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「素人」ばかりの…ミャンマー交響楽団が見せた「奇跡の演奏」
譜面を読めず、楽器の手入れも十分にできない……そんな国立オーケストラがミャンマーにあります。率いているのは1人の日本人指揮者。自腹で指導を続けて4年、そろわなかった音が少しずつ重なり、ハーモニーが生まれつつあります。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太)
はじめて記者がその演奏を聴いたのは、昨年6月。ミャンマー国営放送局のスタジオでした。緑色のコンクリート壁に囲まれ、薄暗くじめっとした部屋に、パイプ椅子が並んでいます。居並ぶ約50人の楽団員。日本人指揮者、山本祐ノ介さん(54)の指揮で演奏していました。
うーん、合っていない。
音楽的な素養がない私でも、オーケストラの演奏が極めて「微妙」なことがわかります。音がずれ、気持ちのいいハーモニーになっていません。
額から汗を飛ばして指揮する山本さん。時々手を上げて演奏を止め、「ここはもっとテンポをゆっくり」などと日本語で話しかけ、通訳の女性がミャンマー語で楽団員に伝えます。
ビオラをひく女性の携帯電話が大きな音を立てて鳴りました。演奏中なのにとこちらがドキドキしていると、なんとその女性は電話を持ったままスタジオを出ていってしまいました。
練習後、山本さんにきいてみると、「そんなに珍しいことじゃないですよ。彼らは本当にマイペースだから。気にしていたらきりがありません」と笑います。
「ミャンマー国立交響楽団」は2001年、当時の大物政治家の発案でできました。
ミャンマーは2006~07年、東南アジアの国々が集まるASEAN(アセアン)の議長国になることが決まっていました。議長国になれば、外国の要人を招いて夕食会を開き、セレモニーもあります。「オーケストラがないとまずいだろう」というわけです。
とはいってもミャンマーは、1962年から続く軍事政権が、外国からの文化を遮断し続けてきた国。クラシック音楽の経験がある人はとても少なかったといいます。
音楽経験のある人が片っ端から集められました。芸術大学の卒業生を勧誘。伝統音楽の経験者や趣味で楽器をしていた若者に、「君はバイオリン」「君はクラリネット」と楽器が割り当てられたそうです。
しかし、数年でオーケストラは活動休止状態になってしまいました。この政治家が政争で失脚。彼がつくった楽団にも冷たい視線が向けられ、対外的な活動ができなくなったのです。
さらに、軍事政権に対する国際的な批判の強さから、ミャンマーは議長国を辞退することに。楽団の存在意義そのものが薄らいでしまいました。
2011年、ミャンマーは軍事政権から民政に移管。少しずつ社会を開き始めます。翌12年、ついに楽団にも目が向けられ、活動が再開されました。日本人指揮者の福村芳一さんを招いて復活公演を成し遂げ、その後もイギリス人指揮者らに指導を仰いでいました。
ただし、いずれも短い期間で交代していました。楽団が常任指揮者を探していたところ、名前が挙がったのが、山本祐ノ介さんでした。
東京芸術大学を卒業後、東京交響楽団の首席チェロ奏者を務め、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団の常任指揮者としても活躍。父親は、あの「男はつらいよ」のテーマ曲などを作曲した山本直純さんです。
支持を集めたのは、山本さんがクラシックに限らず、ポップスから日本の民謡まで様々な曲で指揮をしていたことでした。
「ミャンマーの人にいきなりクラシックを聴いてといっても難しい。まずはいろいろな音楽に触れてもらうところからはじめたい。山本さんは適任だ」
ミャンマーにも伝統音楽はあります。ただ、軍事政権時代の「鎖国」政策に加え、学校では教師が足りず、最近まで音楽の授業はほとんど行われていませんでした。
今でこそロックバンドのライブも開かれるようになりましたが、地元の若者に尋ねると、「クラシック音楽をお金を払って聴きにいくなんていう考えはない」と言うほどです。
2013年、山本さんの初めての仕事は、くしくもASEAN会合のためのものでした。民政に移管したことで、ついに2014年に議長国になることが決定。楽団をPRするテレビ番組の制作に協力してくれないかというのです。
ミャンマーとまったくつながりのなかった山本さんですが、熱心な説得にほだされ、この仕事だけならと訪問を決めました。
「初めて行ったときはびっくりしました」。ピアノにはカビが生え、手入れされていない金管楽器の隙間から音が漏れていました。
まずは譜面通りに演奏することから教えます。「難しいことを言っても仕方がない。指揮者を見て、テンポを合わせて、それを繰り返しました」。なんとか番組を完成させることができました。
山本さんが日本への帰り支度をしていると、ホテルの部屋に楽団員から電話がありました。
「これからも、私たちに音楽を教えてほしい」
楽団員たちの熱い思いに触れ、決意します。「もう少し、やってみようか」
山本さんはそれから、妻でピアニストの小山京子さん(58)とともに年に何度かミャンマーを訪れ、指導を続けました。
初めは全て自己負担。1~2週間滞在して集中して練習しても、数カ月後に訪れると、その間に自己練習をしていなかったのか、せっかくよくなった演奏が元に戻っていたことが何度もあったといいます。
2014年度からは、日本の国際交流基金の支援で旅費や宿泊費が出るようになりましたが、活動自体へのギャラはありません。そんな時に練習を無断で休んだり、練習をしてこなかったりする楽団員も。山本さんは、「正直、腹が立ちました」と打ち明けます。
でも、何よりも大切にしていることは、「楽団員を乗せること」だといいます。
ミャンマーの人たちは上からガツンとものを言われるのを嫌います。萎縮し、逆効果になるというのです。山本さんも、「いい演奏だね、でも、ここをもっと丁寧に弾くといい音が出る」などと持ち上げながら注意する方法をとっているといいます。
「実際のところ、演奏はどのくらいうまくなっているんですか」と記者が尋ねると、山本さんは少し考えた後、「劇的にうまくなっているというわけではないです」ときっぱり。
えっ、じゃあこれまでの数年は……。
「でもね、彼らの表情を見ていると、お客さんを喜ばせたい、いい演奏をしたいという思いがにじみ出てくるんです。これが大事」
技術的にはどのレベル?
「大学のオーケストラ部くらいでしょうか。でも、意識はプロに負けませんよ」
そんな山本さんを楽団員たちはどう見ているのか、聞いてみました。
オーボエを演奏するスースーチーさん(27)はミャンマーの芸術大学出身。元々ハープのような伝統楽器、「サウン」を弾いていました。楽団に入って一から勉強。「最初は全然自信がなかった」といいます。
「どんな風に音を出すのか、どうすれば周りと合うのか、丁寧に論理的に説明してくれる山本さんのやりかたにとても感謝している」とスースーチーさんは話します。「今は、みんなにいい音楽を聴かせたい、という気持ちで吹けるようになった」
協力してくれる日本の演奏者も増え、日本政府も「楽器購入に」と約9万ドル(約1千万円)の支援を決定。
「オーケストラは一歩一歩前進している」。立て直しのために走り回ったビオラ奏者、ウィンミンピョーコーさん(43)もうれしそうです。「東南アジアの中でも技術的にはまだ下の方。でも、いつかみんなを驚かせられるような演奏ができると思う」
記者が2回目に練習を訪ねたのは、およそ半年後の今年1月末。演奏会の直前でした。
まだ、ちょっと音が合っていないところがある。でも楽団員の熱気が前と違う。これなら本番はうまくいくかもしれないと思わせる何かがありました。
そして公演当日。首都ネピドーでの公演を聴きにいきました。曲目はビゼーの「カルメン」第1組曲、ベートーベンの交響曲第4番、チャイコフスキーのピアノコンチェルト。これに加え、2017年に世界で大ヒットしたラテンポップスの「デスパシート」、締めはミャンマーの伝統民謡です。
国際会議にも使われる会場は、約1400人の客で満席。山本さんが入場すると拍手に包まれました。
楽団員たちは緊張の面持ち。うまくいくだろうかと、こちらも祈る気持ちです。山本さんが指揮棒を振り上げ、演奏が始まります。
音がそろった!
それからはあっという間でした。アンコールのミャンマー民謡では会場から手拍子も起き、楽団員も山本さんも楽しそう。全曲の演奏が終わりました。
「お客さんの拍手を受けて誇らしげにしている楽団員の顔を見ていると、自分の苦労なんてどんだけちっぽけなものなんだって思いますよ」と山本さん。
実はこの公演、クラシック音楽でお金を取ったらミャンマーでは客が来ないという声もあり、入場無料でした。
「将来の目標は、お金を払っても聴きたいという人を増やすこと。夢は日本での公演ですね」。山本さんは笑って話しました。