感動
阪神・鳥谷のストイックさが別次元…テレビを封印、顔面骨折でも打席
プロ野球で史上50人目の通算2千安打を達成した、阪神の鳥谷敬(たかし)内野手(36)。「毎日出続けることを考えて準備してきたのが、2千本という数字につながったかなと思う」と本人は言います。試合に出ることへのこだわりは、早稲田大学時代に培われたようです。当時を知る人たちに、その原動力を確かめてみました。(朝日新聞スポーツ部記者・井上翔太)
「努力って、どこまでしたらいい?」
早大時代、同学年で学生コーチを務めていた竹内智一さん(36=現・鎌倉学園高校野球部監督)は、鳥谷選手と一緒に散歩していたとき、こう言われたことを覚えています。「努力に『合格』はない。鳥谷は自分に『合格』をあげられないんです」
入学前、鳥谷選手は一塁に頭から滑り込んだ際、指を骨折。しかし二塁手のレギュラーがいなかったため、1年の春から東京六大学の春季リーグに出始めました。当時の監督・野村徹さん(80)は「股関節が柔らかくて、キャッチボールがうまい。全体的なバランスがよかった。鳥谷は試合で使うことで、総合的にレベルアップするタイプだった」と振り返ります。
しかし、一つ上の学年は野球の黄金世代と言われる「松坂世代」。土居(法大)、多田野(立大)、長田(慶大)といった、後にプロの世界に進むライバル投手も多く、1年のときは、なかなか思うような成績を残せませんでした。
「三冠王を取る」
2年の春を迎えると、鳥谷選手は、打率、本塁打、打点の3部門ですべてトップに立つと宣言します。誓いだけでなく、本当に三冠王を獲得しました。
ところが、秋にまた苦しみます。マークが厳しくなり、打率も低下。ベストナインの座を東大の選手に奪われました。
そこで、鳥谷選手が出た行動が「家から寮の自室に持ち込んでいたテレビを押し入れに封印する」。早大在籍中は3兄弟の一番下の弟が病気で、好きだった野球ができない時期でもありました。自身の野球に対する向き合い方を見つめ直し、「自分の部屋から、遊びを消した」と野村さん。早大は鳥谷選手が3年春から4年秋まで、リーグ4連覇を果たしました。
2003年秋のドラフト自由枠で阪神入団を決めたのも「土のグラウンドを希望したから。もっと自分を鍛えるための球団を選んだ」(野村さん)。硬い人工芝よりは、土でプレーする方が、プロとして1年でも長くプレーできると判断したそうです。
プロ入りしても、ストイックな姿勢は変わっていません。甲子園で午後6時試合開始だと、午前のうちから体を鍛えます。強い体を手に入れ、プロ1年目の9月9日から13年以上も試合に出続けています。2017年シーズンは5月の試合中、顔に死球を受けて鼻骨を骨折しましたが、翌日は鼻を保護するフェースガードを装着し、代打で打席に立ちました。
鳥谷選手は通算2千安打達成後の記者会見で「一緒にやった同級生やお世話になった人たちが、2千本を待っててくれました。喜んでくれていると思う」と語りました。竹内さんは「鳥谷は、雨の日も風の日も、自分のためにどこまでも練習する。そういう姿を見ると、周りは『かなわないから、力になりたい』と思う。それに結果で応えるからすごい」と鳥谷選手の魅力を教えてくれました。
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