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妻が願った最期の「七日間」 投書にこめられた夫婦の物語
「1月中旬、妻容子が他界しました」。昨年11月に入院した妻が、そのまま帰らぬ人となったこと、病室の枕元のノートに「七日間」という詩を残したことをつづる、71歳男性の文章は、そんな言葉から始まりました。3月9日、「妻が願った最期の『七日間』」の題で新聞の投稿欄に掲載されると、またたく間にSNS上で広がり、18万7千件以上の「いいね」でシェアされました。詩にこめられた夫婦の物語が知りたくて、この男性を訪ねました。(朝日新聞オピニオン編集部「声」編集記者・吉田晋)
投稿欄は500字ほど。朝日新聞「声」欄に掲載された詩は一部を抜粋したものでした。全文をまず紹介します。
投稿を下さった宮本英司さん(71)は、神奈川県にお住まいです。息子さん2人は独り立ちして別に家庭をお持ちなので、今はメスのウェストハイランド・ホワイトテリア「小春」ちゃん(11)と一緒に暮らしています。
ご自宅のマンションは、玄関やベランダからの広々とした眺めを気に入った妻容子さんが、転勤族だった英司さんと老後を過ごそうと購入を決めたのだそうです。暖かな日が差し込むリビングは、きれいに片付けられていました。
「容子がきれい好きで、いつも冗談交じりに『あなたの後ろを片付けながら歩いているのよ』って。だから、きちんとしませんと」
口元に柔らかな笑みを浮かべながら話す英司さんですが、時々言葉を詰まらせます。「容子の思い出を胸に前を向いて、と皆が言ってくれますが、そこにはたどりつけていなくて……」。
容子さんが最初におなかの不調を訴えたのは、3年前の春。大学病院では感染性の腸炎との診断でしたが、夏に腸閉塞を起こしかけて開腹手術を受け、小腸がんと判明しました。すでに末期で、余命は平均2年との宣告でした。容子さんは68歳でした。
非常にまれながんで、別の病院でセカンドオピニオンを受けると、こちらの医師は「人の命について、あと何年なんて言いたくない」。容子さんはうなずき、抗がん剤の治療が始まりました。
最初は点滴で、副作用がきつくなってから経口薬も試しました。半年が経ったころ、容子さんはパソコンにこんな文章を残します。
「耐えられない副作用ではない。治療することで少しでも延命ができるなら、もっと生きたい。もっとあなたと楽しい日々を過ごしたい」
「生きることにしがみつきたい思いです。だって、やっとあなたと、ゆとりある日々が迎えられ、これからという時なんですものね」
体調が許す限り、2人と1匹で旅行に行きました。
八ケ岳、丹沢湖、鎌倉、箱根、北海道……。自宅の居間で、夕食後にパソコンの麻雀ゲームを一緒に楽しみながら夫婦の勝ち点を記録し、お金がたまったら旅の計画を立てます。
穏やかな日々でした。腫瘍マーカーの数値も落ち着いています。「後2年と宣告したあの先生に、顔見せにでも行こうか」。2人の間でそんな軽口も交わされるくらい、経過は良好でした――昨年の夏までは。
2017年7月。おなかが張って苦しいと訴え、緊急入院すると「腫瘍が大きくなっています」。腸がふさがり、人工肛門の手術をすることになりました。「半年程度しか持たない人に、この手術はしませんよ」という医師の言葉に、英司さんは希望を託します。
しかし、容子さんは少しずつ覚悟を決めていたようです。手術当日の朝、白い手製のブックカバーをかけた愛用の手帳に、夫と2人の息子の名前、そして一人一人に「ありがとう」と書きました。
英司さんが手帳を開いたのは、半年が過ぎ、全てが終わった後。そこにはこうありました。
「病気はみんな私が背負うから 健康で長生きするのよ」
手術を乗り越えて退院した後も、容子さんの体調は戻りません。体重は10キロ以上減りました。
10月にまた緊急入院。容子さんは「退院したら野菜スープを作るから、それ用のなべが欲しいの」「点滴をしながらでも2人で出かけたいので、車いすをレンタルしておいて」と自宅での生活を思い描きます。英司さんも在宅医療の手配を整え、妻の退院に備えました。
「今思うと、病気が急にどんどん先に行ってしまって、気持ちが追いつかなくなっていました」
11月、車いすで自宅に帰りましたが、毎日吐いてしまい、医師も「いったん入院した方がいい」と勧めます。数日後、自宅近くの病院に入院しました。落ち着いたら戻るつもりでした。妻も夫も。
12月の半ば。「家に帰ったら、何がしたい?」。英司さんの問いかけに、ベッドに横になった容子さんが口を開きました。その言葉を、入院生活の覚書用に枕元に置いてあったノートに、英司さんが書き留めました。それが、「七日間」の詩です。
容子さんは、元は高校の国語の先生で、結婚・出産を機に教壇を離れてからも受験出版社で模擬試験の採点をするなど、文章に関わる仕事をしてきました。言葉で表現するのは習いになっています。
闘病生活が半年を過ぎた頃、パソコンに「二人の物語」と題した文を綴り始めました。「出会い」と見出しを付けた書き出しは「あなたと初めて出会った日のことを覚えていますか」。
大学1年生の冬の思い出から始めた独白を、途中で英司さんに読ませると、夫は書き足しました。
「もちろん鮮明に覚えています。キミは緑色のコートを着ていました」
こうして始まった2人の「交換日記」は、18歳の英司さんが同級生の容子さんに講義のノートを借りようと声をかけた場面から、次第にお互いの存在が大きくなっていった若い頃の記憶をたどります。
学生時代は「どこに行くにも一緒でした」(英司さん)、それが社会人になると「会うこともままならない日々が続きました」(容子さん)。周囲に背中を押され、25歳で結婚。
容子さんは新居の思い出を書きます。
「通りから二軒中に入った、木造アパートの鈴木荘」
「近くのお風呂やに行き、神田川の世界のように、入り口で待ち合わせて、帰ったりしましたね」
妊娠出産に続いて引っ越しがあり、英司さんの転勤と単身赴任、育児と進学……そして子離れの時を迎えます。
容子さんは趣味でパッチワークやちりめん細工を始め、それを見ていた英司さんも木彫りや陶芸などに挑戦しました。
「あなたの作った器に盛る料理を考えるときは、幸せ気分で台所に立っているし」
「クラフトに夢中になっているあなたの姿は、とても穏やかで、素敵です」
交換日記にそう書いた妻の文章を読み返し、英司さんは「容子に褒めてもらいたくてやってきたようなものだから」と振り返ります。
2人で個展も開いたほどの、たくさんの作品が今、ぽっかり大きな穴が開いた自宅を精いっぱい彩っています。
「どう気持ちの整理をつけたらいいんだろう、というのが正直な気持ちです」
妻が亡くなって2カ月半。単身赴任時代も含めて、こんなに長い間会えないのは初めてという英司さん。
陶芸もドールハウスも、まだ手に着きません。新聞の投稿欄に、生まれて初めて投稿してみました。
「せっかく生きてきて、本人もまだやりたかったことがあるだろうから、その思いだけでも世の中に残ればいいな、と思ったんです」
先日、英司さんはサクラの写真を撮りに出かけてみました。
「頑張って、生きたいよ」――容子さんが交換日記の最後に書いた一行をかみしめる日々です。
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