お金と仕事
ミャンマーで英雄になった日本人「カネコ」世界一過激な格闘技で王者
ミャンマーに「世界一過激な格闘技」があるのを知っていますか? なんとグローブをつけずに殴り合い、ほとんどの格闘技で禁止されている頭突きもあり。故意でなければ金的さえも許され、流血はあたりまえ、それが「ラウェイ」です。昨年12月、金子大輝選手(23)が日本人として初めて現地で王者になりました。体操選手の道をあきらめ、就職に失敗し、試合では連戦連敗。めげずに深夜のラーメン店で特訓を積み、やっとつかんだ栄光でした。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太)
昨年12月10日午後、ミャンマーの最大都市ヤンゴンにある「テインピュー・ミャンマー・ラウェイスタジアム」。リングに倒れた、赤いトランクスのミャンマー人王者が苦しそうに顔をゆがめたまま、カウント10が告げられると、リング上の金子選手は顔をくしゃくしゃにして涙を流しました。
「これまでのいろいろな思いがこみあげた」
ミャンマーに四つしかないタイトルを、日本人が始めて手にした瞬間。歴史的な快挙でした。
数百年という伝統を持ち、かつては王様の前で披露され、専用のスタジアムも複数あるラウェイ。日本なら相撲にたとえられるでしょうか。
これまでミャンマー国内のタイトルをとった外国人はカナダ人が1人いるだけで、あとはすべてミャンマー人でした。
「僕の人生は挫折の繰り返しなんです」と金子選手は言います。
埼玉県生まれ。両親はともに体操選手で、弟もインターハイの個人総合で優勝する実力の持ち主。小さい頃から体操選手を目指して練習に明け暮れていました。
ところが高校3年の時、酷使した左肩を激痛が襲います。
「生活の全部をかけてきた体操がなくなると、何をすれば良いのか、自分でも分からなくなった」。
そんなとき夢中になったのが、格闘技マンガ「グラップラー刃牙(ばき)」でした。
大学に入ると、おそるおそる近所の格闘技ジムの門をたたくことに。
まったくの素人でしたが、体操で培ったしなやかな体使いが、コーチに「素質がある」と見込まれました。
総合格闘技やキックボクシングの試合に出場。自分の限界を目指す孤独な闘いだった体操に比べ、相手と一対一の勝負で自分の成長を実感できる格闘技の魅力にとりつかれます。
ですが、親を安心させようと、進路には警察官を選びました。痛みを引きずっていた左肩も手術することに。
ところが、手術と警察官の採用試験が重なって負担になったこともあり、試験に落ちてしまいます。
最後に残ったのが格闘技でした。
不安定な仕事だからやめた方がいいと周囲は反対しましたが、挫折続きの人生をひっくり返そう、と振り切りました。
ただ、プロ格闘技の世界は甘くありません。単身中国に渡りましたが、そこでのキックボクシングの2試合は引き分けと判定負け。
そんなとき、ラウェイで日本とミャンマーをつなげようとしていた兵庫県のNPO法人代表の高森拓也さんから、知り合いの格闘家を通じて「ラウェイをやってみないか」と誘いを受けます。
他の日本人格闘家も声をかけられていましたが、その過激さからか、受ける人がなかなかいなかったといいます。
YouTubeで試合の映像を見た金子選手はその激しさに驚きましたが、最小限のルールで力と力がぶつかり合う様子は「格闘技の原点」そのもの。グラップラー刃牙と同じような魅力を感じ、すぐに「やります」と返事をします。
そして2016年2月、ミャンマーでの初めての試合はなんとチャンピオンが相手でした。
それまでは日本で練習したくても危険すぎて相手がおらず、ほとんどぶっつけ本番。ミャンマーに行くと、当時はまだ学生だったため、「実績もない選手をなぜ連れてきた」と批判も受けました。
結果は2ラウンドKO負け。一方で、王者相手に手応えも感じました。
それからは日本をベースに、年に数回ミャンマーに渡って試合を重ねるという生活を続けました。
高森さんの紹介でミャンマーのジムにも所属。練習の中身も濃くなっていきます。
日本で鍛えてくれたのは元プロボクサーの関根悟史さんです。交通事故で選手生命をたたれ、さいたま市でラーメン店を営んでいました。
金子選手は昼間、ラーメン店でバイト。深夜になると店の2階の一室で、関根さんから特訓を受けました。
特殊な格闘技のため、なかなか実践練習を積めない中、関根さんは変わったトレーニングの方法を提案します。
町のやんちゃな若者たちを集め、そのパンチを受けてみるのはどうだろう。
相手は素人とはいえ、1日に何人もの人からパンチを浴び続けるという常識を越えた過酷さ。でも、「何でもありのラウェイの特訓にはもってこいだった」と金子選手は振り返ります。
次第に試合でも結果が出始めます。16年9月からは3連勝。ミャンマーの地方では王者にも勝ちました。
しかし、17年7月のタイトルマッチでも王者の厚い壁に跳ね返されました。
「もう無理なんじゃないか」と弱気になり、金子選手は帰国の途につきます。
ところが、空港で飛行機を待っていると、「カネコじゃないか」とミャンマー人たちが集まってきました。
「昨日の試合は素晴らしかった。また来てくれ」「応援しているぞ!」
次々と声をかけてくれます。生中継された前の日の試合を見たというのです。ついには金子選手が乗る飛行機の機長が登場。「私は君のファンなんだ。是非良い席に乗ってほしい」と特別席まで用意されることに。
金子選手は気付かないうちに、ミャンマーで有名人になっていました。
コンビニでもレストランでも「がんばれよ」「カネコのファイトが好きだ」と声がかかります。
その理由は、ラウェイに取り組む金子選手の姿勢にありました。
試合前後のミャンマー伝統の踊りは何度も練習し、地元の選手に見劣らない華麗さ。
さらに、ラウェイの相手を敬う精神を誰よりも理解していると評判になっています。
実は以前、試合前に「相手を必ず倒す」という内容のツイートをし、ミャンマーのトレーナーから叱られたことがありました。
「力を見せるのは試合の時だけで良い。相手を敬うのがラウェイの考え方だ」
それ以来、金子選手は試合以外での行動を慎み、試合後はすぐに相手の健闘をたたえるようになったといいます。
ミャンマーのラウェイ団体の最高責任者、テインアウン氏も「カネコはラウェイの国際化に貢献してくれている。彼がこの競技に真剣に取り組んでくれていることが何より重要だ」と話します。
高森さんは、「初めての会見で批判された金子選手の試合を、今はミャンマーの人が『見たい』という。この2年で彼がどれだけ成長したかがわかる」とかみしめるように語ってくれました。
そうして実力と人気を高めるなかで臨んだ昨年12月のタイトルマッチでしたが、事前の予想は金子選手に厳しいものでした。
対戦相手の王者テッアウンウー選手はテクニシャンとして知られる30歳。試合前にファンに聞いても、「カネコのファイトあふれる戦い方は好きだけど、今回は厳しいね」と話していました。
そしてゴング。パンチとキックの応酬が続くなか、第1ラウンドが30秒を過ぎたころ、金子選手の左フックが王者の顔面を直撃。テッアウンウー選手は思わず尻餅をつきました。
ラウェイでは、ダウンすると両者はコーナーに戻り、体力を回復させます。過酷な格闘技ならではのルール上の配慮です。
試合が再開されると、ダメージの残る王者に対し、金子選手はたたみかけるような猛攻。左のボディブローが決まると、テッアウンウー選手は苦しそうに顔をゆがめ、そのまま倒れました。
金子選手はすぐに対戦相手の元に駆け寄り、肩を抱きました。
立ち上がり、会場の四方に向かって頭を下げると、こらえきれずに涙を流したまま、顔の前で両手を合わせました。
「これまでのいろいろなことが頭を駆けめぐり、感情が爆発した」といいます。
試合後、地元ミャンマータイムズのラウェイ専門記者、ザミピョーさんは「私も王者の勝利を予想していた。結果は驚きだが、カネコのファイトを見れば、勝って当然だと言える」と話しました。
満面の笑みでベルトを巻いた金子選手。
結果を「素直にうれしい」と受け止めながらも、「まだこのベルトはまぶしすぎる。ここがスタート」と気を引き締めます。
金子選手がこの世界に入るきっかけになった高森さんは、「ラウェイではベルトを巻いたから王者ではない。戦績だけでなく、試合ぶりや姿勢などみんなが認める『民衆の王者』こそがたたえられる。金子選手はそれになる素質があると思う。期待したい」と話しました。
チャンピオンという夢をつかんだ金子選手は「人生に無駄なんてない」ということを教えてくれました。
印象的だったのは、試合前でも「今の自分にできることをやりきるだけ」と落ち着いていたこと。挫折の経験や苦しかったころについても静かに受け止めていました。
実は新聞記者の世界も毎日が「闘い」のようなものです。殴り合いこそしませんが、特ダネを巡ってライバル紙と競争しています。
他社にスクープを書かれたら、「次は抜き返してやる」と全身をピリピリさせてその熱さで取材に走り回ってしまいます。そういう気負いが、金子選手にはありませんでした。
金子選手が挫折として挙げた体操選手時代に自分と向き合っていたことの経験が、ラウェイの王座につながったのかもしれません。