はめきめき能力をあげ、職場の若手ホープとなった。やがてその腕をかわれ数年前、フリーペーパーをいくつも発行しているデザイン事務所へ転職した。今はデザインだけでなく、自ら企画を立ち上げ記事を書くライターとしても活動している。その活躍の様子やインタビューが、地元新聞に掲載されたこともある。
プライベートでも車いすバスケチームに所属してあちこちの大会に出場している。昔から好きだったというギター演奏も達者だ。弾き語りライブにも出たことがある。スマートフォンで動画を観させてもらったが、膝の上でフェンダーのギターをかき鳴らし、歌う姿はかっこいい、のひと言だった。
悔しさもわかないくらいの「優良物件」である。仕事は有能、趣味はバスケとギター。書き忘れていたけど顔も童顔で、いわゆる母性本能をくすぐる、というタイプだ。性格もおだやかで優しい。
今は付き合っているひとはいない、というから合コンとか婚活パーティとか出てみたらいいんじゃない、J君なら絶対いけるよ、と私は気楽に口にした。
その後J君が言ったのが、冒頭のひと言だった。
平成25年と少し以前の統計になるが、配偶者がいる身体障がい者は約60%だという(平成25年版 障害者白書)。
私は以前からこの類の統計をおりにふれネット等で調べているのだが、やはりおなじような数値が出てくる。
そのたび考え込んでしまう。こんなにいるのか、でもやはりこんな感じなのか、と。
身体障がい、といってもさまざまだ。私のような四肢障がいのひともいれば、心臓や腎臓、肺といった内部障がいのひともいる。視覚、聴覚にハンディを持つひともいる。今は身体障がいに話を絞っているけど、ここに精神や知的などのひとたちを加えたら文字通り千差万別だ。
前職場のさまざま部署にいた障がい者のひとたちを思い浮かべる。あのひとは結婚しているけど、あのひとはしていない、と数えていくと結婚しているひとが半分より少し多いくらい。だから統計とそれほど差異がない。
でもあることに焦点を絞ると、結婚しているひとの割合はがくん、と落ちる。
車いすユーザーで結婚しているひとは十数人中、私を含めふたりしかいなかったのだ。
住む地域によって大きく異なると思われるが、少なくとも私の住む地域では、J君のように比較的年齢の若い車いすユーザーがその恋人、配偶者と思われるひとと連れ立っている姿をほとんど見かけたことがない。本当に数回あったかどうかだ(介護用車いすに乗った高齢者の方が介護者といる姿は時々見かけるが)。
今より体調がよかった頃、東京へ遊びに出かけることが時々あった。そのたび、私の町とは比較にならないほどあふれた人混みを見渡し、自分たちのような車いすユーザーとそのパートナーのふたり連れがいるか探してみた。でもそういうふたり連れは案外見当たらなかった。私の地域のように高齢者の車いすユーザーと介護者の組み合わせ、もしくはいずれかが車いすに乗ったご夫婦と思しきふたり連れは時々見かけたが、いずれも高齢者の方だった。私たちと同年代(当時は二十代後半から三十代前半だった)の、比較的若いふたり連れを見たことは、やはり一度か二度だったと記憶している。
住む地域によって事情は大きく異なるだろう。全国を旅したわけではない。異論も当然あるだろうし、むしろあってほしい。私の視界が狭すぎるだけ。誰かにそう指摘してほしいのだが。
車いすユーザーの恋愛、結婚、というとひとつ忘れられない話がある。
前職場にSさんという車いすの後輩女性がいた。年齢は三十代前半で、全身の筋肉が徐々に弱っていく難病を抱えている。
だがそんなことを感じさせないほど、明るく朗らかな女性だった。大きく口を開けて笑う笑顔もメガネの奥でころころ動く瞳も素敵だ。社交的なのでいろんなひとから話しかけられる人気者でもある。
そんな彼女も、今まで付き合ったことのあるひとはいない、という。独身主義とかではない。誰かいたら紹介してくださいね、と冗談ながらにだが言われたこともあった。
彼女とは食堂での席が向かいだったので、昼食のたびなにげない会話をしていた。ある日、近々男性新人が入るね、という話題になった。私が「そのひとが、Sさんに一目ぼれしましたって言ってくるかも」とふざけ気味に話すと、彼女は両手でなにか紙を差し出す仕草をしながら「そうなったら次の日、これにサインとハンコを、ってお願いします」と答えてきた。「それ、いくらなんでもはやくない?」すると彼女は腕時計を指でぽんぽん叩いて「なにせ時間がないもんで」と笑った。笑顔のなかに若干、真剣なものが含まれている気がした。
彼女の言う時間、とはなんだったのだろう。彼女の考える恋愛、結婚適齢期(個人的には今の時世にそういうものがあるとは思えないが)のことなのか。車いすを、からだを動かせる残りの時間、ということのように思えもするだが、どうなのだろう。
一方、私は前職場で同期のひとと恋愛、結婚することができた。
詳細は省くがパートナーも身体障がい者だ。ただ日常生活に支障はなく、悩みは肩こりくらいで今のところ健康そのものだ。あるやむを得ない必要が生じたため10数年前に障害者手帳を取得したが、それがなかったら手帳も持つことはなかっただろう。
障がいの有無は関係ないことだが、私がそうした相手に出会えたのは本当に偶然、幸運でしかなかった。もしパートナーと会っていなかったら私は今でもひとりだったと断言できる。恋はしたかったから、合コンや婚活パーティに行ったりもしただろう。でもすべて徒労に終わったと思う。自分で言うのもなんだが口下手だし、顔もよくないし、服のセンスもゼロだし、そしてなにより車いすだし。
最後に書いた思いを、どうしても拭い切れない自分は確かにいる。
「誰か相手にしてくれると思いますか?」と言ったJ君。そして「時間がない」と言っていたSさん。ふたりとも恋愛、結婚を望んでいるひとたちだ。
恋愛、結婚が生きることのすべてなんかじゃない。望む望まないはまったく個人の自由だ。車いすユーザーには自分はひとりがいい、と思っている方々もおられるだろう。私の知人にも気楽にひとり暮らしを楽しんでいる車いすの男性がいる。
ただ恋愛、結婚を望むJ君やSさんのようなひとたちだってもちろんいる。それを叶えたひとたちもいるが、少なくとも私の狭い視界にはあまり入ってこなかったのが偽らざる実感だ。先ほども書いたようにそれは違うと指摘してほしいが。
なぜ、車いすに乗っていることが、障がいのあることが、車いすユーザーの恋愛、結婚の自由や希望を阻む現実があるのだろう。ダイバーシティ、インクルージョンといった言葉、概念は浸透してきているはずなのに。
私の感じているような「車いすだし」という思いがあるからか。
健常者のひとたちがユーザーに好意を抱いても、車いすという壁の前に二の足を踏んでしまうからか。確かにユーザーと共に生きるということに、さまざまな困難が伴うのは事実だ。町は階段や段差が多いし、バスや電車もひょい、と気軽に乗られるわけでもない。住まいだってトイレや風呂などに配慮がいる。それらをクリアしても、その後には持病や排泄、性といった、尊厳的なものに関わることにもなる。私もパートナーといろんな悩みにぶつかったし、乗り越えられないままやり過ごしてしまったものごともある。
車いす。障がい。それを持つひとがひとを愛し、愛されること。当たり前の自由の前にそびえる壁。それを越えるのは健常者も、私たち障がい者、車いすユーザーの側にも高く険しい。共生社会という概念を支柱にしきれない現状は、やはりあるのだろうか。
識者でもなんでもないから、これ以上の考察は荷が重い。だがどうしても暗い方向へ思考が向いてしまう自分を悲しく思う。
時々「障がい者 結婚」でネット検索をしてみることがある。
先日もそうして検索してみたら、障がい者限定の結婚相談所というものがあり、また障がい者限定の婚活パーティやお見合いセッティングも行っているところもある、という記事を見つけた。「障がい者同志の婚活は互いに理解しやすいという点で結びつきやすい」という、相談所運営者の言葉もあった。
障がい者限定、という部分が特定のひとに対する「バリアフリー」的なアプローチに見えるかもしれないが、その記事を書いた筆者はあえて「今はそれでいい」、最初はバリアフリー的な限られたアプローチだとしても、時がたてば「国籍の違いや個人差に配慮して多様なユーザーが使いやすくなる」「ユニバーサルデザイン」に変わることもあるだろうから、と書かれておられた。
この見解に私は希望を見出したい。私たちにもひとを愛し、愛される自由がある、ということ。まずは私たちがその自由を信じて生きていく。考えれば「壁」など、ひととひとが出会い、生きていけば必ずあるのだ。車いす、障がいの有無に関係なく。
たまたまの幸運でしかないが、私のような者でも共に生きていくひとと出会えた。
もちろんJ君とSさんにだって、これから、はきっとある。そう信じながら、私はネットを閉じた。
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