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「脱原発、出世に影響あったけど…」元スイス大使、決断の理由
元スイス大使の村田光平さんは、外交官の身で「脱原発」を表明し、現在も各地で原発の危険を訴え続けています。原発推進という「国策」を真っ向から批判して外務省を去った村田さん。原発の是非を巡っては時に「放射脳」などの言葉が使われ、一方的な批判の応酬になりがちです。建設的な議論をするには、何が必要なのか? 異色の元外交官に話を聞きました。
村田光平さんは、1938年に東京で生まれました。1961年に東京大学法学部を卒業し、外交官として外務省に入ります。
フランスに2年間留学し、在アルジェリア公使、在仏公使、在セネガル大使、在スイス大使を歴任しました。いわゆるキャリア外交官のエリートともいえる経歴です。
そんな村田さんが、なぜ脱原発を訴えることになったのでしょう?
村田さんは「在セネガル大使時代(1989-1992)に、太陽光エネルギー事業を推進しました。それが地元でも、とても好評だったんです」と振り返ります。
当時は、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の記憶が色濃い時期でした。
「いい自然エネルギーが得られるのに、なぜ危険な原子力を使わなければならないのか。疑問を持ちました」
その後、原発反対の運動に参加するようになります。1994年に発生した中部電力浜岡原発の放射能漏れ事故では、外交官の身で脱原発を訴えました。
ただ、原発推進は日本政府の「国策」です。村田さんへの風当たりは強くなかったのでしょうか?
「もちろん不安というか、心配はありました」
実際、大使の身分で脱原発を訴えたことで、1998年、当時の労働大臣・甘利明氏から閣僚会議で批判をされ、外務省の官房長から注意を受けたそうです。
※ 当時の労働大臣・甘利明氏が閣僚会議で「大使が原子力政策に反対する文書を持ち回っている」と批判し、「誤解を招くことがありえたので、個人の意見を発表する際に位置付けをより明確にするように」と、外務省の浦辺和好官房長も注意をしました。――引用は『朝日新聞』平成11年4月10日の朝刊より
村田さんは「出世にも影響があったと思います」と振り返ります。
スイス大使の任期終了後、ほかの大使の任命はありませんでした。結局、外務省を辞めて東海学園大学で教えることになりました。
「でも、かえってよかった。使命だと思うことが、より自由にできるようになったからです」
外務省を辞めた12年後の2011年、東日本大震災が起きます。震災に対する政府の対応を巡って村田さんは、特に2020年の東京五輪について批判的です。
「福島原発問題はまだ解決していません。それなのに、政府は、東京五輪を開催することで、人々の関心をそらしたのです」と指摘します。
「政府が東京五輪に費やすお金を、原発事故の処理に回すべきです。五輪を返上して、原発事故の処理に専念するべきです」
東日本大震災から6年。原発の是非を巡っては、断絶も生まれています。異なる意見を持つ人同士が互いを批判し合うだけで終わることが少なくありません。ネット上では、脱原発の意見を「放射脳」などと呼び、他の考えを聞いた上で考えを深める議論が生まれにくくなっています。
そんな状況に対して村田さんは「異なる意見にも返事をするオープンな姿勢が大事」と語ります。
「私は、批判者からの問い合わせにも応じますし、講演会もします」
一方で、村田さんは「激しい行動はとらないし、デモもしません」と言います。
「人道主義を大事にしています。でも、覚悟は持っています。政治やイデオロギーとは絡まらず、各国の指導者や駐日大使にも手紙を送っています。政治家と市民の間の橋渡しになりたいと思っています」
今後について、村田さんは「原発の解決と復興への道のりは長い」と心配しています。
「もし、また東北地方で大きな地震が起きて福島第一原発が被害を受けたら、高濃度の放射線が一気に放出されるかもしれない」
そんな状況に対して必要なことは何か。村田さんは国際協力の重要性をあげます。
「もはや一国だけで解決できる状態ではない。財源だけでなく、技術についても、国際協力が必要です。今後も地震や原子力の専門家たちと一緒に、原発への警告を発信していきたい」
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