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なぜ被災地に「巨大な妊婦」を立たせたのか 写真家が託した希望
高層ビル群の隙間に、東京ドームの後ろに、巨大な妊婦が裸でたたずんでいる――。こんな不思議な作品を発表している女性写真家がいます。写真集「We are here」を出版した馬場磨貴(うまば・まき)さんです。漫画「進撃の巨人」のように破壊するわけでもなく、ただ街に立つ巨大妊婦。創作のきっかけは、6年前の東日本大震災だったと言います。
――妊婦の写真を撮り続けてこられたそうですね。
はい。でも私自身は決して子ども好きではありませんでした。10年ほど前、育児雑誌向けに、産院で出産現場を撮影する仕事が入りました。妊婦が叫び、必死にもがく姿に私がまず思ったのは「この場から逃げたい」。
ですが恐怖を感じながらシャッターを切るうち、産み出すという前へ前へ進むエネルギーに圧倒され、気づけば夢中で撮っていました。
もっと撮影したいと知り合いをたどり、12~13人の出産を個人的に撮りました。出産まで5~6時間待つことも多かったですが、妊婦たちには見る人の視線を跳ね返すような力強さと自由さがあった。「これだ」と手応えがありました。
――作品化を意識し始めたのは、いつごろからですか?
妊婦のヌードを撮り、街の風景と合成した作品をつくり始めたのは7年ほど前からです。
最初、作品中の妊婦は等身大の大きさだったんです。ですが分娩室で感じた力強さは失われ、逆に守ってあげないといけない、か弱い存在に妊婦が見えてしまった。方向性に迷うなかで、起きたのが東日本大震災でした。
――どのような影響を受けましたか?
当時は小さな子どもがいて、お腹にも新しい命が。都内から兵庫の親戚の家に、子どもを連れて逃げました。しかし津波が街を飲み込んでいくニュース映像が流れるなかで、体の内側からも死が押し寄せてきたんです。
――内側からの死というのは・・・
2011年から数年の間に、私自身が授かった命を3度失いました。
――3度、ですか。
それまでは漠然と命は当たり前に生まれ、続いてゆくものだと確信していたんですが、違ったんですね。押しつぶされそうな気持ちでした。自分が虫けらのように弱い存在だと感じました。
そんなときに街を歩いていて突然、大きな妊婦の姿が目に浮かんできたんです。
「ああ、この人に会いたかったんだ」と、まるで、その巨大な妊婦に抱き留められているような温かい気持ちになりました。震災後ずっと写真を撮れずにいたのですが、この光景を作品にしようと、再び妊婦を撮るようになりました。
――その後、福島の被災地にも撮影に行かれています。
そうですね。なぜ私の目に巨大な妊婦が浮かんだのか・・・被災地を訪れて、多くのことに気づかされました。
お腹の我が子を失ったとき、不条理な死、誰も望んでいないはずの死に打ちのめされました。誰にも責任を問えない、ぶつけることができない悲しみです。
でも被災地を巡って、不条理な死は自然の中では普通のことなのだと突きつけられたんです。震災で失われたたくさんの命も、我が子の死も、同じものなのだと。行き場のない悲しみを、たくさんの人が抱いている。それを受け止めてくれる存在が、私にとっては「巨大な妊婦」だったのだと思います。
被災地では、震災で破壊された土地や海岸の写真も撮りましたが、結局使っていません。震災は自然であり、つまり女の体そのものだと感じたからです。それよりむしろ福島第一原発事故で人がいなくなった街など、私たち人間の欲望によって生じた風景に彼女たちを立たせることにしました。
――写真集の締めくくりは、原爆ドームの風景です。ドームの手前の水面にだけ妊婦が映っています。なぜですか?
命を考える意味で広島の写真はどうしても必要でした。後ろに妊婦を仁王立ちにさせてみたりと、構成を試行錯誤しました。
でも、納得できませんでした。結局、人が起こした過去の過ちはもう変えられない。だから対峙するように、妊婦を立たせるのは違うんじゃないか。それで、ただ過去を見つめる存在として、静かにたたずませることにしたんです。
――被写体の妊婦の方を探すのに、苦労はなかったですか。
撮影したのは、臨月の方ばかりです。ウェブサイトでヌード撮影と明記して募集しましたが、みんな、前向きに応募してくれることに驚きましたし、嬉しかった。夫に妊娠中の体の変化が「気持ち悪い」と言われ、その言葉を振り払いたいと応募してきた人もいました。
妊娠は最も女性的な変化なのに、ある意味で女性という枠から下ろされて自由になる部分があります。例えば、街を歩いていても男の人と目が合わなくなる。女という役割や欲望の対象から外される感じがします。被写体の方は、みんなその自由さを楽しんでいるようでした。
――東日本大震災前、弱々しいと判断された等身大の妊婦の写真も、写真集に収録されています。
最初は収録しない予定でした。ですが編集者の要望で改めて見直したら、私自身がその弱々しさを命の一面として受け入れられるようになっていました。
巨大な妊婦という大きな自然に寄り添ううち、命に対して傲慢だった私の心も変わってきたんだと思います。
今は、威圧感も権力の匂いもない、やわらかく血が流れている「巨大な、何もしない人」を日本の色々な場所で展示したいと、切望しています。
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