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ロシアの「軍事都市」に熱視線 ウラジオストク、日本人観光客が急増
ロシア極東のウラジオストクが、日本からの気軽な旅行先として注目を集めています。ロシア太平洋艦隊が司令部を置き、かつては人の出入りが厳しく制限された軍事都市。訪れる日本人は商社マンか中古車輸出業者、シベリア鉄道に乗り込むバックパッカーぐらい……と思いきや、今やすっかりおしゃれな都市に様変わりしています。4月にはウラジオだけを特集した旅行ガイドブックも発売されました。現地でいったい何が起きているのか、ガイドブックを作った関係者らに聞きました。(朝日新聞国際報道部・石橋亮介、ウラジオストク支局長・中川仁樹)
ガイドブックのタイトルは、「Plat(ぷらっと)ウラジオストク」。
バックパッカー御用達の旅行ガイド「地球の歩き方」をコンパクトにしたシリーズで、2泊3日の気軽な海外旅行がコンセプトです。
世界中の旅を案内する「地球の歩き方」とは違い、おしゃれさやかわいさ、手軽さがミソなので、これまで発売されているのはパリやロンドン、台北、シンガポールなど世界の名だたる観光地ばかり。ロシアはモスクワ版やサンクトペテルブルク版もまだ出ておらず、観光地としての知名度が乏しいウラジオ版はかなり異色です。
出版元のダイヤモンド・ビッグ社(東京都)の担当者によると、「大正時代の旅行案内などを除けば、ウラジオのみを扱ったガイドブックは現在流通しているものとしては唯一」。
売れ行きが心配になってしまいますが、出版するにはそれなりの根拠があります。実は、ウラジオを訪れる日本人観光客が最近急増しているのです。
ウラジオのある沿海地方政府によると、同地方を訪れる日本人は例年7000~1万人程度。2016年は約8700人でした。それが昨年、突然1万8000人以上に増え、今年に入ってもその勢いが続いているといいます。5月のゴールデンウイークには、成田空港や関西空港からの直行便は連日満席が続き、かつてない盛況ぶりとなりました。
「若いお客さんはロシアに対する先入観や特別な意識を持たない人が多い。ベトナムやタイ、台湾などと同じ手軽な海外旅行先の一つという感覚です」
ウラジオで旅行会社を経営する宮本智さん(40)は、急増している日本人旅行客の印象をそう語ります。
多いのは1人か数人までの小さなグループで、目立つのは20代の男性や20~40代ぐらいの女性の増加。往復の航空券とホテルのセットで数万円のツアーを使い、2泊3日程度でグルメやショッピングを楽しむのが一般的だと言います。
旅行者を引きつけるのは、帝政ロシア時代の趣を残す西洋風の街並みと、近年急速にレベルが向上しているというおしゃれなカフェやレストラン、雑貨店など。Platウラジオストクの中身はそうしたお店やSNS映えする撮影スポットなどの情報とカラフルな写真が満載。ロシアに抱きがちな薄暗いイメージはどこにも感じられません。
成田空港から約2時間30分の近さで、思いがけず西洋の異国情緒が味わえる港町。日本の周辺に残された数少ない未開拓の観光地として、日本の旅行業界は「一番近いヨーロッパ」をキャッチフレーズに積極的にツアーを売り出しています。
伝統あるロシアの芸術に気軽に触れられるのも魅力です。
サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場は2016年、ウラジオに直営劇場の「マリインスキー劇場沿海地方ステージ」をオープン。世界でもトップクラスのアーティストやダンサーの公演が開かれています。エルミタージュ美術館の別館の建設も進行中で、外国人観光客の増加に応える魅力作りに街全体が力を入れています。
宮本さんは、「芸術や文化の盛んなロシアの観光ポテンシャルはもともと高く、潜在的な需要は大きかった。現地の魅力が口コミで広がるようになれば、ウラジオはもっともっと注目される」と期待します。
もう一つ、ウラジオの説明に欠かせないのが現地の親日的な風土です。
日本とロシアの間には北方領土問題をめぐる立場の違いがあり、それが日本人のロシアに対する悪いイメージの一因となっています。にもかかわらず、現地に住む日本人や旅行関係者らは、「ウラジオの人々はとても親日的。『反日』を感じることはない」と口をそろえます。
その理由の一つと考えられるのが、ソ連の崩壊後、日本から大量に持ち込まれた日本車や食品などの日本製品です。
1990年代、ソ連崩壊による混乱の中でウラジオ経済の支えとなったのが中古車を中心とする日本製品の輸入ビジネスでした。その時に触れた日本製品へのイメージから、ウラジオの人にとって日本は遠い国ではなく、とても身近で親しみを感じる存在となったというのです。
ソ連崩壊から四半世紀以上が過ぎた今も、ウラジオの街を走る車のほとんどが日本車で、人気の高さは変わりません。スーパーには日本の即席麺がずらりと並び、日本製の化粧品やおむつなども大人気です。
日本食の飲食店も多く、最近は本格的な居酒屋やラーメン店、さらにはメイド喫茶風のお店まで登場しています。
しかし、なぜ急に旅行者の注目を集めたのでしょうか。
最大のきっかけは、昨年8月に沿海地方で実施された、日本など18カ国の渡航者のビザ手続きを簡素化する電子ビザの導入です。
日本人がロシアを訪問するには、渡航の数週間前からロシア大使館などでビザを申請しなければなりません。手間だけでなく、業者に頼めば手数料もかさみます。
電子ビザは、渡航の4日前までにインターネットで申請するだけで、渡航当日にウラジオの空港や港で無料でビザが受け取れます。滞在できるのは沿海地方のみ、期間も8日以内という制限付きですが、事前のホテルの予約も求められた以前と比べ、旅行者の負担は大幅に軽減されました。
Platウラジオストクを取材・執筆した旅行本編集者の中村正人さん(54)は、「観光や食事を楽しめる普通の街だということを日本の人に伝えたかった」と話します。
中村さんが初めてウラジオを訪れたのは、ソ連崩壊後間もない1993年。当時の街にはマフィアがはびこり、暗くすさんだ様子に「敗戦直後の国とは、こういうことかと思った」と振り返ります。
ロシアはその後、資源価格高騰の波に乗って急速な経済発展を遂げました。近年はその成長も鈍化し、地方とモスクワとの間には大きな格差も残るものの、ウラジオの街はかつてとは見違えるほど明るくにきれいになりました。
日本人以外の外国人旅行者も増えており、2017年に沿海地方を訪れた外国人は前年比約13%増の約64万人にのぼりました。
現在のウラジオの姿に、中村さんは「ウラジオはかつての多様性と国際都市の賑わいを取り戻そうとしているように見える」といいます。
第2次世界大戦前、ウラジオには多くの外国人が暮らしていました。戦争前夜のきな臭い時代ではあったものの、最盛期には日本人だけで約6千人にのぼり、日本人街の建物などかつての名残が今も残ります。
戦後の東西冷戦下、ウラジオはソ連国民ですら立ち入りが制限される閉鎖都市でしたが、ソ連崩壊から4半世紀以上を経て再び本来の姿と魅力がよみがえりつつあるようです。
観光やビジネスなど、人の動きが活発化している背景には、極東の経済発展を重点政策に掲げるロシア政府の姿勢と、北方領土問題の将来的な解決をにらみ、ロシアとの経済協力を進めようとする日本政府の取り組みがあります。
2016年5月、安倍晋三首相はロシア・ソチでのプーチン大統領との首脳会談で、極東の産業振興や人的交流の拡大などを目指す「8項目の経済協力」を提示しました。それを受け、同年11月には、観光庁と旅行代理店などでつくる日本旅行業協会(JATA)が合同で、ウラジオやハバロフスクなどの観光ポテンシャルを探る現地視察を実施。
17年2月には、同庁とロシア政府観光局の間で、日ロの交流人口を15年の約14万人から19年には25万人に増やすとする共同プログラムに署名するなど、官民を挙げた取り組みが続いています。
5月25日~26日、安倍首相はモスクワとサンクトペテルブルクを訪問し、プーチン大統領と通算21回目となる首脳会談を行いました。
会談は計約2時間45分。日ロの経済協力や朝鮮半島情勢などのほか、日ロ間の最大の懸案である北方領土問題でも意見を交わしました。
領土問題では、2016年12月に合意した北方4島での共同経済活動の実現に向け、さらに作業を進めることで合意しました。しかし、日ロ双方の立場を維持しながらどうやって4島に日本人が渡るのか、人の移動の枠組みをめぐる議論は答えがでておらず、共同経済活動が本当に実現するのかもまだ見通せません。
安倍首相とプーチン大統領が顔を合わせると、互いに「ウラジーミル」「シンゾー」と名前で呼び合い仲の良さをアピールするのが恒例です。ですが、戦後70年以上も続く問題を解決する歴史的決断を下せるほどには、まだまだ両国間の距離は縮まっていないのが現状です。
ウラジオの観光客が少々増えたところで、戦後70年以上も未解決の外交問題が解決するわけはありません。ですが、人の往来がなければ日ロの人々が互いに関心を持ちあうこともなく、精神的な距離が縮まることもありません。そんな隣人同士では、外交交渉で歩み寄るための国家間の信頼関係も生まれないでしょう。
「夏休みの旅行はどこに行こう。台湾? 香港? それともウラジオ?」。そんな会話が当たり前になるぐらいウラジオやロシアが身近な場所になったら、硬直化した問題の解決の糸口ぐらいはつかめるのかもしれません。
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